第17章
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月島と別れて家に入ると、鶴見中尉は既に家を出ていた。何か仕事があってのことだろうが、今日ばかりはほっと胸をなで下ろす。彼の前でどのような顔をすれば良いのか分からなかったし、鶴見中尉を相手に隠し事をするのは不可能だから、一人になれることに安心した。ナマエは考え事をしながら自室に戻る途中、女中に 食欲が湧かないから食事はいいわと告げると襖を締め切った。窓の下に置いてある文机の前の座布団に座ると、頬杖をついて硝子越しに空を眺めた。これから暑くなりそうな、夏の空。
……しかし鶴見中尉の年齢を考えてみれば、過去に妻があったとしても不思議ではないとナマエは思った。そして、それをわざわざ言わないのも当たり前だ。現にナマエはこうして心がちくちくと痛む訳で、それを見越して鶴見中尉 はこの件に触れてこなかったのだろう。頭では分かっているけれど、ナマエはどうしようもなく、心がしなしなと元気が無くなるのを感じた。幼稚な考えをしている自覚はあったけれど、自分が絶対に見ることが出来ない風景を鶴見中尉と見たり、経験したひとがいるのだ。青年の彼と、子を成した人が。それほどまでに彼の寵愛を受けたひとが。ナマエはそれを考えると、どす黒い靄が心を毒していくのを感じる。嫉妬だと自覚した時に、ナマエはまた傷ついた。あのひとは私を白百合のようだと仰ったけれど、とんでもない。幼稚な嫉妬に心が支配されるような、そんな女なんだわ。それを知ったら、篤四郎さまはどうなさる。ナマエは鳴き始めた蝉の声を聞きながら、胸に嫌なものが広がっていくのを感じていた。こんなに醜い感情は、今まで感じた事がなかった。
夜になって鶴見中尉が帰宅すると、女中が顔を曇らせて彼に近付いた。奥様は今日お食事を召し上がっていませんの。お加減が悪いのかと思ってお聞きしても、大丈夫よ、としか仰いませんし。鶴見中尉は女中の言葉を黙って聞くと、そうかい、ありがとう。と返事をして、もう下がるように告げた。ナマエが籠っているという部屋にそっと近づくと、入るよ、と声をかける。少しの間の後に、どうぞ、と返事が聞こえた。硬い声だ。鶴見中尉はすっと襖を開けると中に入る。文机の前に座っていたのだろう、窓を背にしてナマエは手をつくと、お帰りなさいませ、といつものように挨拶をした。部屋は洋燈の弱いあかりが灯っているばかりで、薄暗い。ナマエの表情や仕草を一目見て、何かが彼女の中で起こっているのを鶴見中尉は感じた。そこでナマエの隣まで歩いていくと、座って彼女の顔を覗き込むようにする。そうすると普段ならばナマエの瞳には喜びの色がちらつくが、今日は逃げるように目を伏せた。
「食事を摂っていないそうだね。身体に障るよ」
ナマエはすみません、と小さな声で返事をすると、口を噤んだ。まるで言葉が零れ落ちるのを食い止めるように。そんな様子を見ていると、鶴見中尉はつい微笑んでしまう。咲くのを拒む蕾のようだった。そこで、花が開く気になるように、彼はそっとナマエの手を取ると、柔らかい声で尋ねた。
「話したいことがあるんだろう?言ってご覧」
ナマエのこういう態度は初めて見るので、鶴見中尉はじっと彼女の様子を観察する。ナマエは葛藤するような、苦しそうな表情を浮かべて暫く黙っていたが、やがて絞り出すような声で、お許し下さい、と言った。私は醜い女です、お許しください。
「何故そんな事を言うんだい」
辛そうにしているナマエを見ていると、なんだか食べてしまいたくなる。歯でがぶりと。
「……私は嫉妬しているのです、貴方の心の中にいる方に」
鶴見中尉は一瞬、彫刻のようにぴたりと固まったが、すぐに普段の通りになる。ナマエはフィーナのことを言っているのか。昨日、赤ん坊を見たときからナマエの様子が少し違うのは感じていたが、それは彼女の優しい心が、赤ん坊を憐れんでいるからだと思っていた。
「貴方はきっと、大切な方がいたのでしょう。その腕に、子どもを抱いたことがおありなんでしょう。それを考えますと、胸が苦しくて仕方がないのです」
言い切ると、ナマエの呼吸が不安定になって、涙の気配がする。鋭い女だ、と彼は思った。心に抱えた不安に飲み込まれそうなナマエは、若く未熟だ。その新芽のようなひとに、彼女よりも沢山の時間を重ねた自分の手を伸ばす。
「ナマエ。愛しく思う人の過去も未来も、現在も全て手に入れたいと思うことは、決して醜いことではない」
柔らかな頬に指先を触れる。ナマエの瞳が揺れ動いて、彼を見返した。
「黙っていて、悪かったね」
そう言うと、鶴見中尉はその腕にナマエを包んだ。押し殺した嗚咽が聞こえて、彼は背中をそっと撫でてやる。
「君を傷付けるつもりはなかったんだ。知らなくても良いことだと考えていたからね。しかし私は、どうやらナマエのことを子ども扱いしていたようだ」
ナマエは黙って夫の言葉を聞いていた。温かい雨のように、心をひたひたと濡らすそれにじっと耳を傾けた。これから話すことを、決して人に言ってはいけないよ。と彼は腕の中のナマエに囁くと、静かな語り口で話し始める。
「私はかつて、浦潮斯徳で長谷川幸一を名乗ってある仕事をしていた……日本軍の諜報員さ。その中で、妻と出会った」
彼は感情の読み取れない声で淡々と、写真屋として暮らし、子どもも授かった平穏な日々の記憶を話した。身を偽っての結婚生活だったが、夫が家族へ真心を込めて接していたのを、ナマエは言葉の端々から感じ取った。最初こそ耳を塞ぎたいような気持ちになったのだが、不思議とその感情は次第に消えていく。嫉妬の棘が抜けてしまうほどに、彼の話し方が優しかったのだ。諜報員として活動し、その後日清戦争、日露戦争と戦い続けている彼の人生にも、温かな時間があったのだ。鶴見中尉が人の愛し方を知っているのは、愛し愛された経験があるからだと、ナマエは気が付いた。今の夫を作り上げたのは、過去の一つ一つの出来事だ。その中に、夫にとってかけがえのない美しいもの、温かいものが有るのならば、それは良いことではないか。諜報、戦争。そればかりでは、余りにも寂しい。
「しかしそう言う日々も終わりが来た。前にアイヌのインカラマッという女が訪ねて来たのを覚えているかい。彼女が探していたウィルクという男が放った銃弾が、フィーナとオリガを貫いた。即死だったよ」
ナマエは驚いて、まじまじと鶴見中尉の顔を見返すが、彼は表情一つ変えていなかった。
ナマエは自分を恥じた。そんな過去を話させてしまった、自分の浅はかさを悔やんだ。彼はどれだけの喪失感を味わっただろう。そんな事すら察する事もできず、くよくよと我儘を言った自分が情けなかった。
「……話して下さって、ありがとうございました。私は、自分が恥ずかしいです。よく考えもせず、旦那様を煩わせてしまいました」
ナマエは居住まいを正すと、ごめんなさい、と悲しげに俯いた。
「いいんだ。当然の反応だ、そういう瑞々しいところが、ナマエの良さなのだから。そしてよく気がつくその賢さも」
そう言いながら、畏まっているナマエの手を取ると、目を合わせてから口を開く。
「……私はナマエに出会うまで、再び結婚しようと思ったことは一度もない。必要ないと思っていたからね。しかし君と時間を過ごすことで考えが変わったのさ。ナマエは私の人生の一部だ」
鶴見中尉はそう言うと、微笑みを浮かべてナマエを見つめる。その目を見ていると胸が詰まって、ナマエは何も言えなくなってしまった。殺されたフィーナとオリガと事も考えた。彼女たちはどれだけ怖かっただろうか、痛かっただろうか。我が子と共に命が消えていくとき、どれだけ悲しく辛かったか。鶴見中尉も、フィーナもオリガも、みな可哀想でならない。
「旦那様、フィーナさんとオリガちゃんのこと……ずっとそのお心にあっても、私は決して、二度と嫉妬などしません。むしろ、そんなにも大切な方がいたのに、私を妻として迎えて下さって、ありがとうございます」
感極まって、思わずぽろりと涙が落ちる。鶴見中尉はじっとその表情を見つめると、ふわりとほどけるような笑みを浮かべた。
「君は優しいな。そういうところが私は好きだよ」
こっちにおいで、と鶴見中尉に呼ばれてナマエはにじり寄った。もう泣くのはやめなさい、君は笑顔が一番似合うのだから。そう言うと、彼は優しく接吻した。安心させるように、そっと。ナマエは目を閉じた暗闇の中で唇に熱を感じながら、何も怖がることは無かったのだと思った。彼の愛情は、変わらずナマエに寄り添っていた。それを見失いそうになったのは、ナマエの方だった。この先々、共に生活していれば色々なことがあるだろう。しかし目の前の出来事だけに囚われず、鶴見中尉の心を信じようとナマエは思った。ナマエは籠に閉じ込められるのではなくて、愛に包まれていたのだった。
……しかし鶴見中尉の年齢を考えてみれば、過去に妻があったとしても不思議ではないとナマエは思った。そして、それをわざわざ言わないのも当たり前だ。現にナマエはこうして心がちくちくと痛む訳で、それを見越して鶴見中尉 はこの件に触れてこなかったのだろう。頭では分かっているけれど、ナマエはどうしようもなく、心がしなしなと元気が無くなるのを感じた。幼稚な考えをしている自覚はあったけれど、自分が絶対に見ることが出来ない風景を鶴見中尉と見たり、経験したひとがいるのだ。青年の彼と、子を成した人が。それほどまでに彼の寵愛を受けたひとが。ナマエはそれを考えると、どす黒い靄が心を毒していくのを感じる。嫉妬だと自覚した時に、ナマエはまた傷ついた。あのひとは私を白百合のようだと仰ったけれど、とんでもない。幼稚な嫉妬に心が支配されるような、そんな女なんだわ。それを知ったら、篤四郎さまはどうなさる。ナマエは鳴き始めた蝉の声を聞きながら、胸に嫌なものが広がっていくのを感じていた。こんなに醜い感情は、今まで感じた事がなかった。
夜になって鶴見中尉が帰宅すると、女中が顔を曇らせて彼に近付いた。奥様は今日お食事を召し上がっていませんの。お加減が悪いのかと思ってお聞きしても、大丈夫よ、としか仰いませんし。鶴見中尉は女中の言葉を黙って聞くと、そうかい、ありがとう。と返事をして、もう下がるように告げた。ナマエが籠っているという部屋にそっと近づくと、入るよ、と声をかける。少しの間の後に、どうぞ、と返事が聞こえた。硬い声だ。鶴見中尉はすっと襖を開けると中に入る。文机の前に座っていたのだろう、窓を背にしてナマエは手をつくと、お帰りなさいませ、といつものように挨拶をした。部屋は洋燈の弱いあかりが灯っているばかりで、薄暗い。ナマエの表情や仕草を一目見て、何かが彼女の中で起こっているのを鶴見中尉は感じた。そこでナマエの隣まで歩いていくと、座って彼女の顔を覗き込むようにする。そうすると普段ならばナマエの瞳には喜びの色がちらつくが、今日は逃げるように目を伏せた。
「食事を摂っていないそうだね。身体に障るよ」
ナマエはすみません、と小さな声で返事をすると、口を噤んだ。まるで言葉が零れ落ちるのを食い止めるように。そんな様子を見ていると、鶴見中尉はつい微笑んでしまう。咲くのを拒む蕾のようだった。そこで、花が開く気になるように、彼はそっとナマエの手を取ると、柔らかい声で尋ねた。
「話したいことがあるんだろう?言ってご覧」
ナマエのこういう態度は初めて見るので、鶴見中尉はじっと彼女の様子を観察する。ナマエは葛藤するような、苦しそうな表情を浮かべて暫く黙っていたが、やがて絞り出すような声で、お許し下さい、と言った。私は醜い女です、お許しください。
「何故そんな事を言うんだい」
辛そうにしているナマエを見ていると、なんだか食べてしまいたくなる。歯でがぶりと。
「……私は嫉妬しているのです、貴方の心の中にいる方に」
鶴見中尉は一瞬、彫刻のようにぴたりと固まったが、すぐに普段の通りになる。ナマエはフィーナのことを言っているのか。昨日、赤ん坊を見たときからナマエの様子が少し違うのは感じていたが、それは彼女の優しい心が、赤ん坊を憐れんでいるからだと思っていた。
「貴方はきっと、大切な方がいたのでしょう。その腕に、子どもを抱いたことがおありなんでしょう。それを考えますと、胸が苦しくて仕方がないのです」
言い切ると、ナマエの呼吸が不安定になって、涙の気配がする。鋭い女だ、と彼は思った。心に抱えた不安に飲み込まれそうなナマエは、若く未熟だ。その新芽のようなひとに、彼女よりも沢山の時間を重ねた自分の手を伸ばす。
「ナマエ。愛しく思う人の過去も未来も、現在も全て手に入れたいと思うことは、決して醜いことではない」
柔らかな頬に指先を触れる。ナマエの瞳が揺れ動いて、彼を見返した。
「黙っていて、悪かったね」
そう言うと、鶴見中尉はその腕にナマエを包んだ。押し殺した嗚咽が聞こえて、彼は背中をそっと撫でてやる。
「君を傷付けるつもりはなかったんだ。知らなくても良いことだと考えていたからね。しかし私は、どうやらナマエのことを子ども扱いしていたようだ」
ナマエは黙って夫の言葉を聞いていた。温かい雨のように、心をひたひたと濡らすそれにじっと耳を傾けた。これから話すことを、決して人に言ってはいけないよ。と彼は腕の中のナマエに囁くと、静かな語り口で話し始める。
「私はかつて、浦潮斯徳で長谷川幸一を名乗ってある仕事をしていた……日本軍の諜報員さ。その中で、妻と出会った」
彼は感情の読み取れない声で淡々と、写真屋として暮らし、子どもも授かった平穏な日々の記憶を話した。身を偽っての結婚生活だったが、夫が家族へ真心を込めて接していたのを、ナマエは言葉の端々から感じ取った。最初こそ耳を塞ぎたいような気持ちになったのだが、不思議とその感情は次第に消えていく。嫉妬の棘が抜けてしまうほどに、彼の話し方が優しかったのだ。諜報員として活動し、その後日清戦争、日露戦争と戦い続けている彼の人生にも、温かな時間があったのだ。鶴見中尉が人の愛し方を知っているのは、愛し愛された経験があるからだと、ナマエは気が付いた。今の夫を作り上げたのは、過去の一つ一つの出来事だ。その中に、夫にとってかけがえのない美しいもの、温かいものが有るのならば、それは良いことではないか。諜報、戦争。そればかりでは、余りにも寂しい。
「しかしそう言う日々も終わりが来た。前にアイヌのインカラマッという女が訪ねて来たのを覚えているかい。彼女が探していたウィルクという男が放った銃弾が、フィーナとオリガを貫いた。即死だったよ」
ナマエは驚いて、まじまじと鶴見中尉の顔を見返すが、彼は表情一つ変えていなかった。
ナマエは自分を恥じた。そんな過去を話させてしまった、自分の浅はかさを悔やんだ。彼はどれだけの喪失感を味わっただろう。そんな事すら察する事もできず、くよくよと我儘を言った自分が情けなかった。
「……話して下さって、ありがとうございました。私は、自分が恥ずかしいです。よく考えもせず、旦那様を煩わせてしまいました」
ナマエは居住まいを正すと、ごめんなさい、と悲しげに俯いた。
「いいんだ。当然の反応だ、そういう瑞々しいところが、ナマエの良さなのだから。そしてよく気がつくその賢さも」
そう言いながら、畏まっているナマエの手を取ると、目を合わせてから口を開く。
「……私はナマエに出会うまで、再び結婚しようと思ったことは一度もない。必要ないと思っていたからね。しかし君と時間を過ごすことで考えが変わったのさ。ナマエは私の人生の一部だ」
鶴見中尉はそう言うと、微笑みを浮かべてナマエを見つめる。その目を見ていると胸が詰まって、ナマエは何も言えなくなってしまった。殺されたフィーナとオリガと事も考えた。彼女たちはどれだけ怖かっただろうか、痛かっただろうか。我が子と共に命が消えていくとき、どれだけ悲しく辛かったか。鶴見中尉も、フィーナもオリガも、みな可哀想でならない。
「旦那様、フィーナさんとオリガちゃんのこと……ずっとそのお心にあっても、私は決して、二度と嫉妬などしません。むしろ、そんなにも大切な方がいたのに、私を妻として迎えて下さって、ありがとうございます」
感極まって、思わずぽろりと涙が落ちる。鶴見中尉はじっとその表情を見つめると、ふわりとほどけるような笑みを浮かべた。
「君は優しいな。そういうところが私は好きだよ」
こっちにおいで、と鶴見中尉に呼ばれてナマエはにじり寄った。もう泣くのはやめなさい、君は笑顔が一番似合うのだから。そう言うと、彼は優しく接吻した。安心させるように、そっと。ナマエは目を閉じた暗闇の中で唇に熱を感じながら、何も怖がることは無かったのだと思った。彼の愛情は、変わらずナマエに寄り添っていた。それを見失いそうになったのは、ナマエの方だった。この先々、共に生活していれば色々なことがあるだろう。しかし目の前の出来事だけに囚われず、鶴見中尉の心を信じようとナマエは思った。ナマエは籠に閉じ込められるのではなくて、愛に包まれていたのだった。