憧れ
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
また振られてしまった。
やっと出来た彼氏で、勤務先や性格、生活態度、金銭感覚、身体の相性、どれをとっても悪くない人だったのに、また振られてしまった。
ぽつぽつ結婚する友達も出てきて、そろそろ本気の付き合いとやらをしなければと思っていたのに。
逃した魚の大きさを思うと気が滅入ったが、心の底から悲しんでいるかと聞かれるとそうでもないのだった。我ながら最低だ。
本当は分かっている。自分の恋愛が結婚まで行かない理由。
それは目の前の重厚なデスクに座っている、彼女の上司にあった。
「お早う。朝からご苦労様」
ガラス張りのビルの高層階に位置するこのフロアに、部長室がある。
そこの主である鶴見部長が、ナマエに微笑みかけた。
きちんと撫でつけられた髪に、品の良い上質なスーツ。
貝ボタンがついたシャツはいつもパリッと清潔感があり、靴は常に曇りなく磨かれていて、一分の隙もない。
人望も厚く優秀で、完璧な鶴見部長にナマエは密かに憧れていた。
でもそれは異性としてではなくて、例えば芸能人に憧れるような、そういうものだと思う。
「お早うございます、鶴見部長」
挨拶もそここそに、今日の予定を伝えてから上がってきた書類を手渡す。
彼は受け取ると、必要箇所にマーカーで印をつけてある書類に目を通している。
知性に満ちた黒い瞳が文字を追った。
淹れたてのコーヒーをデスクの定位置に置いてから、ナマエは一歩下がって鶴見部長の言葉を待った。
鶴見さんはゆっくりとコーヒーに口をつけて、香りを味わうようにしてからナマエを見る。
「読みやすかったよ。ありがとう。……ところで、今日は何かあった?」
ナマエは驚いて、一瞬間が空いた。
私的な質問をされたことは数えるほどしかなかったので反応が遅れた。
確かに昨日多少は泣いたので、瞼が浮腫んでいるかもしれないけれど化粧で隠せた筈だ。
スーツも靴も、いつものように十分に確認してから身につけて出てきたので、心情が漏れてしまうような穴はないと思う。
「……いえ、特にありません。何かおかしいでしょうか」
「そうか。なんだか少し元気が無いように思ったから。なにも無いなら、それが一番だね」
そう言うと彼は立ち上がって、朝一番の予定がある会議室に向かう。
その後ろを歩きながら、ナマエは嬉しさで頬が緩むのを感じて、歯を噛むようにしてそれを堪えた。
私はやっぱりこの人が好きなんだ。
でもそれを悟られたくは無い。彼は部下に手を出すような人では無いし、一番身近な上司に恋をするなんて、単純な女だと思われるのが何より嫌だった。
♢
街中では梅の黒く細い枝に、ぽつぽつと花が咲き始めている。
2月に入って、寒い日と暖かい日を繰り返すようになり、季節が徐々に春を迎えようとしているのを感じる。
鶴見部長は相変わらず完璧だし、ナマエもそんな彼の補佐をする日々を過ごす。
毎日慌ただしいけれど、好きな男の格好良い姿を身近で見られるのは幸せだった。
鶴見部長について、ナマエが知っていることはいくつかある。
まず、独身だということ。新潟出身で、ロシア語が堪能なこと。そして甘いものが好きでお酒は飲まないこと。
鶴見部長付きの秘書になった際に、初めて食べ物の嗜好を知ったときには意外に思った。それが顔に出ていたらしく、「私が甘党なのは、あまり言いふらさないでくれ」と微笑んで言われたのを思い出す。
評判通りの、優秀で紳士的な彼の思わぬ一面は、ナマエの心に残った。
思えばその時から、この恋の種はまかれていたのかもしれない。
恋人は、いなければいいなと思う。
甘いものといえば、2月に入ると何と言ってもバレンタインデーだ。
節分が終わると、掌を返したようにどこもかしこもバレンタイン一色になる。
やれ限定のチョコレートだ、期間限定のアンテナショップだ、などと消費者を煽る。
休日にデパートで買い物をした帰りに、地下を通って電車に乗ろうとすると、売り子があらゆるチョコレートを勧めているのが目と耳に飛び込んでくる。
フロアを進むのも難儀するのでうんざりするが、ふと鶴見部長のことを思い出した。
もし私がチョコを渡したとしたら、彼は貰ってくれるだろうか。
何と言って受け取るのか。もしくはわたしを傷つけないようにしながらも、丁重に断るのだろうか。
ナマエは強烈に知りたくなった。
鶴見部長の知らない一面を見たかった。
社内の誰もが知らないような、彼の言葉や態度が知りたいと切に思った。
意を決すると、ナマエは駅方面に向けていた足を売り場へ戻す。
渡せなくても自分で食べてしまえばいいし、とにかく買わないことには始まらないのだからと言い訳しながら、女達の雑踏の一部となった。
.
やっと出来た彼氏で、勤務先や性格、生活態度、金銭感覚、身体の相性、どれをとっても悪くない人だったのに、また振られてしまった。
ぽつぽつ結婚する友達も出てきて、そろそろ本気の付き合いとやらをしなければと思っていたのに。
逃した魚の大きさを思うと気が滅入ったが、心の底から悲しんでいるかと聞かれるとそうでもないのだった。我ながら最低だ。
本当は分かっている。自分の恋愛が結婚まで行かない理由。
それは目の前の重厚なデスクに座っている、彼女の上司にあった。
「お早う。朝からご苦労様」
ガラス張りのビルの高層階に位置するこのフロアに、部長室がある。
そこの主である鶴見部長が、ナマエに微笑みかけた。
きちんと撫でつけられた髪に、品の良い上質なスーツ。
貝ボタンがついたシャツはいつもパリッと清潔感があり、靴は常に曇りなく磨かれていて、一分の隙もない。
人望も厚く優秀で、完璧な鶴見部長にナマエは密かに憧れていた。
でもそれは異性としてではなくて、例えば芸能人に憧れるような、そういうものだと思う。
「お早うございます、鶴見部長」
挨拶もそここそに、今日の予定を伝えてから上がってきた書類を手渡す。
彼は受け取ると、必要箇所にマーカーで印をつけてある書類に目を通している。
知性に満ちた黒い瞳が文字を追った。
淹れたてのコーヒーをデスクの定位置に置いてから、ナマエは一歩下がって鶴見部長の言葉を待った。
鶴見さんはゆっくりとコーヒーに口をつけて、香りを味わうようにしてからナマエを見る。
「読みやすかったよ。ありがとう。……ところで、今日は何かあった?」
ナマエは驚いて、一瞬間が空いた。
私的な質問をされたことは数えるほどしかなかったので反応が遅れた。
確かに昨日多少は泣いたので、瞼が浮腫んでいるかもしれないけれど化粧で隠せた筈だ。
スーツも靴も、いつものように十分に確認してから身につけて出てきたので、心情が漏れてしまうような穴はないと思う。
「……いえ、特にありません。何かおかしいでしょうか」
「そうか。なんだか少し元気が無いように思ったから。なにも無いなら、それが一番だね」
そう言うと彼は立ち上がって、朝一番の予定がある会議室に向かう。
その後ろを歩きながら、ナマエは嬉しさで頬が緩むのを感じて、歯を噛むようにしてそれを堪えた。
私はやっぱりこの人が好きなんだ。
でもそれを悟られたくは無い。彼は部下に手を出すような人では無いし、一番身近な上司に恋をするなんて、単純な女だと思われるのが何より嫌だった。
♢
街中では梅の黒く細い枝に、ぽつぽつと花が咲き始めている。
2月に入って、寒い日と暖かい日を繰り返すようになり、季節が徐々に春を迎えようとしているのを感じる。
鶴見部長は相変わらず完璧だし、ナマエもそんな彼の補佐をする日々を過ごす。
毎日慌ただしいけれど、好きな男の格好良い姿を身近で見られるのは幸せだった。
鶴見部長について、ナマエが知っていることはいくつかある。
まず、独身だということ。新潟出身で、ロシア語が堪能なこと。そして甘いものが好きでお酒は飲まないこと。
鶴見部長付きの秘書になった際に、初めて食べ物の嗜好を知ったときには意外に思った。それが顔に出ていたらしく、「私が甘党なのは、あまり言いふらさないでくれ」と微笑んで言われたのを思い出す。
評判通りの、優秀で紳士的な彼の思わぬ一面は、ナマエの心に残った。
思えばその時から、この恋の種はまかれていたのかもしれない。
恋人は、いなければいいなと思う。
甘いものといえば、2月に入ると何と言ってもバレンタインデーだ。
節分が終わると、掌を返したようにどこもかしこもバレンタイン一色になる。
やれ限定のチョコレートだ、期間限定のアンテナショップだ、などと消費者を煽る。
休日にデパートで買い物をした帰りに、地下を通って電車に乗ろうとすると、売り子があらゆるチョコレートを勧めているのが目と耳に飛び込んでくる。
フロアを進むのも難儀するのでうんざりするが、ふと鶴見部長のことを思い出した。
もし私がチョコを渡したとしたら、彼は貰ってくれるだろうか。
何と言って受け取るのか。もしくはわたしを傷つけないようにしながらも、丁重に断るのだろうか。
ナマエは強烈に知りたくなった。
鶴見部長の知らない一面を見たかった。
社内の誰もが知らないような、彼の言葉や態度が知りたいと切に思った。
意を決すると、ナマエは駅方面に向けていた足を売り場へ戻す。
渡せなくても自分で食べてしまえばいいし、とにかく買わないことには始まらないのだからと言い訳しながら、女達の雑踏の一部となった。
.
1/4ページ