憧れ
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食事を終えて、二人は夜の道を歩いた。
通りは静かで、靴音が響く。
チョコレートをどのように渡そうかとタイミングを計りかねていると、鶴見部長は立ち止まってナマエを見やった。
「私の家に来なさい。私たちは、どうやら少し話す必要があるようだからね」
彼の声は優しかった。
ナマエが はい、と小さく返事をしたのを聞き取ると、鶴見部長はタクシーを止めて、二人で乗り込んだ。
滑るように動き出した車内で、彼らは黙って外を見ている。
「……君には恋人がいるのだと思っていたよ」
沈黙を破ったのは鶴見部長で、ナマエは視線を彼に向けた。
彼女を見返す黒い瞳。
「少し前までいました」
ふうん、と鶴見部長は言うと、再び車内は沈黙に包まれる。
それはなんだか濃密で、何かの前触れのような気配が漂っていた。
♢
鶴見部長の自宅はマンションで、オートロックを開けて部屋の前まで来る。
鍵が開く音がナマエを緊張させた。
パチンと電気をつけると灯りが広がる。
一人暮らしには広すぎる立派な部屋で、シックなインテリアでまとめられた室内は彼らしかった。
数部屋の一室にはグランドピアノが置いてあり、楽器可のマンションを探すのは大変だったと笑う。
手を洗ってリビングに通されると、コートをハンガーにかけた。
大きなソファやぎっしりと蔵書が入った本棚が目につく。
ソファにかけるよう言われたので、片隅に荷物を置くと遠慮がちに腰掛ける。
やがていい香りが漂ってきてキッチンの方を見ると、ハンドドリップでコーヒーを淹れている鶴見部長が見えた。
「すみません、コーヒーまで…」
「いいんだ。ミョウジさんのチョコレートには、美味しいコーヒーが必要だからね」
やがてソーサーに乗せられたコーヒーカップが二つ、ソファの前のサイドテーブルに置かれる。
ナマエはチョコレートを取り出すと、横に腰かけた鶴見部長に手渡した。
「良かったら、受け取ってください」
「ありがとう」
彼は直ぐに箱を開けた。
艶やかに並んだチョコレートが見えて、頂きますと言うと一つつまんで口に入れる。
「デザートにぴったりだ。美味しいからミョウジさんも一緒に食べよう」
そう言われて、ナマエも指を伸ばして口に入れる。
甘く強い、チョコレートの味が口いっぱいに広がった。
「ミョウジさんは、どうして私にこれをくれたの?」
コーヒーに口をつけてから、鶴見部長は問いかける。
ナマエは少し黙っていたが、今本心を言わなければ永遠に機を逃すような気がして、ゆっくりと口を開いた。
「好きだからです」
沈黙がちくちくと針のように痛い。
鶴見部長は、真っ直ぐナマエの目を見ている。
その眼差しは、たじろいでしまうような真剣さがあった。
「……私もミョウジさんの事を大切に思っているよ。
部下としてではなく、一人の女性として」
少しの沈黙のあと、だからこそ、と言って彼は言葉を続ける。
「君と私は恋人同士になってはいけないと思っているんだ」
ナマエは胸が潰れるような気がした。
何故ですか、とまるで子供のように問いかける。
鶴見部長は少し笑った。
「私は君よりかなり年上だし、君の上司だから。
ミョウジさんはこれから、様々な人に出会って相応しい人と巡り合う。そう思うからだよ」
鶴見部長は優雅な仕草でコーヒーカップを手にとると、一口飲み込む。
形のいい鼻の、きれいな横顔を見ていると悲しさが水に落とした墨のように広がった。
「そんなこと、分かりませんよ。いくら部長が優秀な方でも、私の未来のことまでお分かりにならないはずです」
悲しさに任せた自分の言葉が、子供っぽく部屋に響くのを感じる。
きっとこういうところがダメなんだろう。
しかし鶴見部長は彼女の言葉を軽んじるようなことはしなかった。
言葉の一つ一つを、きちんと受け止めているのがわかる。
「私は鶴見さんが好きなんです。どうしようもなく。
私の気持ちは、迷惑でしょうか」
「そうじゃない」
「だったら……」
ナマエはそれ以上続けることが出来なかった。
鶴見さんのチョコレートとコーヒーの唇が、彼女の言葉を封じたからだ。
「それ以上、言ってはいけない。……後戻りできないよ」
「後戻りって、なんですか」
ナマエは鶴見さんに唇を重ねた。
時間が止まったみたいに、二人は動かない。
「……まったく」
唇が離れて彼らは見つめあうと、鶴見さんは弱く笑って言った。
そして、手を伸ばすとナマエの髪に触れる。
「君がこんなに大胆だとは知らなかったよ」
「……私もです。なんだか、どうしようもなくなってしまって」
ナマエが目に混乱の色を浮かべて俯くと、鶴見さんは彼女の顎に手を添えて自分の方に向かせた。
「ふふ。じゃあ、さっきのキスは気まぐれ?」
そんな訳あるはずがない。ナマエが急いで首を振ると、鶴見さんは愉快そうに笑う。
「わかっているよ」
「…意地悪ですね」
「私は意地悪だよ。それでもいいの?」
彼の言葉はひとつひとつが甘かった。
様々な味のチョコレートのようで、ナマエはその香りと甘さに溺れた。
はい、と彼女が頷くと、鶴見さんはナマエの背中に手を回して抱き寄せて、髪にキスをする。
「…何かお祝いしたい気分だね。こういう時に、お酒が飲めたらいいのだが」
「あ、そう言えばお酒の代わりと言っては何ですが、良いものがあります」
ナマエはバッグから、もうひとつの箱を取り出して鶴見さんに手渡した。
「このチョコレートは、新潟の梅酒が使われているそうです。
チョコの甘さとお酒の風味が合っていて美味しかったので、買っておきました」
「新潟か。懐かしいな……私のことを考えながら、これを買ってきてくれたんだね」
図星を突かれて頬がカッと赤くなるのを感じたが、鶴見さんは涼しい顔でありがとう、と受け取る。
ぱかりと開けると、四角く敷き詰められたチョコレートが顔を出す。
鶴見さんは付属の楊枝で一粒刺して口に運ぶと、うん と頷いた。
「美味しいね。香りがいい」
そしてもう一つ口に入れると、突然ナマエにキスをした。
呆気にとられているうちに、彼の舌はナマエの唇の隙間から侵入してきて、熱を持った甘い塊が口の中に忽然と現れた。
それはするりと口の中で溶けていき、甘さと梅の香りの余韻が残る。
それは今までで一番美味しい、チョコレートの食べ方だった。
「お酒もこれなら楽しめるな」
鶴見さんは穏やかな声で言うと、今度はナマエの頬に唇をつける。
「チョコレート、ありがとう」
ナマエはいいえ、と言うと、彼に優しく押し倒されるがままにした。
コーヒーはきっと、すっかり冷めてしまうだろう。
おわり
通りは静かで、靴音が響く。
チョコレートをどのように渡そうかとタイミングを計りかねていると、鶴見部長は立ち止まってナマエを見やった。
「私の家に来なさい。私たちは、どうやら少し話す必要があるようだからね」
彼の声は優しかった。
ナマエが はい、と小さく返事をしたのを聞き取ると、鶴見部長はタクシーを止めて、二人で乗り込んだ。
滑るように動き出した車内で、彼らは黙って外を見ている。
「……君には恋人がいるのだと思っていたよ」
沈黙を破ったのは鶴見部長で、ナマエは視線を彼に向けた。
彼女を見返す黒い瞳。
「少し前までいました」
ふうん、と鶴見部長は言うと、再び車内は沈黙に包まれる。
それはなんだか濃密で、何かの前触れのような気配が漂っていた。
♢
鶴見部長の自宅はマンションで、オートロックを開けて部屋の前まで来る。
鍵が開く音がナマエを緊張させた。
パチンと電気をつけると灯りが広がる。
一人暮らしには広すぎる立派な部屋で、シックなインテリアでまとめられた室内は彼らしかった。
数部屋の一室にはグランドピアノが置いてあり、楽器可のマンションを探すのは大変だったと笑う。
手を洗ってリビングに通されると、コートをハンガーにかけた。
大きなソファやぎっしりと蔵書が入った本棚が目につく。
ソファにかけるよう言われたので、片隅に荷物を置くと遠慮がちに腰掛ける。
やがていい香りが漂ってきてキッチンの方を見ると、ハンドドリップでコーヒーを淹れている鶴見部長が見えた。
「すみません、コーヒーまで…」
「いいんだ。ミョウジさんのチョコレートには、美味しいコーヒーが必要だからね」
やがてソーサーに乗せられたコーヒーカップが二つ、ソファの前のサイドテーブルに置かれる。
ナマエはチョコレートを取り出すと、横に腰かけた鶴見部長に手渡した。
「良かったら、受け取ってください」
「ありがとう」
彼は直ぐに箱を開けた。
艶やかに並んだチョコレートが見えて、頂きますと言うと一つつまんで口に入れる。
「デザートにぴったりだ。美味しいからミョウジさんも一緒に食べよう」
そう言われて、ナマエも指を伸ばして口に入れる。
甘く強い、チョコレートの味が口いっぱいに広がった。
「ミョウジさんは、どうして私にこれをくれたの?」
コーヒーに口をつけてから、鶴見部長は問いかける。
ナマエは少し黙っていたが、今本心を言わなければ永遠に機を逃すような気がして、ゆっくりと口を開いた。
「好きだからです」
沈黙がちくちくと針のように痛い。
鶴見部長は、真っ直ぐナマエの目を見ている。
その眼差しは、たじろいでしまうような真剣さがあった。
「……私もミョウジさんの事を大切に思っているよ。
部下としてではなく、一人の女性として」
少しの沈黙のあと、だからこそ、と言って彼は言葉を続ける。
「君と私は恋人同士になってはいけないと思っているんだ」
ナマエは胸が潰れるような気がした。
何故ですか、とまるで子供のように問いかける。
鶴見部長は少し笑った。
「私は君よりかなり年上だし、君の上司だから。
ミョウジさんはこれから、様々な人に出会って相応しい人と巡り合う。そう思うからだよ」
鶴見部長は優雅な仕草でコーヒーカップを手にとると、一口飲み込む。
形のいい鼻の、きれいな横顔を見ていると悲しさが水に落とした墨のように広がった。
「そんなこと、分かりませんよ。いくら部長が優秀な方でも、私の未来のことまでお分かりにならないはずです」
悲しさに任せた自分の言葉が、子供っぽく部屋に響くのを感じる。
きっとこういうところがダメなんだろう。
しかし鶴見部長は彼女の言葉を軽んじるようなことはしなかった。
言葉の一つ一つを、きちんと受け止めているのがわかる。
「私は鶴見さんが好きなんです。どうしようもなく。
私の気持ちは、迷惑でしょうか」
「そうじゃない」
「だったら……」
ナマエはそれ以上続けることが出来なかった。
鶴見さんのチョコレートとコーヒーの唇が、彼女の言葉を封じたからだ。
「それ以上、言ってはいけない。……後戻りできないよ」
「後戻りって、なんですか」
ナマエは鶴見さんに唇を重ねた。
時間が止まったみたいに、二人は動かない。
「……まったく」
唇が離れて彼らは見つめあうと、鶴見さんは弱く笑って言った。
そして、手を伸ばすとナマエの髪に触れる。
「君がこんなに大胆だとは知らなかったよ」
「……私もです。なんだか、どうしようもなくなってしまって」
ナマエが目に混乱の色を浮かべて俯くと、鶴見さんは彼女の顎に手を添えて自分の方に向かせた。
「ふふ。じゃあ、さっきのキスは気まぐれ?」
そんな訳あるはずがない。ナマエが急いで首を振ると、鶴見さんは愉快そうに笑う。
「わかっているよ」
「…意地悪ですね」
「私は意地悪だよ。それでもいいの?」
彼の言葉はひとつひとつが甘かった。
様々な味のチョコレートのようで、ナマエはその香りと甘さに溺れた。
はい、と彼女が頷くと、鶴見さんはナマエの背中に手を回して抱き寄せて、髪にキスをする。
「…何かお祝いしたい気分だね。こういう時に、お酒が飲めたらいいのだが」
「あ、そう言えばお酒の代わりと言っては何ですが、良いものがあります」
ナマエはバッグから、もうひとつの箱を取り出して鶴見さんに手渡した。
「このチョコレートは、新潟の梅酒が使われているそうです。
チョコの甘さとお酒の風味が合っていて美味しかったので、買っておきました」
「新潟か。懐かしいな……私のことを考えながら、これを買ってきてくれたんだね」
図星を突かれて頬がカッと赤くなるのを感じたが、鶴見さんは涼しい顔でありがとう、と受け取る。
ぱかりと開けると、四角く敷き詰められたチョコレートが顔を出す。
鶴見さんは付属の楊枝で一粒刺して口に運ぶと、うん と頷いた。
「美味しいね。香りがいい」
そしてもう一つ口に入れると、突然ナマエにキスをした。
呆気にとられているうちに、彼の舌はナマエの唇の隙間から侵入してきて、熱を持った甘い塊が口の中に忽然と現れた。
それはするりと口の中で溶けていき、甘さと梅の香りの余韻が残る。
それは今までで一番美味しい、チョコレートの食べ方だった。
「お酒もこれなら楽しめるな」
鶴見さんは穏やかな声で言うと、今度はナマエの頬に唇をつける。
「チョコレート、ありがとう」
ナマエはいいえ、と言うと、彼に優しく押し倒されるがままにした。
コーヒーはきっと、すっかり冷めてしまうだろう。
おわり
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