第16章
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「……それで、旭川で飛行船に乗っていたのは、間違いなく尾形百之助だったんだな?」
はい、と月島とナマエはほぼ同時に答えた。更に月島が、花沢中将の自刃に泥を塗る行為であります、と鯉登少尉の言葉を伝えると、鶴見中尉は ふむ、と考えるようなそぶりを見せた。
「花沢中将の自刃は、203高地の甚大な被害を中央がすべてなすりつけたのが原因だ…尾形百之助も当然、父君の名誉と第七師団のために戦ってくれると信じていたのだが…」
花沢中将の自刃といえば、ナマエはちょうど軍病院に入院していた頃に起こった出来事だ。自刃が発覚する前夜、つまり、自刃当日の夜に現れた尾形の姿が、ナマエの脳裏にありありと思い返された。彼の右手についた黒い汚れは、何か嫌な予感を彼女の心に広げていった。一体あれは何だったのだろう。あの夜の事を考えようとすると、頭に靄がかかったように思考が邪魔される。考えるな、と勘が告げているのだろうか。
「ところで、鯉登少尉。ちょっとこっちに来なさい」
鶴見中尉の言葉にはっと我に帰ると、鯉登少尉が上官に密着するように新聞を覗き込んでいるところだった。話題は例の稲妻強盗に移ったようだ。
「刺青人皮をエサにすれば、罠にかかるかもしれませんね」
「そうだな、月島。江渡貝くぅんの贋物が役に立つ時が来たようだ。鯉登、お前の皮は本物だから使わんぞ」
きええッと恥じ入るようにする鯉登少尉に、そういうところだぞ、と言って聞かせると、鶴見中尉は今後の予定について話し始めた。東松屋商店という、花園地区にある油問屋は賭場になっており、そこを利用するとの事だった。
「月島と二階堂は賭場の客として潜入し、贋の皮をカタにして置いていけ。必ず稲妻は食いつくだろう…なんだ鯉登、お前も行きたいのか」
鶴見中尉はふぅとため息をつくと、フルフルと頭を横に振った。
「お前はダメだ。育ちの良さが出すぎているからな、賭場で負けがこむようなチンピラには見えんだろう。襲撃当日、私の援護をすれば良いのだから、そう焦るな」
そう言いながら鶴見中尉は部下を見ると、口元に笑みを浮かべた。鯉登少尉はそれだけで満足したのか、先程までの不満げな表情はどこへやら、月島に 精進いたします、と囁くのがかすかに聞こえてくる。
「よし、この話は終わりだ。兵舎へ戻ったら準備するように。」
はい、と二人の軍人は居ずまいを正して返事をすると、ナマエに見送られて家を後にしていった。
♢
賭場の計画が始まってからというもの、鶴見中尉は夜に例の油問屋で稲妻強盗を待ち構えているので、一人で眠ることが増えた。正直に言えば少々寂しいものだが、家で夫を待つ時間というのは、妻の特権であるような気がして嫌いではなかった。今日は少し暑い日だったので、疲れを感じながら寝床へ入ると目を閉じる。とは言えお盆が過ぎればすぐに寒くなるので、この暑さもほんの一時期のことだ。
夜明け前、ガタガタと扉が開く音と、複数の足音。そして聞き間違いでなければ、赤ん坊のおぎゃあ、という泣き声が聞こえてナマエは飛び起きた。急いで身だしなみを整えて居間の方へ出向いてみると、鶴見中尉、鯉登少尉、月島軍曹、二階堂の姿が見えて、彼らは畳の上の何かを囲むように座っていた。特に二階堂は、何やら手を動かして悪戦苦闘している様子だ。
「皆様お揃いで……お帰りなさいませ。あの、今赤ん坊の声がしたような」
男達は、さっと視線をナマエに向けると 助かった、というような顔をする。途端に、耳をつんざくような鋭い泣き声が響いた。
「ナマエ、今帰ったが……この子は稲妻夫婦の赤ん坊だ。あんな親が育てた子供はどんな人間になるのか、興味が有るところだったな」
ナマエも彼らに近づいて視線を落とすと、まだ小さな赤ん坊が泣き声をあげている。二階堂が おむつ出来た!と言って抱きかかえるも、酷い有様だったので鶴見中尉が部下の手から赤ん坊を抱き上げた。その動作は驚くほど滑らかで、腕の中の小さな子を眺める目は険しさや棘は消え去ったように優しかった。父性。そんな言葉がしっくりくる。
「今ですら我々の手には負えない。どこか信頼のできる人間に託さないと」
その声色を聞いた時、ナマエは悟った。
旦那様は、篤四郎さまは、子供が居たのだわ。
その腕に、自分の子を抱いたことがきっとあるのね。ではその子供はどこへ?そして、その母親であり、妻は?ナマエの胸の中には、疑問が次々と渦巻いていって、うまく思考が働かない。しかし、おぎゃあという鋭い泣き声で我に帰ると、二階堂が失敗したおむつを受け取る。兎にも角にも、目の前の赤ん坊の世話をしなくては。
「おむつを着けますね。昔奉公していたお屋敷で、赤ん坊のお世話をした事も有りますから任せて下さい」
「そうか、それは頼もしい」
そう言うと、鶴見中尉は赤ん坊をナマエに抱かせた。その仕草はなんだか泣きたくなる程自然で、自分の直感が正しいことをまざまざと思い知る。ナマエは手早くおむつを付けてやると、腕に抱いてあやした。小さい体が冷えないよう、鶴見中尉は畳に置いたあった布を拾い上げて、赤ん坊にかけてやる。その手つきを見ながら、ナマエは漠然と、自分の人生にこういう場面は訪れるのだろうか、と考えた。これから先、夫とはどのような未来が待っているのだろう。そして、このひとの過去には、一体何があるのだろう。よく知っていると思っていた鶴見中尉の横顔が、なんだか別人のように思える。
「……月島、この赤ん坊をアイヌの村へ預けに行け。彼らは血の繋がらぬ子も我が子のように育てると聞く」
はい、と月島はいつものように返事をすると、促すようにナマエを見た。彼女は一瞬迷ったが、赤ん坊を抱く腕に少しだけ力を込めると口を開いた。
「あの、私も行って宜しいでしょうか」
鶴見中尉は意外そうにナマエを見返したが、いいよ、行っておいで。と答えた。ナマエは頭を下げると、赤ん坊を入れてやる籠やら布やらを探して用意する。柔らかな布を敷き詰めて、両親の形見である着物を入れてあげた。いつかこの子が自身の出生を知った時、鶴見中尉を恨むのだろうか。稲妻夫婦が強盗をしていたのだって、自分達夫婦の私利私欲だけでなく、この赤ん坊を育てる為でもあったかもしれない。ナマエはなんだか羨ましいような気持ちになった。凶悪な夫婦ではあったが、彼らは一連托生、同じものを見て同じ事を考えて、共に散って行ったのだ。私達夫婦とは随分違う。赤ん坊の柔らかな頬を見ていると、そんな考えが浮かんでは消えていく。この子の両親を殺した男の妻であるナマエには、そんな資格は無いのかもしれないが、この小さく無防備な赤ん坊を目の前にすると、幸せを願わずにはいられなかった。
ナマエと月島は準備を整えると、もうじき夜明けを迎える外へ出て、馬に乗ると小樽の森へと出発した。ナマエは月島の前に乗せてもらうと、赤ん坊が入った籠を慎重に抱える。森の木々を抜けていくと見慣れぬ家が並んだ村が見えてきて、ここがアイヌの住居なのかとナマエは物珍しく眺めた。まだ夜が明け切っていないこともあり、人っ子一人いない。
「奥様、こちらのお宅へ託しましょう」
声を潜めて月島が言い、ナマエは頷くとそっと籠を地面に置く。赤ん坊は眠っていて、安らかな寝息が微かに聞こえた。
「……行きましょう、人に見られます」
月島はちらりとナマエを見やってから言った。寂しそうな、切ないような、そんな顔で赤ん坊を見る女の横顔には、何か影が宿っているように思われた。彼女は 分かりました、と呟くと、最後にもう一度だけ赤ん坊を見つめてからくるりと背を向ける。二人は静かに村を立ち去って、元来た道を戻っていると、ナマエが唐突に口を開いた。
「月島さん。……主人は、過去に結婚していたことはありますか」
彼は目の前に座っている女の質問の意図がよく分からなかった。上官の結婚話など聞いたことがなかったし、当然ナマエもそのような認識だと考えていたからだ。
「いいえ、そのような話は一度も。……正直、鶴見中尉殿がナマエさんと結婚されたことも、部下達は驚いたくらいですから…その手の話は一切聞いたことがありません」
そうですか、と言ったきり、ナマエは沈黙した。月島は追求することはせずに、黙って馬を進める。通り過ぎる景色をぼんやりと眺めながら、ナマエの耳の奥に 浦潮斯徳に住んでいた事がある、という鶴見中尉の言葉が蘇る。日本で子を成したという可能性は、月島の発言からして考えにくい。つまり、露西亞に妻子がいたという事だろうか。そのひと達とは、どうなってしまったのだろう。紅茶の話をしてくれた鶴見中尉の、優しい郷愁が宿った目を思い出す。あれはきっと、美しい思い出を見る目だったのだ。彼の心にある美しい景色とは、異国での家族の思い出だったのだ。ナマエはそう思い至って、視線を遠くに向けた。確かな証拠があっての考えではないけれど、真実である確信があった。昨日までの生活が、まるで蜃気楼にでもなったかのようだった。全ては鶴見中尉が見せてくれた、甘い夢の中での微睡みだったのか。
あゝ出来る事ならば、夢から醒めたくなかった。ずっと眠っていたかった。あのひとは、もう一度私を閉じ込めてくれるだろうか。あのひとの言葉や視線や指先だけを信じていれば良かった、小さな籠の中へ。
だがそれが不可能なのも、ナマエは知っていた。変化したものを元に戻すことは出来ない。知らなかった自分と今の自分は、別物になってしまった。しかし、そうした止められない変化に伴う痛みを受けながらも、生活していくしかないのだ。その痛みに慣れたり、扱い方を覚えたり。誰かと人生を共にするとは、そういう事の連続なのかもしれない。ナマエは今一度、彼と共に生きる意味や、自分の気持ちを見つめ直そうと考えた。
辺りは普段通り朝を迎えて、ナマエの渦巻く心を置いてきぼりにするように、蝉が鳴き始めている。
はい、と月島とナマエはほぼ同時に答えた。更に月島が、花沢中将の自刃に泥を塗る行為であります、と鯉登少尉の言葉を伝えると、鶴見中尉は ふむ、と考えるようなそぶりを見せた。
「花沢中将の自刃は、203高地の甚大な被害を中央がすべてなすりつけたのが原因だ…尾形百之助も当然、父君の名誉と第七師団のために戦ってくれると信じていたのだが…」
花沢中将の自刃といえば、ナマエはちょうど軍病院に入院していた頃に起こった出来事だ。自刃が発覚する前夜、つまり、自刃当日の夜に現れた尾形の姿が、ナマエの脳裏にありありと思い返された。彼の右手についた黒い汚れは、何か嫌な予感を彼女の心に広げていった。一体あれは何だったのだろう。あの夜の事を考えようとすると、頭に靄がかかったように思考が邪魔される。考えるな、と勘が告げているのだろうか。
「ところで、鯉登少尉。ちょっとこっちに来なさい」
鶴見中尉の言葉にはっと我に帰ると、鯉登少尉が上官に密着するように新聞を覗き込んでいるところだった。話題は例の稲妻強盗に移ったようだ。
「刺青人皮をエサにすれば、罠にかかるかもしれませんね」
「そうだな、月島。江渡貝くぅんの贋物が役に立つ時が来たようだ。鯉登、お前の皮は本物だから使わんぞ」
きええッと恥じ入るようにする鯉登少尉に、そういうところだぞ、と言って聞かせると、鶴見中尉は今後の予定について話し始めた。東松屋商店という、花園地区にある油問屋は賭場になっており、そこを利用するとの事だった。
「月島と二階堂は賭場の客として潜入し、贋の皮をカタにして置いていけ。必ず稲妻は食いつくだろう…なんだ鯉登、お前も行きたいのか」
鶴見中尉はふぅとため息をつくと、フルフルと頭を横に振った。
「お前はダメだ。育ちの良さが出すぎているからな、賭場で負けがこむようなチンピラには見えんだろう。襲撃当日、私の援護をすれば良いのだから、そう焦るな」
そう言いながら鶴見中尉は部下を見ると、口元に笑みを浮かべた。鯉登少尉はそれだけで満足したのか、先程までの不満げな表情はどこへやら、月島に 精進いたします、と囁くのがかすかに聞こえてくる。
「よし、この話は終わりだ。兵舎へ戻ったら準備するように。」
はい、と二人の軍人は居ずまいを正して返事をすると、ナマエに見送られて家を後にしていった。
♢
賭場の計画が始まってからというもの、鶴見中尉は夜に例の油問屋で稲妻強盗を待ち構えているので、一人で眠ることが増えた。正直に言えば少々寂しいものだが、家で夫を待つ時間というのは、妻の特権であるような気がして嫌いではなかった。今日は少し暑い日だったので、疲れを感じながら寝床へ入ると目を閉じる。とは言えお盆が過ぎればすぐに寒くなるので、この暑さもほんの一時期のことだ。
夜明け前、ガタガタと扉が開く音と、複数の足音。そして聞き間違いでなければ、赤ん坊のおぎゃあ、という泣き声が聞こえてナマエは飛び起きた。急いで身だしなみを整えて居間の方へ出向いてみると、鶴見中尉、鯉登少尉、月島軍曹、二階堂の姿が見えて、彼らは畳の上の何かを囲むように座っていた。特に二階堂は、何やら手を動かして悪戦苦闘している様子だ。
「皆様お揃いで……お帰りなさいませ。あの、今赤ん坊の声がしたような」
男達は、さっと視線をナマエに向けると 助かった、というような顔をする。途端に、耳をつんざくような鋭い泣き声が響いた。
「ナマエ、今帰ったが……この子は稲妻夫婦の赤ん坊だ。あんな親が育てた子供はどんな人間になるのか、興味が有るところだったな」
ナマエも彼らに近づいて視線を落とすと、まだ小さな赤ん坊が泣き声をあげている。二階堂が おむつ出来た!と言って抱きかかえるも、酷い有様だったので鶴見中尉が部下の手から赤ん坊を抱き上げた。その動作は驚くほど滑らかで、腕の中の小さな子を眺める目は険しさや棘は消え去ったように優しかった。父性。そんな言葉がしっくりくる。
「今ですら我々の手には負えない。どこか信頼のできる人間に託さないと」
その声色を聞いた時、ナマエは悟った。
旦那様は、篤四郎さまは、子供が居たのだわ。
その腕に、自分の子を抱いたことがきっとあるのね。ではその子供はどこへ?そして、その母親であり、妻は?ナマエの胸の中には、疑問が次々と渦巻いていって、うまく思考が働かない。しかし、おぎゃあという鋭い泣き声で我に帰ると、二階堂が失敗したおむつを受け取る。兎にも角にも、目の前の赤ん坊の世話をしなくては。
「おむつを着けますね。昔奉公していたお屋敷で、赤ん坊のお世話をした事も有りますから任せて下さい」
「そうか、それは頼もしい」
そう言うと、鶴見中尉は赤ん坊をナマエに抱かせた。その仕草はなんだか泣きたくなる程自然で、自分の直感が正しいことをまざまざと思い知る。ナマエは手早くおむつを付けてやると、腕に抱いてあやした。小さい体が冷えないよう、鶴見中尉は畳に置いたあった布を拾い上げて、赤ん坊にかけてやる。その手つきを見ながら、ナマエは漠然と、自分の人生にこういう場面は訪れるのだろうか、と考えた。これから先、夫とはどのような未来が待っているのだろう。そして、このひとの過去には、一体何があるのだろう。よく知っていると思っていた鶴見中尉の横顔が、なんだか別人のように思える。
「……月島、この赤ん坊をアイヌの村へ預けに行け。彼らは血の繋がらぬ子も我が子のように育てると聞く」
はい、と月島はいつものように返事をすると、促すようにナマエを見た。彼女は一瞬迷ったが、赤ん坊を抱く腕に少しだけ力を込めると口を開いた。
「あの、私も行って宜しいでしょうか」
鶴見中尉は意外そうにナマエを見返したが、いいよ、行っておいで。と答えた。ナマエは頭を下げると、赤ん坊を入れてやる籠やら布やらを探して用意する。柔らかな布を敷き詰めて、両親の形見である着物を入れてあげた。いつかこの子が自身の出生を知った時、鶴見中尉を恨むのだろうか。稲妻夫婦が強盗をしていたのだって、自分達夫婦の私利私欲だけでなく、この赤ん坊を育てる為でもあったかもしれない。ナマエはなんだか羨ましいような気持ちになった。凶悪な夫婦ではあったが、彼らは一連托生、同じものを見て同じ事を考えて、共に散って行ったのだ。私達夫婦とは随分違う。赤ん坊の柔らかな頬を見ていると、そんな考えが浮かんでは消えていく。この子の両親を殺した男の妻であるナマエには、そんな資格は無いのかもしれないが、この小さく無防備な赤ん坊を目の前にすると、幸せを願わずにはいられなかった。
ナマエと月島は準備を整えると、もうじき夜明けを迎える外へ出て、馬に乗ると小樽の森へと出発した。ナマエは月島の前に乗せてもらうと、赤ん坊が入った籠を慎重に抱える。森の木々を抜けていくと見慣れぬ家が並んだ村が見えてきて、ここがアイヌの住居なのかとナマエは物珍しく眺めた。まだ夜が明け切っていないこともあり、人っ子一人いない。
「奥様、こちらのお宅へ託しましょう」
声を潜めて月島が言い、ナマエは頷くとそっと籠を地面に置く。赤ん坊は眠っていて、安らかな寝息が微かに聞こえた。
「……行きましょう、人に見られます」
月島はちらりとナマエを見やってから言った。寂しそうな、切ないような、そんな顔で赤ん坊を見る女の横顔には、何か影が宿っているように思われた。彼女は 分かりました、と呟くと、最後にもう一度だけ赤ん坊を見つめてからくるりと背を向ける。二人は静かに村を立ち去って、元来た道を戻っていると、ナマエが唐突に口を開いた。
「月島さん。……主人は、過去に結婚していたことはありますか」
彼は目の前に座っている女の質問の意図がよく分からなかった。上官の結婚話など聞いたことがなかったし、当然ナマエもそのような認識だと考えていたからだ。
「いいえ、そのような話は一度も。……正直、鶴見中尉殿がナマエさんと結婚されたことも、部下達は驚いたくらいですから…その手の話は一切聞いたことがありません」
そうですか、と言ったきり、ナマエは沈黙した。月島は追求することはせずに、黙って馬を進める。通り過ぎる景色をぼんやりと眺めながら、ナマエの耳の奥に 浦潮斯徳に住んでいた事がある、という鶴見中尉の言葉が蘇る。日本で子を成したという可能性は、月島の発言からして考えにくい。つまり、露西亞に妻子がいたという事だろうか。そのひと達とは、どうなってしまったのだろう。紅茶の話をしてくれた鶴見中尉の、優しい郷愁が宿った目を思い出す。あれはきっと、美しい思い出を見る目だったのだ。彼の心にある美しい景色とは、異国での家族の思い出だったのだ。ナマエはそう思い至って、視線を遠くに向けた。確かな証拠があっての考えではないけれど、真実である確信があった。昨日までの生活が、まるで蜃気楼にでもなったかのようだった。全ては鶴見中尉が見せてくれた、甘い夢の中での微睡みだったのか。
あゝ出来る事ならば、夢から醒めたくなかった。ずっと眠っていたかった。あのひとは、もう一度私を閉じ込めてくれるだろうか。あのひとの言葉や視線や指先だけを信じていれば良かった、小さな籠の中へ。
だがそれが不可能なのも、ナマエは知っていた。変化したものを元に戻すことは出来ない。知らなかった自分と今の自分は、別物になってしまった。しかし、そうした止められない変化に伴う痛みを受けながらも、生活していくしかないのだ。その痛みに慣れたり、扱い方を覚えたり。誰かと人生を共にするとは、そういう事の連続なのかもしれない。ナマエは今一度、彼と共に生きる意味や、自分の気持ちを見つめ直そうと考えた。
辺りは普段通り朝を迎えて、ナマエの渦巻く心を置いてきぼりにするように、蝉が鳴き始めている。