灼熱
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七月十日、浅草寺では毎年恒例のほおづき市が開かれて、参拝客でごった返しております。
がやがやした雜踏の隙間で、さりさり、と風鈴が涼しい音を立てたり、蝉がジワジワと鳴いていたり、辺り一面は夏の音で溢れておりました。
私と杉元さんはその雜踏の一部となって、人の間を縫うように歩いております。
「すごい人だな…大丈夫?」
「はい」
至る所に風鈴がつけられたほおづきの鉢が並んでいて綺麗です。
見上げると、着物の襟から汗をかいた杉元さんの首筋が見えて、私はそっと目を逸らしました。
押し合いへし合い、ようやく観音様へ参拝を終えると、私たちは屋台でラムネを買って一息つく亊に致しました。
人気の少ない木陰を見つけて、瓶に入ったラムネを一口飮みますと、ビリっと泡が弾けるような刺激が舌を刺します。
その後に甘さと爽やかさが広がって、まさに夏の味がしました。
杉元さんはごくごくと一気に半分くらい飮んでから、うまい、と言いました。
「でもどうして今日誘ってくれたの?」
杉元さんに問われて、私は躊躇しましたが、思い切って口を開きました。
「今日が四万六千日 だからです。今日一日のお参りで、一生分の功徳があるそうなのです」
杉元さんは、ふぅん、と腑に落ちないような相槌を打ちます。
「……ですから、杉元さんが兵隊さんになっても…一生、お守り下さるようお願いしました」
私がやっとの思いで言い終わりますと、杉元さんは暫く私の方を見ているような気がしました。
俯いていましたので、はっきりと見た訳ではないのですけれど。
「ありがとう。俺は不死身だから……もし戦争になっても、必ず生きて帰ってくるさ」
そう言った杉元さんの笑顔はやっぱりひなたのように優しくて、待ち受けているであろう過酷な運命を、微塵も感じさせないような温もりがありました。
「きっと…きっとですよ」
私はそう呟くように言ってから、残っているラムネをゴクリと飮みました。
杉元さんと飮んだラムネの味を、ずっと覚えていたいと思いながら。
♢
季節はあっという間に巡って、少しづつ空気は冷えていき、秋に入った頃には新聞各紙でも開戦論一辺倒となり、春の終わりに感じた懸念が現実になろうとしておりました。
そうしているうちに、東京にも木枯らしが吹くようになって、師走となりました。
露西亞との緊張状態は、益々如実になるばかりです。
ついに杉元さんが入営する日の前夜、私は迷いに迷って、彼の家を訪ねることに致しました。
場所は、ほおづき市の帰りに別れた時に覚えておりました。
入営前夜ですから、きっとご近所さんや職場の方々が賑やかにお祝いしている亊と考えて、私はお酒を少しばかり買って向かいました。
ところが、彼の家はしんと静かです。
緊張しながら戸を叩きますと、はい、と返事が聞こえて引戸が開けられました。
お酒を呑んでいたのか、少し頬が赧らんでいました。
さらさらと綺麗だった髪は、入営を前にすっきりと丸められて、なんだか違う人のようです。
「ミョウジさん?どうして……ああ、もしかして入営前だから来てくれたの?」
はい、と答えて、手に持った酒瓶をぎゅっと握りしめました。
「さっきまで近所の人とか来てくれてたんだけど、丁度帰ったところなんだよね。だから俺一人で……」
杉元さんは、私と二人きりになる亊を、悩んでおられるようでした。
たしかに、それを誰かに見られたらあっという間に知れ渡ってしまうでしょう。
でも、私はそれでも構いませんでした。
なんて蓮っ葉な女だとお思いでしょう。
しかしあの時の私は、恋の焔に心を灼かれてれていたのです。
私はそれで構いません、と申し上げると、杉元さんのお返事も聞かずに、玄関へ入ってそのまま下駄を脱いで上がりました。
杉元さんは呆気にとられたように私を見ていましたが、軈 て戸を閉めると私の隣へ腰を下ろしました。
「…来てくれてありがとう」
いいえ、というと、私はお猪口を二つ借りて御祝いのお酒を注ぎました。
私の好きな此の方は、明日には兵隊にとられてしまう。しかもきっと、そう遠くないうちに出征なさる。
そう思うと、御祝いしなくてはならないのに、どうしても悲しい気持ちが込み上げます。
杉元さんはお猪口を手に取ると、口元に運んで一口飲みました。
私も唇つけてみると、すっきりとした辛味のあとに日本酒の甘い香りが鼻に抜けていきました。
「杉元さん。…もし、出征なさる亊になったら電報を打って下さいませんか」
「どうして」
「……貴方のお帰りを待ちたいからです」
杉元さんは長い間黙ってから、手酌でお猪口を満たすと、くい、と一息に飲み込んで私に向き直りました。
「ミョウジさん。俺の話、少し聞いてくれる」
私は頷くと、彼が語る言葉にじっと耳を傾けました。
がやがやした雜踏の隙間で、さりさり、と風鈴が涼しい音を立てたり、蝉がジワジワと鳴いていたり、辺り一面は夏の音で溢れておりました。
私と杉元さんはその雜踏の一部となって、人の間を縫うように歩いております。
「すごい人だな…大丈夫?」
「はい」
至る所に風鈴がつけられたほおづきの鉢が並んでいて綺麗です。
見上げると、着物の襟から汗をかいた杉元さんの首筋が見えて、私はそっと目を逸らしました。
押し合いへし合い、ようやく観音様へ参拝を終えると、私たちは屋台でラムネを買って一息つく亊に致しました。
人気の少ない木陰を見つけて、瓶に入ったラムネを一口飮みますと、ビリっと泡が弾けるような刺激が舌を刺します。
その後に甘さと爽やかさが広がって、まさに夏の味がしました。
杉元さんはごくごくと一気に半分くらい飮んでから、うまい、と言いました。
「でもどうして今日誘ってくれたの?」
杉元さんに問われて、私は躊躇しましたが、思い切って口を開きました。
「今日が
杉元さんは、ふぅん、と腑に落ちないような相槌を打ちます。
「……ですから、杉元さんが兵隊さんになっても…一生、お守り下さるようお願いしました」
私がやっとの思いで言い終わりますと、杉元さんは暫く私の方を見ているような気がしました。
俯いていましたので、はっきりと見た訳ではないのですけれど。
「ありがとう。俺は不死身だから……もし戦争になっても、必ず生きて帰ってくるさ」
そう言った杉元さんの笑顔はやっぱりひなたのように優しくて、待ち受けているであろう過酷な運命を、微塵も感じさせないような温もりがありました。
「きっと…きっとですよ」
私はそう呟くように言ってから、残っているラムネをゴクリと飮みました。
杉元さんと飮んだラムネの味を、ずっと覚えていたいと思いながら。
♢
季節はあっという間に巡って、少しづつ空気は冷えていき、秋に入った頃には新聞各紙でも開戦論一辺倒となり、春の終わりに感じた懸念が現実になろうとしておりました。
そうしているうちに、東京にも木枯らしが吹くようになって、師走となりました。
露西亞との緊張状態は、益々如実になるばかりです。
ついに杉元さんが入営する日の前夜、私は迷いに迷って、彼の家を訪ねることに致しました。
場所は、ほおづき市の帰りに別れた時に覚えておりました。
入営前夜ですから、きっとご近所さんや職場の方々が賑やかにお祝いしている亊と考えて、私はお酒を少しばかり買って向かいました。
ところが、彼の家はしんと静かです。
緊張しながら戸を叩きますと、はい、と返事が聞こえて引戸が開けられました。
お酒を呑んでいたのか、少し頬が赧らんでいました。
さらさらと綺麗だった髪は、入営を前にすっきりと丸められて、なんだか違う人のようです。
「ミョウジさん?どうして……ああ、もしかして入営前だから来てくれたの?」
はい、と答えて、手に持った酒瓶をぎゅっと握りしめました。
「さっきまで近所の人とか来てくれてたんだけど、丁度帰ったところなんだよね。だから俺一人で……」
杉元さんは、私と二人きりになる亊を、悩んでおられるようでした。
たしかに、それを誰かに見られたらあっという間に知れ渡ってしまうでしょう。
でも、私はそれでも構いませんでした。
なんて蓮っ葉な女だとお思いでしょう。
しかしあの時の私は、恋の焔に心を灼かれてれていたのです。
私はそれで構いません、と申し上げると、杉元さんのお返事も聞かずに、玄関へ入ってそのまま下駄を脱いで上がりました。
杉元さんは呆気にとられたように私を見ていましたが、
「…来てくれてありがとう」
いいえ、というと、私はお猪口を二つ借りて御祝いのお酒を注ぎました。
私の好きな此の方は、明日には兵隊にとられてしまう。しかもきっと、そう遠くないうちに出征なさる。
そう思うと、御祝いしなくてはならないのに、どうしても悲しい気持ちが込み上げます。
杉元さんはお猪口を手に取ると、口元に運んで一口飲みました。
私も唇つけてみると、すっきりとした辛味のあとに日本酒の甘い香りが鼻に抜けていきました。
「杉元さん。…もし、出征なさる亊になったら電報を打って下さいませんか」
「どうして」
「……貴方のお帰りを待ちたいからです」
杉元さんは長い間黙ってから、手酌でお猪口を満たすと、くい、と一息に飲み込んで私に向き直りました。
「ミョウジさん。俺の話、少し聞いてくれる」
私は頷くと、彼が語る言葉にじっと耳を傾けました。