第17章
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ナマエが朝目覚めて横を見ると、こちらを向いて横たわり、片腕をナマエの布団に乗せるようにして眠っている夫が見えた。髪がさらりと傷のある顔にかかっていて、綺麗な寝顔、とナマエは思った。今日はちゃんと食べて働いて、女中や主人を安心させようと、少し早いけれど布団から出ることにする。起こさないように彼の腕をそっと外そうとすると、その腕は急に力が込められて、ナマエを離さなかった。
「お早う、ナマエ。今日は早起きだね」
鶴見中尉はにっこりと笑うと、こちらにおいで、と言って自分の掛け布団を少し上げてみせる。ナマエがするりとその隙間に入ると、彼は背中の方に腕を回してきて包むようにした。
「まだ起きる時間じゃないだろう。もう少し眠ろう」
そう言うと、鶴見中尉はナマエの耳朶に唇を落とした。
少ししてから二人は揃って起き出すと、鶴見中尉が洗面台で髪を撫でつけたり、剃刀で髭を剃ったりしている間に、ナマエは手早く身支度を整えて女中と共に朝餉の支度をする。やがて夏衣袴の白い袴下に、詰襟のシャツを身につけ、朝の準備を終えた鶴見中尉が居間に入って来た。
「いい香りだね。頂こうか」
ナマエが はい、と返事をして、食卓を囲む。いつもの朝の時間が流れて、昨日から女主人の心配をしていた女中は二人の様子にほっと胸を撫で下ろしたのだった。
鶴見中尉が朝に兵舎へ向かうのと入れ違いに、玄関で呼ぶ声がして女中が応じているのが聞こえる。ナマエは文机で、夫の蔵書を開いたところだった。今日は二葉亭四迷翻訳、ツルネーゲフの「あひゞき」。露西亞の文学を読んでいるときは、少しだけ夫の世界を知ることができる気がして、こうして頁を捲るのだった。
「奥様、お荷物ですよ。……あら、鯉登様からですって!」
女中は鯉登少尉がお気に入りだ。ナマエはあの薩摩隼人が、着物を贈ると言っていたのを思い出す。二人の女の手で包みが開けられると、美しい白薩摩が顔を出した。
「まあ、これは上等ですね。鯉登様が奥様へ?」
「ええ、前に旭川で気球から落ちたことがあったでしょう。その時のお詫びと仰って」
そうですか、では早速着てみましょう、と女中はナマエの着替えを手伝う。鯉登少尉が言っていた通り、木綿でありながら絹のような手触りの白薩摩は、大変着心地が良かった。女中が帯や帯留をあれでもないこれでもないと選んでいる背中を見ながら、ナマエは鯉登少尉のことを考えた。あの方は、随分自分に親切にして下さる。敬愛する鶴見中尉の妻である自分にも、上官と同じように礼を尽くす彼は、実直な人なのだろうと思った。若々しい褐色の肌に、笑うと白い歯が瑞々しくきらめくのを思い出す。
「やっぱりこちらの藍色の帯の方が……うん、こっちですわ。奥様、素敵です」
夜になって帰ってきた鶴見中尉も、ナマエの着物を見ると 似合うね、と少し目を細めて言った。
「白薩摩だね。前に鯉登が言っていた着物がそれか」
はい、とナマエは頷くと、鯉登さんは本当に優しい方ですね、と言って微笑む。鶴見中尉はその様子を見ていると、ナマエと鯉登少尉が肩を並べて立っている様子がふと頭に浮かんだ。同世代の二人は、なかなかお似合いだった。
「ああ、彼はいい部下だよ」
鶴見中尉は少し笑ってそう言うと、脱いだ肋骨服をナマエに手渡した。
♢
お盆も過ぎて、夏といえども涼しくなってきた或る日に、月島軍曹が家を訪れた。ナマエが出迎えると、彼は礼儀正しくお辞儀をして中へ入り、二階の居間へと上がった。ナマエはお茶を淹れると彼の前に出す。
「主人は自室で書きものをしていますので、少々待つようにとの事です」
「承知しました。……お元気そうですね、ナマエさん」
ナマエが不思議そうな顔になったのが分かったのだろう、月島は少し慌てたように、前アイヌの村から戻るときに、少し様子が違うように思いましたから、と付け加えた。
「ああ…その折はへんな質問をしてすみませんでした。はい、ちゃんと答えが見つかりましたから大丈夫です」
月島は 答えですか、と復唱するように言う。
「目の前の事実に囚われず、心を見ようと思ったのです」
上官の妻はそう言うと、朗らかな笑みを頬に浮かべた。月島はその真意を図りかねたが、更に質問するのは不躾な気がして、口を噤むと温かいお茶を飲む。すると背後から障子が開く音がして、二人は顔を上げた。
「月島、待たせたな」
いいえ、と軍曹は返事をすると居住まいを正す。鶴見中尉は上座に座ると、要件を部下に尋ねた。
「はい。釧路の谷垣から小樽のアイヌのお婆さんへ、また電報が来ていました。杉元達と合流したようです」
その送り主は、以前この家にやって来たインカラマッだろう。ナマエはちらりと鶴見中尉の顔を見たが、彼は満足そうに頷くと口を開く。
「よし……そろそろ我々も網走へ向かおうか」
ついに金塊の鍵となる人物がいるという、網走監獄へ。ナマエも緊張感が高まるのを感じて、正座した膝の上に重ねた手をぎゅっと握った。
「お早う、ナマエ。今日は早起きだね」
鶴見中尉はにっこりと笑うと、こちらにおいで、と言って自分の掛け布団を少し上げてみせる。ナマエがするりとその隙間に入ると、彼は背中の方に腕を回してきて包むようにした。
「まだ起きる時間じゃないだろう。もう少し眠ろう」
そう言うと、鶴見中尉はナマエの耳朶に唇を落とした。
少ししてから二人は揃って起き出すと、鶴見中尉が洗面台で髪を撫でつけたり、剃刀で髭を剃ったりしている間に、ナマエは手早く身支度を整えて女中と共に朝餉の支度をする。やがて夏衣袴の白い袴下に、詰襟のシャツを身につけ、朝の準備を終えた鶴見中尉が居間に入って来た。
「いい香りだね。頂こうか」
ナマエが はい、と返事をして、食卓を囲む。いつもの朝の時間が流れて、昨日から女主人の心配をしていた女中は二人の様子にほっと胸を撫で下ろしたのだった。
鶴見中尉が朝に兵舎へ向かうのと入れ違いに、玄関で呼ぶ声がして女中が応じているのが聞こえる。ナマエは文机で、夫の蔵書を開いたところだった。今日は二葉亭四迷翻訳、ツルネーゲフの「あひゞき」。露西亞の文学を読んでいるときは、少しだけ夫の世界を知ることができる気がして、こうして頁を捲るのだった。
「奥様、お荷物ですよ。……あら、鯉登様からですって!」
女中は鯉登少尉がお気に入りだ。ナマエはあの薩摩隼人が、着物を贈ると言っていたのを思い出す。二人の女の手で包みが開けられると、美しい白薩摩が顔を出した。
「まあ、これは上等ですね。鯉登様が奥様へ?」
「ええ、前に旭川で気球から落ちたことがあったでしょう。その時のお詫びと仰って」
そうですか、では早速着てみましょう、と女中はナマエの着替えを手伝う。鯉登少尉が言っていた通り、木綿でありながら絹のような手触りの白薩摩は、大変着心地が良かった。女中が帯や帯留をあれでもないこれでもないと選んでいる背中を見ながら、ナマエは鯉登少尉のことを考えた。あの方は、随分自分に親切にして下さる。敬愛する鶴見中尉の妻である自分にも、上官と同じように礼を尽くす彼は、実直な人なのだろうと思った。若々しい褐色の肌に、笑うと白い歯が瑞々しくきらめくのを思い出す。
「やっぱりこちらの藍色の帯の方が……うん、こっちですわ。奥様、素敵です」
夜になって帰ってきた鶴見中尉も、ナマエの着物を見ると 似合うね、と少し目を細めて言った。
「白薩摩だね。前に鯉登が言っていた着物がそれか」
はい、とナマエは頷くと、鯉登さんは本当に優しい方ですね、と言って微笑む。鶴見中尉はその様子を見ていると、ナマエと鯉登少尉が肩を並べて立っている様子がふと頭に浮かんだ。同世代の二人は、なかなかお似合いだった。
「ああ、彼はいい部下だよ」
鶴見中尉は少し笑ってそう言うと、脱いだ肋骨服をナマエに手渡した。
♢
お盆も過ぎて、夏といえども涼しくなってきた或る日に、月島軍曹が家を訪れた。ナマエが出迎えると、彼は礼儀正しくお辞儀をして中へ入り、二階の居間へと上がった。ナマエはお茶を淹れると彼の前に出す。
「主人は自室で書きものをしていますので、少々待つようにとの事です」
「承知しました。……お元気そうですね、ナマエさん」
ナマエが不思議そうな顔になったのが分かったのだろう、月島は少し慌てたように、前アイヌの村から戻るときに、少し様子が違うように思いましたから、と付け加えた。
「ああ…その折はへんな質問をしてすみませんでした。はい、ちゃんと答えが見つかりましたから大丈夫です」
月島は 答えですか、と復唱するように言う。
「目の前の事実に囚われず、心を見ようと思ったのです」
上官の妻はそう言うと、朗らかな笑みを頬に浮かべた。月島はその真意を図りかねたが、更に質問するのは不躾な気がして、口を噤むと温かいお茶を飲む。すると背後から障子が開く音がして、二人は顔を上げた。
「月島、待たせたな」
いいえ、と軍曹は返事をすると居住まいを正す。鶴見中尉は上座に座ると、要件を部下に尋ねた。
「はい。釧路の谷垣から小樽のアイヌのお婆さんへ、また電報が来ていました。杉元達と合流したようです」
その送り主は、以前この家にやって来たインカラマッだろう。ナマエはちらりと鶴見中尉の顔を見たが、彼は満足そうに頷くと口を開く。
「よし……そろそろ我々も網走へ向かおうか」
ついに金塊の鍵となる人物がいるという、網走監獄へ。ナマエも緊張感が高まるのを感じて、正座した膝の上に重ねた手をぎゅっと握った。