灼熱
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奉天会戦、日本海海戦、樺太作戦と日本の勝利で終わり、明治三十八年九月五日に日露講和が成立、終戦となりました。
佐一さんからの手紙には、復員は春頃になると書いてあり、私はその日を首を長くして待っておりました。
そして道端にレンゲが咲くようになった頃、玄関先に一人の兵隊さんが立っているのが見えました。
何か言葉を発するでもなく、じっと立っていらっしゃいます。
私はその方に駆け寄って、顏を見上げましました。
「佐一さん」
顏には大きな傷が走り、目は暗く光を失ったかのようでしたが、紛れもなく佐一さんでした。
良かった、本当に良かった。生きて帰って来てくれた。
嬉しさと安堵で、淚が込み上げてきます。
「……ナマエさん」
佐一さんは絞り出すような声で名前を呼ぶと、両手で私の腕を掴みました。
その手は少し震えているように思いました。
「君は、俺のことを忘れないでいてくれる?」
私は咄嗟に、佐一さんの両手を手で握りしめました。
乾いていて、荒れた手の感触。その全てを確かめたくて、私は必死で佐一さんの手を握りました。
「勿論です。ずっと…ずっと、貴方のことを待っておりました」
佐一さんは堪えるように唇を噛むと、ありがとう、と仰いました。
♢
私は佐一さんの家に、彼と一緒に入りました。
お茶を淹れて出すと、佐一さんは湯呑みを静かに口元へ持っていき、一口飲みました。
「美味しい。本当に」
私は佐一さんが目の前にいる亊が夢のようでした。
瞬きで一瞬目を閉じた隙に、居なくなってしまうのではと思った程でした。
「……これから、佐一さんはどうするのですか」
佐一さんは、うん、と頷いた後、少し黙ってから口を開きました。
「除隊後、北海道に行く。戦死した親友の、最後の頼みだったんだ」
佐一さんは、お金がどうしても必要で、砂金を求めて北海道へ行くのだと言いました。
なんて遠い場所に行こうとしているのでしょう。
私は先程握った佐一さんの手が、また遠くに離れていってしまうと思うと悲しくなりました。
「私も連れて行って下さい」
気付いた時には、そう言っていました。
自分の発言に愕きましたが、訂正しようとは思いませんでした。
「駄目だよ。砂金だって、見つかるか分からないし……それに、その金の目的は…前に話した、目を病んだあのひとの為なんだ。君を巻き込むわけにはいかない」
佐一さんはそこで言葉を切ると、辛そうに続けました。
「ナマエさん、君には本当に救われたよ。戦地に手紙を送ってくれたよね。嬉しかったし、人の温かさに触れて生き返るような気もした。生きて君に会いたいと思った。だからこそ……こんな博打に付き合わせたくないんだ。ナマエさんだったら、きっといい人から縁談がくるはずだから」
佐一さんは、ひっそりとした笑みを浮かべて言いました。
出征前のひなたのような笑顔は姿を隠してしまって、嗚呼、このひとは酷く傷付き、苦しんでいるのだと思いました。
もう一度、前のように笑って。どうか、一人にならないで。
貴方はとても傷付いて、癒しが必要なのだから。癒されても、良いのだから。
戦争で、佐一さんの心には深い深い傷が残ったようでした。
私はそういう彼を、どうしても一人にしたくありませんでした。
「私も貴方に会いたかった。もう貴方の手を離したくありません。だから、連れて行って」
佐一さんは、何か言いたげに私をじっと見返していましたが、私が意思を変えるつもりはないと悟ると、本当にいいの、と呟くように聞きました。
私は、はい、と答えると佐一さんの手にそっと触れました。
「除隊する日を待っていますね。そしたら、一緒に北海道へ行きましょう」
佐一さんは無言で、私の唇を塞ぎました。
そのまま体重をかけると、私をそっと横たえました。
私は目を閉じて、全てを佐一さんに委ねました。
彼の指や唇や舌が、躰のそこかしこに触れているのを感じました。
佐一さんの躰に触れると、無数の凹凸があります。
それを見つめていると、佐一さんはまた悲しげな表情を浮かべました。
「傷、怖い?」
いいえ、と私は答えると、その凹凸をそっと撫ぜました。
「怖いなんて思いません。佐一さんの一部なのですから。……この傷で、本当によく帰ってきて下さいました」
最後の方は思わず淚が溢れると、佐一さんは少し微笑んでから、淚を拭ってくれました。
「俺は不死身だって言ったでしょ」
もう不安にならないで、と言ってから、佐一さんは優しく私を抱きました。硝子を触るように優しく。
彼の体温や、呼吸、汗。その全ては佐一さんが生きている証で、私はそれを逃すまいと手を伸ばしました。
佐一さんも、私をひしと腕に包み込みました。
火が燃え盛るように互いを求めるこの熱は、生に満ち溢れておりました。
♢
佐一さんが除隊してすぐに、私達は列車のホームへ向かいました。
目指すは北海道、小樽です。
出発前、佐一さんは私の両親に挨拶してくださいました。
娘さんを僕にください、倖せにしますと。
両親は縁談話を進めていたようで、いきなり現れた佐一さんに怒って口もきいてくれませんでした。
私は家出同然に出ていきましたが、後悔はありません。
私はこのひとを倖せにしたいのです。
そのためにこれからの人生を生きたいのです。
「行こうか、ナマエさん」
私は はい、と答えると、心の中で故郷にさようならを言って、列車に乗り込みました。
まもなく動き出して、東京が遠ざかっていきます。
でも私は平気でした。隣に、佐一さんがいますから。
「ナマエさんのことは、これから一生俺が守るよ。絶対に」
そう言った佐一さんの目は真剣で、私は立ち所に彼の言葉を信じました。
このひとがいれば、どんな遠くだってちっとも怖くない。
私達は身を寄せ合って、北へ北へと向かいました。
おわり
佐一さんからの手紙には、復員は春頃になると書いてあり、私はその日を首を長くして待っておりました。
そして道端にレンゲが咲くようになった頃、玄関先に一人の兵隊さんが立っているのが見えました。
何か言葉を発するでもなく、じっと立っていらっしゃいます。
私はその方に駆け寄って、顏を見上げましました。
「佐一さん」
顏には大きな傷が走り、目は暗く光を失ったかのようでしたが、紛れもなく佐一さんでした。
良かった、本当に良かった。生きて帰って来てくれた。
嬉しさと安堵で、淚が込み上げてきます。
「……ナマエさん」
佐一さんは絞り出すような声で名前を呼ぶと、両手で私の腕を掴みました。
その手は少し震えているように思いました。
「君は、俺のことを忘れないでいてくれる?」
私は咄嗟に、佐一さんの両手を手で握りしめました。
乾いていて、荒れた手の感触。その全てを確かめたくて、私は必死で佐一さんの手を握りました。
「勿論です。ずっと…ずっと、貴方のことを待っておりました」
佐一さんは堪えるように唇を噛むと、ありがとう、と仰いました。
♢
私は佐一さんの家に、彼と一緒に入りました。
お茶を淹れて出すと、佐一さんは湯呑みを静かに口元へ持っていき、一口飲みました。
「美味しい。本当に」
私は佐一さんが目の前にいる亊が夢のようでした。
瞬きで一瞬目を閉じた隙に、居なくなってしまうのではと思った程でした。
「……これから、佐一さんはどうするのですか」
佐一さんは、うん、と頷いた後、少し黙ってから口を開きました。
「除隊後、北海道に行く。戦死した親友の、最後の頼みだったんだ」
佐一さんは、お金がどうしても必要で、砂金を求めて北海道へ行くのだと言いました。
なんて遠い場所に行こうとしているのでしょう。
私は先程握った佐一さんの手が、また遠くに離れていってしまうと思うと悲しくなりました。
「私も連れて行って下さい」
気付いた時には、そう言っていました。
自分の発言に愕きましたが、訂正しようとは思いませんでした。
「駄目だよ。砂金だって、見つかるか分からないし……それに、その金の目的は…前に話した、目を病んだあのひとの為なんだ。君を巻き込むわけにはいかない」
佐一さんはそこで言葉を切ると、辛そうに続けました。
「ナマエさん、君には本当に救われたよ。戦地に手紙を送ってくれたよね。嬉しかったし、人の温かさに触れて生き返るような気もした。生きて君に会いたいと思った。だからこそ……こんな博打に付き合わせたくないんだ。ナマエさんだったら、きっといい人から縁談がくるはずだから」
佐一さんは、ひっそりとした笑みを浮かべて言いました。
出征前のひなたのような笑顔は姿を隠してしまって、嗚呼、このひとは酷く傷付き、苦しんでいるのだと思いました。
もう一度、前のように笑って。どうか、一人にならないで。
貴方はとても傷付いて、癒しが必要なのだから。癒されても、良いのだから。
戦争で、佐一さんの心には深い深い傷が残ったようでした。
私はそういう彼を、どうしても一人にしたくありませんでした。
「私も貴方に会いたかった。もう貴方の手を離したくありません。だから、連れて行って」
佐一さんは、何か言いたげに私をじっと見返していましたが、私が意思を変えるつもりはないと悟ると、本当にいいの、と呟くように聞きました。
私は、はい、と答えると佐一さんの手にそっと触れました。
「除隊する日を待っていますね。そしたら、一緒に北海道へ行きましょう」
佐一さんは無言で、私の唇を塞ぎました。
そのまま体重をかけると、私をそっと横たえました。
私は目を閉じて、全てを佐一さんに委ねました。
彼の指や唇や舌が、躰のそこかしこに触れているのを感じました。
佐一さんの躰に触れると、無数の凹凸があります。
それを見つめていると、佐一さんはまた悲しげな表情を浮かべました。
「傷、怖い?」
いいえ、と私は答えると、その凹凸をそっと撫ぜました。
「怖いなんて思いません。佐一さんの一部なのですから。……この傷で、本当によく帰ってきて下さいました」
最後の方は思わず淚が溢れると、佐一さんは少し微笑んでから、淚を拭ってくれました。
「俺は不死身だって言ったでしょ」
もう不安にならないで、と言ってから、佐一さんは優しく私を抱きました。硝子を触るように優しく。
彼の体温や、呼吸、汗。その全ては佐一さんが生きている証で、私はそれを逃すまいと手を伸ばしました。
佐一さんも、私をひしと腕に包み込みました。
火が燃え盛るように互いを求めるこの熱は、生に満ち溢れておりました。
♢
佐一さんが除隊してすぐに、私達は列車のホームへ向かいました。
目指すは北海道、小樽です。
出発前、佐一さんは私の両親に挨拶してくださいました。
娘さんを僕にください、倖せにしますと。
両親は縁談話を進めていたようで、いきなり現れた佐一さんに怒って口もきいてくれませんでした。
私は家出同然に出ていきましたが、後悔はありません。
私はこのひとを倖せにしたいのです。
そのためにこれからの人生を生きたいのです。
「行こうか、ナマエさん」
私は はい、と答えると、心の中で故郷にさようならを言って、列車に乗り込みました。
まもなく動き出して、東京が遠ざかっていきます。
でも私は平気でした。隣に、佐一さんがいますから。
「ナマエさんのことは、これから一生俺が守るよ。絶対に」
そう言った佐一さんの目は真剣で、私は立ち所に彼の言葉を信じました。
このひとがいれば、どんな遠くだってちっとも怖くない。
私達は身を寄せ合って、北へ北へと向かいました。
おわり
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