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いつも通る銀杏並木が、秋が深まって黄金色に輝いていたので、私はコートのポケットからスマホを取り出すとカメラを起動してシャッターを押した。簡易的な、カシャっという音が無機質に響く。瑞々しい緑の葉をつけている時期も美しく、こうして写真を撮ることもあるのだが、はやり黄色に染まってはらはらと散っていく秋の銀杏が私は好きだった。腕を下ろして画面を見ると、まあまあな写りの銀杏並木が画面に収まっていて、私は満足するとスマホをポケットに滑り込ませようとした。
「見事に紅葉していますね。あなたが写真に収めたくなるのも分かるよ」
私は上から降ってきた声に驚いて顔を上げると、一人の男性がゆったりとこちらを見ている。きちんと撫でつけられた黒髪と知的な瞳、痩せた頬に浮かぶ微笑み。品のある声で、彼は言葉を続ける。
「失礼、急に話しかけて済まなかったね。私も写真を撮っていたから、この美しさを共有したくなったんだ」
そう言いながら、彼は手に収まっている持ち重りのしそうなカメラを見せた。恐らく高価であろうそれを前に、スマホで適当に撮った私の一枚が恥ずかしく思える。
「大丈夫です。……きっとそのカメラで撮ったら、とても綺麗な写真になるでしょうね」
「そうかな。君はどんな風にこの景色を撮ったんだい」
「私のはその…スマホで簡単に撮っただけですから」
「いいじゃないか、それも立派な写真だよ。あっちにベンチがあるね。座ろうか」
私は気がつくと、この急に現れた紳士と銀杏並木の中にあるベンチに腰掛けていた。初対面だというのにこんな事になって、まるで手品のようだ。足元には鮮やかに黄色い銀杏の葉が積もっていて、靴の下でカサカサと音を立てる。紳士は私の隣へ軽やかに腰掛けると、柔らかく微笑んだ。綺麗な笑顔。私は不覚にもそう思って、そっと目を逸らす。
「特等席が空いていたね」
そうですね、と答えながら、私はおずおずとスマホをポケットから出すとカメラロールを起動して、先程の一枚を開いた。なんの変哲もない銀杏の写真が現れて、紳士は身体を少し私の方へ傾けて画面を見る。その時ふわりと香水のような良い香りがしたが、私達の間を優しく吹いた風が連れ去ってしまった。
「いい写真だね」
「そうですか?ぱっと撮っただけですから……」
「君の一瞬の感動を捉えた一枚なんだね」
「そんな、大したものじゃありませんよ」
「なぜ?君は色付く葉を美しいと思って写真を撮ったのだろう。それが大切なんだよ。君の心が、何を見ているのか分かるから」
私は徐々に胸がどきどきとしてくるのを感じて落ち着かなくなってきた。この人は何なのだろう、何が目的なのだろう。私のそんな思いを察してか、紳士は ふふ、と笑うと再び口を開く。
「まだ名乗っていなかったね、私は鶴見篤四郎といいます。君は?」
ミョウジナマエです、と答えると いい名だね、やっと知ることができたよ、と言う。
「やっと?」
「うん。私はこの近くに住んでいるのだが、この銀杏並木で写真を撮っている君を何度か見かけてね。どんな人なのかと気になっていたんだ」
鶴見さんはそこで言葉を切ると、黒い瞳でじっと私を見つめてから、ふわりと笑った。
「今日ナマエさんと話せてよかった」
頬が熱くなるのを感じて、私は慌てて視線を自分の手元に落とした。この人は危険だ。これ以上会話をしていたら、自分はこの鶴見という人に飲み込まれてしまうような気がする。そんな不安にかられて、私は 用事がありますのでこれで、と告げると逃げるように立ち上がった。
「お引き止めして悪かったね。また会おう」
鶴見さんはそう言って優雅に笑う。またってどういうことだろう。約束もしていないのに、会える確信でもあるのだろうか。私は軽く会釈をすると、そそくさとその場を立ち去った。
あれからというもの、私はふとした瞬間に銀杏並木の中の鶴見さんを思い返していた。たった数分の出来事だったけれど、私に深い印象を残していった人だった。休日に彼氏と食事をしている時も、銀杏の木が目に入れば鶴見さんの横顔がよみがえってしまう。
「ねえ」
彼に話しかけられて、私は顔を上げた。手元のお皿には、もうすぐ食べ終わりそうなパスタがあって、私はフォークを止める。
「何度も話しかけてたんだけど。楽しくない?」
「そんな事ない。ごめんね」
すると、目の前の男は寂しそうに笑った。
「嘘つかなくていいよ」
私は何も言えなくなってしまって、沈黙から逃れるようにパスタを口に運ぶ。何かが決定的に壊れて、綻びが広がっていくのを感じながら、私は恋人のフォークを持った手元を見ていた。
♢
少しして、恋人には別れを告げられた。上の空で何を考えているのか分からない、もう君は僕を見ていないと思う、と。そう言われて咄嗟に否定できなかった私は、破局を切り出されて当然だ。しかし、多く時間を過ごしてきた人を失うというのはやはり感傷的になる。そんな午後に、私は再び銀杏並木を訪れていた。少しの風で、葉が雪のようにひらひらと落ちていく風景は美しかった。私はスマホを取り出すと、鶴見さんの言葉を思い出しながらカメラを起動する。君の心が、何を見ているかわかるから。今撮った私の写真は、鶴見さんの目にどう映るのだろう。シャッター音が響いて、私は画面に視線を落とした。宙に舞っている銀杏の写真。これをまた、鶴見さんと見られたらいいのに。そしたらどんな言葉をかけてくれるのだろう。そう考えている自分に気が付いて、私は愕然とする。数分しか言葉を交わしていない人に、一体何を期待しているのか。恥ずかしさが込み上げてきて、私はスマホをポケットに仕舞うと銀杏並木を歩き始める。やがて以前鶴見さんと座ったベンチが見えて来たが、私は驚いて足を止めた。柔らかな陽だまりの中で、鶴見さんがベンチに腰掛けて読書をしている。形のいい鼻の横顔が俯いて、熱心に文字を追う姿を私は暫く眺めていた。やがて彼はふと視線を上げると、こちらを見て やあ、と言うと本を閉じる。
「また会えたね」
「は、はい…こんにちは」
私がどぎまぎしながら挨拶すると、鶴見さんは こっちにおいで、と言って自らの横を示した。遠慮がちに腰掛けると、初めて会った時の香水のような良い香りが一瞬鼻をかすめる。彼の手元にある分厚い本は、Братья Карамазовыと題名が書かれていて、私の視線に気がついた鶴見さんが カラマーゾフの兄弟だよ、原文で読むのが好きでね、と言った。彼はロシア語が堪能なようだ。
「また写真を撮ったのかい」
「はい、そうなんです…そしたら鶴見さんがいらっしゃって」
「ふふ、私の事を探してくれたのかな」
図星をつかれて、私は言葉に詰まってしまった。それを鶴見さんは面白そうに眺めると、見せてご覧、と柔らかい声で言う。私が画面を出すと、彼はしばらく静かに眺めていたが、ふと顔を上げると私を見た。真剣な眼差しに、なんだか身動きが取れなくなる。
「何かあった?少し寂しい写真に見えるよ。それに……」
そう言うと、鶴見さんは指先で私の頬にそっと触れた。驚いて硬直するが、不思議と全く嫌ではなかった。
「君もなんだか元気がなさそうだ。やはり写真には心が現れるね」
一瞬触れた指先は離れていって、鶴見さんの膝の上に戻る。私は心臓の音が聞こえてしまうのではないかと錯覚するほど、胸がどくどくと拍動するのを感じた。
「……恋人がいたのですが、最近別れたのです」
「おや、どうして。……話してごらん」
鶴見さんの穏やかな声に導かれるようにして、私は最近の出来事を話した。元恋人に、私の心が分からなくなったと言われたこと。
「原因は、何か思い当たる?」
「それは……はい」
しかし続きを言うことは到底出来なかった。鶴見さんが気になって仕方がないなど、どうして言える事ができようか。
「私には言えない?」
「……言えないです。きっと呆れると思いますし」
絞り出すように言うと、鶴見さんは ふふ、と微笑んだ。場の空気がほどけるような、穏やかな笑い方。
「……恋というものはね、思わぬところに罠があって、知らずに引っかかって抜け出せなくなってしまうものだよ。もがく程に、強く絡みついていく。ナマエさんは私の罠に落ちてきた、可愛らしい子猫といったところだな」
罠ですか、と私が鸚鵡返しにすると、そうだよ、と返事をして鶴見さんはそっと私の手の甲に触れた。
「君は何も悪くない。君を陥れようと罠を張った私が悪いのさ。許してくれるかい?」
私は気がついたら「はい」と答えていて、鶴見さんは満足そうに頷くと ありがとう、と微笑む。
「……しかし、自覚のない罠ほど罪なものはない」
そう言うと、鶴見さんは私の手を取って軽やかに立ち上がった。私は引っ張り上げられるようにしてベンチを立つと、彼の顔を見上げる。
「私もこの銀杏並木が好きでね。ある日撮った写真を現像したら、君が映り込んでいるのを見つけたのさ。その一枚は、他のどれよりも私の心に残った」
彼は痩せた頬に悪戯っぽい笑みを浮かべると、囁くように続けた。
「罠にかかったのは、私の方かもしれないな」
私はもう何も言えずに、黙って鶴見さんの言葉を聞くばかりだった。どうしようもなく、彼の言葉が心に染み入ってくるのを感じていた。今に私はこの人の虜になってしまう。そんな確信が広がっていき、心が溶けていくような熱さが胸一杯に溢れた。
「さあ、そろそろ冷えてきた。風邪を引いてしまうから、カフェにでもいって温かいものを頂こう。来てくれるね?」
私は頷くと、鶴見さんに優しく手を引かれて銀杏並木の下を歩く。黄色の絨毯がカサカサと音を立て、鶴見さんの艶のある革靴がひらりと葉をまきあげるのが見えた。私が彼の掌をそっと握り返してみると、包み込むように力を込められる。私はきっと、これからコーヒーの写真を撮ったり風景の写真を撮ったりするのだろう。鶴見さんと食べたもの、見たものがフォルダに溜まっていくのだろう。それを見たらあなたはきっと、私の心が鶴見さんを見つめている事に気がつくのでしょう。見えてきたカフェの看板を眺めながら、私はそんな事を考えた。
おわり
「見事に紅葉していますね。あなたが写真に収めたくなるのも分かるよ」
私は上から降ってきた声に驚いて顔を上げると、一人の男性がゆったりとこちらを見ている。きちんと撫でつけられた黒髪と知的な瞳、痩せた頬に浮かぶ微笑み。品のある声で、彼は言葉を続ける。
「失礼、急に話しかけて済まなかったね。私も写真を撮っていたから、この美しさを共有したくなったんだ」
そう言いながら、彼は手に収まっている持ち重りのしそうなカメラを見せた。恐らく高価であろうそれを前に、スマホで適当に撮った私の一枚が恥ずかしく思える。
「大丈夫です。……きっとそのカメラで撮ったら、とても綺麗な写真になるでしょうね」
「そうかな。君はどんな風にこの景色を撮ったんだい」
「私のはその…スマホで簡単に撮っただけですから」
「いいじゃないか、それも立派な写真だよ。あっちにベンチがあるね。座ろうか」
私は気がつくと、この急に現れた紳士と銀杏並木の中にあるベンチに腰掛けていた。初対面だというのにこんな事になって、まるで手品のようだ。足元には鮮やかに黄色い銀杏の葉が積もっていて、靴の下でカサカサと音を立てる。紳士は私の隣へ軽やかに腰掛けると、柔らかく微笑んだ。綺麗な笑顔。私は不覚にもそう思って、そっと目を逸らす。
「特等席が空いていたね」
そうですね、と答えながら、私はおずおずとスマホをポケットから出すとカメラロールを起動して、先程の一枚を開いた。なんの変哲もない銀杏の写真が現れて、紳士は身体を少し私の方へ傾けて画面を見る。その時ふわりと香水のような良い香りがしたが、私達の間を優しく吹いた風が連れ去ってしまった。
「いい写真だね」
「そうですか?ぱっと撮っただけですから……」
「君の一瞬の感動を捉えた一枚なんだね」
「そんな、大したものじゃありませんよ」
「なぜ?君は色付く葉を美しいと思って写真を撮ったのだろう。それが大切なんだよ。君の心が、何を見ているのか分かるから」
私は徐々に胸がどきどきとしてくるのを感じて落ち着かなくなってきた。この人は何なのだろう、何が目的なのだろう。私のそんな思いを察してか、紳士は ふふ、と笑うと再び口を開く。
「まだ名乗っていなかったね、私は鶴見篤四郎といいます。君は?」
ミョウジナマエです、と答えると いい名だね、やっと知ることができたよ、と言う。
「やっと?」
「うん。私はこの近くに住んでいるのだが、この銀杏並木で写真を撮っている君を何度か見かけてね。どんな人なのかと気になっていたんだ」
鶴見さんはそこで言葉を切ると、黒い瞳でじっと私を見つめてから、ふわりと笑った。
「今日ナマエさんと話せてよかった」
頬が熱くなるのを感じて、私は慌てて視線を自分の手元に落とした。この人は危険だ。これ以上会話をしていたら、自分はこの鶴見という人に飲み込まれてしまうような気がする。そんな不安にかられて、私は 用事がありますのでこれで、と告げると逃げるように立ち上がった。
「お引き止めして悪かったね。また会おう」
鶴見さんはそう言って優雅に笑う。またってどういうことだろう。約束もしていないのに、会える確信でもあるのだろうか。私は軽く会釈をすると、そそくさとその場を立ち去った。
あれからというもの、私はふとした瞬間に銀杏並木の中の鶴見さんを思い返していた。たった数分の出来事だったけれど、私に深い印象を残していった人だった。休日に彼氏と食事をしている時も、銀杏の木が目に入れば鶴見さんの横顔がよみがえってしまう。
「ねえ」
彼に話しかけられて、私は顔を上げた。手元のお皿には、もうすぐ食べ終わりそうなパスタがあって、私はフォークを止める。
「何度も話しかけてたんだけど。楽しくない?」
「そんな事ない。ごめんね」
すると、目の前の男は寂しそうに笑った。
「嘘つかなくていいよ」
私は何も言えなくなってしまって、沈黙から逃れるようにパスタを口に運ぶ。何かが決定的に壊れて、綻びが広がっていくのを感じながら、私は恋人のフォークを持った手元を見ていた。
♢
少しして、恋人には別れを告げられた。上の空で何を考えているのか分からない、もう君は僕を見ていないと思う、と。そう言われて咄嗟に否定できなかった私は、破局を切り出されて当然だ。しかし、多く時間を過ごしてきた人を失うというのはやはり感傷的になる。そんな午後に、私は再び銀杏並木を訪れていた。少しの風で、葉が雪のようにひらひらと落ちていく風景は美しかった。私はスマホを取り出すと、鶴見さんの言葉を思い出しながらカメラを起動する。君の心が、何を見ているかわかるから。今撮った私の写真は、鶴見さんの目にどう映るのだろう。シャッター音が響いて、私は画面に視線を落とした。宙に舞っている銀杏の写真。これをまた、鶴見さんと見られたらいいのに。そしたらどんな言葉をかけてくれるのだろう。そう考えている自分に気が付いて、私は愕然とする。数分しか言葉を交わしていない人に、一体何を期待しているのか。恥ずかしさが込み上げてきて、私はスマホをポケットに仕舞うと銀杏並木を歩き始める。やがて以前鶴見さんと座ったベンチが見えて来たが、私は驚いて足を止めた。柔らかな陽だまりの中で、鶴見さんがベンチに腰掛けて読書をしている。形のいい鼻の横顔が俯いて、熱心に文字を追う姿を私は暫く眺めていた。やがて彼はふと視線を上げると、こちらを見て やあ、と言うと本を閉じる。
「また会えたね」
「は、はい…こんにちは」
私がどぎまぎしながら挨拶すると、鶴見さんは こっちにおいで、と言って自らの横を示した。遠慮がちに腰掛けると、初めて会った時の香水のような良い香りが一瞬鼻をかすめる。彼の手元にある分厚い本は、Братья Карамазовыと題名が書かれていて、私の視線に気がついた鶴見さんが カラマーゾフの兄弟だよ、原文で読むのが好きでね、と言った。彼はロシア語が堪能なようだ。
「また写真を撮ったのかい」
「はい、そうなんです…そしたら鶴見さんがいらっしゃって」
「ふふ、私の事を探してくれたのかな」
図星をつかれて、私は言葉に詰まってしまった。それを鶴見さんは面白そうに眺めると、見せてご覧、と柔らかい声で言う。私が画面を出すと、彼はしばらく静かに眺めていたが、ふと顔を上げると私を見た。真剣な眼差しに、なんだか身動きが取れなくなる。
「何かあった?少し寂しい写真に見えるよ。それに……」
そう言うと、鶴見さんは指先で私の頬にそっと触れた。驚いて硬直するが、不思議と全く嫌ではなかった。
「君もなんだか元気がなさそうだ。やはり写真には心が現れるね」
一瞬触れた指先は離れていって、鶴見さんの膝の上に戻る。私は心臓の音が聞こえてしまうのではないかと錯覚するほど、胸がどくどくと拍動するのを感じた。
「……恋人がいたのですが、最近別れたのです」
「おや、どうして。……話してごらん」
鶴見さんの穏やかな声に導かれるようにして、私は最近の出来事を話した。元恋人に、私の心が分からなくなったと言われたこと。
「原因は、何か思い当たる?」
「それは……はい」
しかし続きを言うことは到底出来なかった。鶴見さんが気になって仕方がないなど、どうして言える事ができようか。
「私には言えない?」
「……言えないです。きっと呆れると思いますし」
絞り出すように言うと、鶴見さんは ふふ、と微笑んだ。場の空気がほどけるような、穏やかな笑い方。
「……恋というものはね、思わぬところに罠があって、知らずに引っかかって抜け出せなくなってしまうものだよ。もがく程に、強く絡みついていく。ナマエさんは私の罠に落ちてきた、可愛らしい子猫といったところだな」
罠ですか、と私が鸚鵡返しにすると、そうだよ、と返事をして鶴見さんはそっと私の手の甲に触れた。
「君は何も悪くない。君を陥れようと罠を張った私が悪いのさ。許してくれるかい?」
私は気がついたら「はい」と答えていて、鶴見さんは満足そうに頷くと ありがとう、と微笑む。
「……しかし、自覚のない罠ほど罪なものはない」
そう言うと、鶴見さんは私の手を取って軽やかに立ち上がった。私は引っ張り上げられるようにしてベンチを立つと、彼の顔を見上げる。
「私もこの銀杏並木が好きでね。ある日撮った写真を現像したら、君が映り込んでいるのを見つけたのさ。その一枚は、他のどれよりも私の心に残った」
彼は痩せた頬に悪戯っぽい笑みを浮かべると、囁くように続けた。
「罠にかかったのは、私の方かもしれないな」
私はもう何も言えずに、黙って鶴見さんの言葉を聞くばかりだった。どうしようもなく、彼の言葉が心に染み入ってくるのを感じていた。今に私はこの人の虜になってしまう。そんな確信が広がっていき、心が溶けていくような熱さが胸一杯に溢れた。
「さあ、そろそろ冷えてきた。風邪を引いてしまうから、カフェにでもいって温かいものを頂こう。来てくれるね?」
私は頷くと、鶴見さんに優しく手を引かれて銀杏並木の下を歩く。黄色の絨毯がカサカサと音を立て、鶴見さんの艶のある革靴がひらりと葉をまきあげるのが見えた。私が彼の掌をそっと握り返してみると、包み込むように力を込められる。私はきっと、これからコーヒーの写真を撮ったり風景の写真を撮ったりするのだろう。鶴見さんと食べたもの、見たものがフォルダに溜まっていくのだろう。それを見たらあなたはきっと、私の心が鶴見さんを見つめている事に気がつくのでしょう。見えてきたカフェの看板を眺めながら、私はそんな事を考えた。
おわり
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