憧れ
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2月14日金曜日、バレンタインデー。
ナマエは念入りに身だしなみを整えてから家を出て、終業間際の今はトイレに行った際に丁寧にお化粧直しをする。
大丈夫、自信持って。ただ渡すだけ。と、奮い立たせるように心の中で呟いた。
小さなバッグの中にはチョコレート。
梅酒のチョコも、話のネタになればと入れておいた。
部長室に戻ると、彼は帰り支度をしている。
黒の、カシミアでできたトレンチコートが暖かそうだ。
「ミョウジさん。先に下に行ってタクシーで待っていなさい。今日は夕食を一緒に食べよう」
鶴見部長はそう言って微笑む。
ナマエは胸の高鳴りを感じながら、はいと返事をして彼のいう通りにした。
もうすっかり暗くなった外に出て、タクシーに乗り込む。
歩いていく人や、走り去る車。
ビルの隙間に見える夜空、飲食店の明かり。
その全てが、いつもより感じの良いものに思われる。
ややあって、タクシーの窓ガラスをコツコツと叩く音がして、扉が開いた。
鶴見部長はナマエの隣に乗り込むと、すぐに行き先を伝えてタクシーは出発した。
「夕食は迷惑じゃなかったかな?」
彼に問いかけられて、ナマエは首を横に振った。
「迷惑だなんて、とんでもないです。私の方こそ、沢山お時間を頂いてしまって申し訳ないです」
構わないよ、と彼は笑った。
社内で見るより打ち解けたように見える笑顔に、ナマエは嬉しくなった。
♢
着いたお店は、大通りから少し離れた、洋風の古民家を改装した一軒家のレストランだった。
使い込まれて艶が出ている床板や、アンティークな装飾が随所に残されていて、上品だが気取りすぎておらず居心地が良い。
鶴見部長の雰囲気に合っているレストランだと思った。
彼が扉を開けて、中に入れてくれる。入り口でコートを預けると、ナマエを先にして席に案内された。
鶴見部長はこの店をよく利用するのか、店員さんとにこやかに言葉を交わしてから席に座る。
「素敵なお店ですね」
素直な感想を言うと、彼は微笑む。
「ああ。私も気に入っている店でね。ミョウジさんには日頃の感謝も込めて、ご馳走させてくれ」
ナマエは感激で胸がいっぱいになった。
夢のようで、今この瞬間の幸せが怖いくらいだった。
指の間から砂が零れ落ちるように、実体のない幸福のような気がして。
運ばれてくる料理はどれも美しく美味しかった。
鶴見部長はその合間に、さまざまな話をしてくれる。
料理の話、ロシア在住だった頃の話や、趣味のピアノの話。
彼がピアノを弾けるのは初耳だったので、ナマエは興味深く聞いた。
ベートーヴェンの「情熱」が好きだそうで、いつかその演奏を聴いてみたいと思う。
「ところで、ミョウジさん。何か私に相談ごとかな」
話がひと段落ついたところで、鶴見部長は問いかけた。
落ち着いた黒い瞳がナマエを見つめている。
「相談ごと、と言いますか……鶴見部長、今日がなんの日かご存知ですか」
どうやら彼はナマエが仕事上の悩みを抱えていると考えて、食事に誘ってくれたようだ。
よく考えれば当たり前だ。
まさか秘書がたかがチョコレートを渡したいがために、業務後の予定を聞いてくるとは思わないだろう。
ナマエは恥ずかしさでやり切れなくなってきたが、ここまで来たら引くこともできない。
「今日?……2月14日だが……あぁ」
バレンタインか、と思い出したように言う。
そして改めてまじまじとナマエを見返した。
恐らく全てを悟ったに違いなく、気まずさが広がる。
「はい……それで、鶴見部長にお渡ししたくて」
そこへタイミング悪く、メインの料理が運ばれて来た。
食材や調理法について解説されるが、全く耳に入ってこない。
ナイフとフォークを手にとって黙々と食べ進めていると、鶴見部長の声が降ってきた。
「では、ここでデザートを頂くのはやめようか。ミョウジさんのチョコレートがあるからね」
料理ばかりを見つめていたナマエは、おずおずと顔を上げる。
目が合った彼はゆったりと笑みを浮かべていて、なんだか無条件に安心してしまう。
それくらい、余裕と優しさを感じさせる表情だった。
ナマエはやっと、ありがとうございますとお礼を言うと、食事に戻る。
先程より何倍も美味しく感じられて、指先まで喜びが行き渡るような気がした。
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ナマエは念入りに身だしなみを整えてから家を出て、終業間際の今はトイレに行った際に丁寧にお化粧直しをする。
大丈夫、自信持って。ただ渡すだけ。と、奮い立たせるように心の中で呟いた。
小さなバッグの中にはチョコレート。
梅酒のチョコも、話のネタになればと入れておいた。
部長室に戻ると、彼は帰り支度をしている。
黒の、カシミアでできたトレンチコートが暖かそうだ。
「ミョウジさん。先に下に行ってタクシーで待っていなさい。今日は夕食を一緒に食べよう」
鶴見部長はそう言って微笑む。
ナマエは胸の高鳴りを感じながら、はいと返事をして彼のいう通りにした。
もうすっかり暗くなった外に出て、タクシーに乗り込む。
歩いていく人や、走り去る車。
ビルの隙間に見える夜空、飲食店の明かり。
その全てが、いつもより感じの良いものに思われる。
ややあって、タクシーの窓ガラスをコツコツと叩く音がして、扉が開いた。
鶴見部長はナマエの隣に乗り込むと、すぐに行き先を伝えてタクシーは出発した。
「夕食は迷惑じゃなかったかな?」
彼に問いかけられて、ナマエは首を横に振った。
「迷惑だなんて、とんでもないです。私の方こそ、沢山お時間を頂いてしまって申し訳ないです」
構わないよ、と彼は笑った。
社内で見るより打ち解けたように見える笑顔に、ナマエは嬉しくなった。
♢
着いたお店は、大通りから少し離れた、洋風の古民家を改装した一軒家のレストランだった。
使い込まれて艶が出ている床板や、アンティークな装飾が随所に残されていて、上品だが気取りすぎておらず居心地が良い。
鶴見部長の雰囲気に合っているレストランだと思った。
彼が扉を開けて、中に入れてくれる。入り口でコートを預けると、ナマエを先にして席に案内された。
鶴見部長はこの店をよく利用するのか、店員さんとにこやかに言葉を交わしてから席に座る。
「素敵なお店ですね」
素直な感想を言うと、彼は微笑む。
「ああ。私も気に入っている店でね。ミョウジさんには日頃の感謝も込めて、ご馳走させてくれ」
ナマエは感激で胸がいっぱいになった。
夢のようで、今この瞬間の幸せが怖いくらいだった。
指の間から砂が零れ落ちるように、実体のない幸福のような気がして。
運ばれてくる料理はどれも美しく美味しかった。
鶴見部長はその合間に、さまざまな話をしてくれる。
料理の話、ロシア在住だった頃の話や、趣味のピアノの話。
彼がピアノを弾けるのは初耳だったので、ナマエは興味深く聞いた。
ベートーヴェンの「情熱」が好きだそうで、いつかその演奏を聴いてみたいと思う。
「ところで、ミョウジさん。何か私に相談ごとかな」
話がひと段落ついたところで、鶴見部長は問いかけた。
落ち着いた黒い瞳がナマエを見つめている。
「相談ごと、と言いますか……鶴見部長、今日がなんの日かご存知ですか」
どうやら彼はナマエが仕事上の悩みを抱えていると考えて、食事に誘ってくれたようだ。
よく考えれば当たり前だ。
まさか秘書がたかがチョコレートを渡したいがために、業務後の予定を聞いてくるとは思わないだろう。
ナマエは恥ずかしさでやり切れなくなってきたが、ここまで来たら引くこともできない。
「今日?……2月14日だが……あぁ」
バレンタインか、と思い出したように言う。
そして改めてまじまじとナマエを見返した。
恐らく全てを悟ったに違いなく、気まずさが広がる。
「はい……それで、鶴見部長にお渡ししたくて」
そこへタイミング悪く、メインの料理が運ばれて来た。
食材や調理法について解説されるが、全く耳に入ってこない。
ナイフとフォークを手にとって黙々と食べ進めていると、鶴見部長の声が降ってきた。
「では、ここでデザートを頂くのはやめようか。ミョウジさんのチョコレートがあるからね」
料理ばかりを見つめていたナマエは、おずおずと顔を上げる。
目が合った彼はゆったりと笑みを浮かべていて、なんだか無条件に安心してしまう。
それくらい、余裕と優しさを感じさせる表情だった。
ナマエはやっと、ありがとうございますとお礼を言うと、食事に戻る。
先程より何倍も美味しく感じられて、指先まで喜びが行き渡るような気がした。
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