灼熱
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明治三十六年になって、直ぐの事でした。
寒さ厳しいとき、お勤め先の書店に一人の男性がいらっしゃいました。
整った顔立ちで、髮がさらさらときれいなひとでした。
ついつい目で追っていますと、彼は一冊の雜誌を持って私の持ち場である勘定場に来ます。
何を買うのかしらと思って手元を見ていましたら、差し出されたのは少女界でした。
少女界といえば、去年創刊號が発売された我が国初めての少女雜誌です。
私も愛読しておりまして、意外なお買い物に驚いて彼の顏を見てしまいますと、視線に気づいたのか少し恥ずかしそうになさって目を逸らしました。
そしてお勘定が済むと足早に立ち去ってしまわれたので、嗚呼、はしたない亊をしてしまったわと後悔したものです。
もしかして、二度といらっしゃらないかもと少し残念に思っていましたら、少女界の発売日にまた彼の姿を見つけることができました。
その時は自分でも意外なほどに嬉しくて、あら、もしかして私は恋をしているのかしら、なんて浮かれてしまいました。
だって、彼の伏せた目元や雜誌を持った手元なんかが、何時も目の奧にちらちらとしていましたから。
そんな風にあの少女雜誌のひとを思い返していたからしょうか、少し温かくなって来た或る日に上野恩賜公園を散步しておりますと、見覚えのある方がベンチに座っているのが見えました。
間違いありません、あのひとです。
私は思わず、彼に声をかけました。
彼の方でも、私を覚えて下さっていて、心がなんだかふわふわと浮き上がるような気が致しました。
「君は、本屋さんの…」
はい、と答えますと、彼は参ったなあと仰いました。
「俺みたいな男が、あんな雜誌買ってたら目立つよね」
そう言って照れ臭そうに頬を掻いた姿に、私の心はすっかり舞い上がってしまいました。
この方のことをもっと知りたい。私はそんな慾が出てしまって、お隣に座っても宜しいですかと聞きますと、少し躊躇した後に いいよ、とおっしゃいました。
私は図々しくも腰掛けると、胸がどきどきとするのを感じます。
「……雜誌は、妹さんとかに買ってらっしゃるのですか」
「いや、家族は結核で亡くしているから。俺が読んでいるんだよ」
「…御免なさい。お気の毒に……」
いいんだ、と彼は言うと、優しく微笑みました。
それはひなたのように温かさのある表情でしたが、ひっそりとした憂いが含まれていて、心の奥がぎゅうと締め付けられるような気が致しました。
その瞬間に、このひとは私の初恋の方に成ったのです。
それから私たちは、他愛のない亊をとりとめもなくお話して、また書店でと言ってお別れしました。
この日から、お勤めが楽しみでしょうがなくなったのは、言うまでもありません。
♢
あれから数回、書店で顏を合わせました。
雜誌を買われていく亊もありましたが、近くに来たから、と少しお話だけする亊もございました。
そんな交流の中で知りましたのは、お名前は杉元佐一さん、好きな食べ物は干し柿、嫌いなものは蝗 、という亊くらいでしたが、少しでも彼を知る亊ができるのは嬉しいもので、私の想いは日に日に募りました。
そして、上野恩賜公園の桜もすっかり散ってしまった或る日に、私たちは初めて言葉を交わしたベンチに座っておりました。
私は最近あった亊やら、読んだ本についてお話しして、そんな取り留めのない内容を杉元さんは うんうん、と相槌を打ちながら聞いて下さいました。
会話が少し途切れて靜かになったとき、杉元さんは前を見ていた視線を私に向けてから口を開きました。
「俺はこのあいだ、徴兵検査を受けて来たんだ。……甲種合格で、十二月に歩兵聯隊へ入営が決まったよ」
「それは…御目出度う御座います」
甲種合格といえば、大変名誉なことです。
しかし日本国内では三国干渉を機に露西亞への憎悪を強め、今年に入ってから両国の関係は悪化するばかりで、露西亞との戦争やむなしとの気運が高まっておりました。
この時期に入営となると、出征する亊になるやもしれません。
そんな予感が私達を包みました。
「娑婆の生活も、あと半年くらいか」
杉元さんは少し戯けた調子で言いましたが、仄暗い影が忍び寄ってくるのを、私達は確実に感じたのでした。
寒さ厳しいとき、お勤め先の書店に一人の男性がいらっしゃいました。
整った顔立ちで、髮がさらさらときれいなひとでした。
ついつい目で追っていますと、彼は一冊の雜誌を持って私の持ち場である勘定場に来ます。
何を買うのかしらと思って手元を見ていましたら、差し出されたのは少女界でした。
少女界といえば、去年創刊號が発売された我が国初めての少女雜誌です。
私も愛読しておりまして、意外なお買い物に驚いて彼の顏を見てしまいますと、視線に気づいたのか少し恥ずかしそうになさって目を逸らしました。
そしてお勘定が済むと足早に立ち去ってしまわれたので、嗚呼、はしたない亊をしてしまったわと後悔したものです。
もしかして、二度といらっしゃらないかもと少し残念に思っていましたら、少女界の発売日にまた彼の姿を見つけることができました。
その時は自分でも意外なほどに嬉しくて、あら、もしかして私は恋をしているのかしら、なんて浮かれてしまいました。
だって、彼の伏せた目元や雜誌を持った手元なんかが、何時も目の奧にちらちらとしていましたから。
そんな風にあの少女雜誌のひとを思い返していたからしょうか、少し温かくなって来た或る日に上野恩賜公園を散步しておりますと、見覚えのある方がベンチに座っているのが見えました。
間違いありません、あのひとです。
私は思わず、彼に声をかけました。
彼の方でも、私を覚えて下さっていて、心がなんだかふわふわと浮き上がるような気が致しました。
「君は、本屋さんの…」
はい、と答えますと、彼は参ったなあと仰いました。
「俺みたいな男が、あんな雜誌買ってたら目立つよね」
そう言って照れ臭そうに頬を掻いた姿に、私の心はすっかり舞い上がってしまいました。
この方のことをもっと知りたい。私はそんな慾が出てしまって、お隣に座っても宜しいですかと聞きますと、少し躊躇した後に いいよ、とおっしゃいました。
私は図々しくも腰掛けると、胸がどきどきとするのを感じます。
「……雜誌は、妹さんとかに買ってらっしゃるのですか」
「いや、家族は結核で亡くしているから。俺が読んでいるんだよ」
「…御免なさい。お気の毒に……」
いいんだ、と彼は言うと、優しく微笑みました。
それはひなたのように温かさのある表情でしたが、ひっそりとした憂いが含まれていて、心の奥がぎゅうと締め付けられるような気が致しました。
その瞬間に、このひとは私の初恋の方に成ったのです。
それから私たちは、他愛のない亊をとりとめもなくお話して、また書店でと言ってお別れしました。
この日から、お勤めが楽しみでしょうがなくなったのは、言うまでもありません。
♢
あれから数回、書店で顏を合わせました。
雜誌を買われていく亊もありましたが、近くに来たから、と少しお話だけする亊もございました。
そんな交流の中で知りましたのは、お名前は杉元佐一さん、好きな食べ物は干し柿、嫌いなものは
そして、上野恩賜公園の桜もすっかり散ってしまった或る日に、私たちは初めて言葉を交わしたベンチに座っておりました。
私は最近あった亊やら、読んだ本についてお話しして、そんな取り留めのない内容を杉元さんは うんうん、と相槌を打ちながら聞いて下さいました。
会話が少し途切れて靜かになったとき、杉元さんは前を見ていた視線を私に向けてから口を開きました。
「俺はこのあいだ、徴兵検査を受けて来たんだ。……甲種合格で、十二月に歩兵聯隊へ入営が決まったよ」
「それは…御目出度う御座います」
甲種合格といえば、大変名誉なことです。
しかし日本国内では三国干渉を機に露西亞への憎悪を強め、今年に入ってから両国の関係は悪化するばかりで、露西亞との戦争やむなしとの気運が高まっておりました。
この時期に入営となると、出征する亊になるやもしれません。
そんな予感が私達を包みました。
「娑婆の生活も、あと半年くらいか」
杉元さんは少し戯けた調子で言いましたが、仄暗い影が忍び寄ってくるのを、私達は確実に感じたのでした。
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