第16章
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翌日、二人は連れ立って列車に乗り、小樽へ向かった。鯉登少尉は当然のように一等客車の切符を二枚分買うと、ゆったりと横に長い座席に腰を下ろす。窓からは、やって来た短い夏の太陽が差し込んでいて少し眩しい。列車に乗るにしても三等を利用するナマエは、鯉登少尉の生活水準にはまたしても驚かされたが、さすが薩摩出身の海軍少将の御令息なだけあり、こうした行動も手馴れている。少し離れた所にナマエも腰を下ろすと、鯉登少尉はちらりと彼女の包帯を巻かれた手元に目をやった。もしあの場にいたのが鶴見中尉殿ならば、この傷はつかなかったかもしれない。そう思うと、なんだかやり切れないものが込み上げてくる。
「いつの間にか、夏が来たんですね」
動き出した列車に揺られながら、ナマエは窓の外へ目をやって言った。その言葉に列車の窓硝子越しに空を見上げると、真っ青な空に真白の雲が膨らんでいるのが見えた。その色彩はなんだか目に染み入るように鮮やかで、外を見るナマエの横顔と共に、心に残ってしまいそうだった。
列車の長旅を終えて駅に降り立つと、もう夕刻となっていた。鯉登少尉がナマエを自宅まで送ると、女中が二人を出迎えて、鶴見中尉の不在を伝える。鯉登少尉は そうか、と呟くように言うと、ナマエへ視線を戻した。
「では鶴見中尉殿へご報告の為に、後日改めてお伺いします。…着物は仕上がり次第こちらへ送るように言ってありますから、お受け取り下さい」
では失礼、と言って、鯉登少尉は兵舎へ向かって行った。その後姿を見送ってから、ナマエは玄関へと入る。数日ぶりの自宅にほっと心が緩むような心地良さを感じながら、部屋で荷解きを始めた。そんなに長い時間家を空けていた訳ではないが、鶴見中尉の気配が漂う空間にいると、途端に彼が恋しくなった。ナマエに触れる指先や、優しい言葉を囁く声を思い出していると、ふいに誰かが後ろからナマエの背中を包んだので、作業していた手を止めた。
「ナマエ、お帰り」
胸の奥がジンとするような、懐かしい声に名前を呼ばれる。ただ今戻りました、と呟くように答えると、彼の唇が耳に触れた。顎髭がちくりと当たって、僅かに痛い。
「昨日、月島から鯉登少尉の伝言を聞いたよ。飛行船から落ちたんだって?怪我はないのかな」
そう言いながら、鶴見中尉はナマエのうなじに唇をつけて、包帯が巻かれている腕に手を重ねた。こっちを向いて、と言われて体ごと振り向くと、彼に唇を奪われる。たっぷり数秒はそうした後に、鶴見中尉はナマエの瞳を覗き込むようにして口を開いた。
「……心配したよ。君がこうして帰ってきて良かった」
そう言いながら、指先でナマエの頬を撫でると、腕を伸ばして今度は正面から彼女を抱きしめた。外気の匂いと、鶴見中尉の匂いが混ざり合い、ナマエは目を閉じて深く息を吸った。軍服越しに、彼の鍛えられた胸板を感じて、頭を預けるようにする。鶴見中尉は優しくナマエの背中を撫でるようにした。それは子どもにするような慈愛のあるものに感じられて、心が安心に浸っていくような気がする。
「……旭川はどうだった?」
「はい、鯉登さんが色々と手配して下さって……楽しく過ごせました」
そうかい、それは良かった。と鶴見中尉は言うと、ナマエを包む腕にほんの少しだけ力を込める。今度は失わない、どんな形でもナマエだけは。だがそんな心境は微塵も出さずに、鶴見中尉は優しい目でナマエを見つめた。
♢
暑さは勢いを増し、本格的な夏が到来した。鶴見中尉は白地の夏衣袴 に袖を通すようになり、蝉が鳴く声が家の中にも聞こえてくる。緑の葉が青々と太陽に光るような夏の或る日、鶴見中尉は新聞を読みながらナマエを呼んだ。彼の横から紙面を覗き込んでみると、銀行襲撃 二人組の男女、稲妻強盗と蝮のお銀、という見出しが目を引いた。
「強盗ですか?怖いですね」
「ああ、近頃はこいつらが小樽の街中にいるようだから、用心するんだよ。ナマエは以前にも、土方歳三の一味に危険な目に遭わされた事があるだろう」
鶴見中尉は新聞の文字を追いながら、ナマエの手の甲を指で撫でた。
「この稲妻という男は、網走の脱獄囚の一人だ。近々一波乱あるかもしれないな」
鶴見中尉が意味ありげに言ったその日の午後、鯉登少尉と月島軍曹の二人が家を訪れて、ナマエが居間へと迎え入れた。鯉登少尉は包帯の外れた彼女の腕を見て、安堵の表情を浮かべると出されたお茶を啜る。
「傷も良くなってきたご様子で安心しました。……鶴見中尉殿には、これから謝罪致します」
鯉登少尉は座布団に正座し、そわそわと落ち着かなげに、座卓の上で組んだ指を揉むようにして気を紛らわせようとしていた。
「白石由竹も逃してしまったし……さぞお怒りだっただろう?鶴見中尉殿に叱られてしまう…月島、私の事を何か言っていなかったか?」
月島が何か言おうと口を開けると、鯉登少尉は怒涛の勢いでそれを制す。どうやら彼は鶴見中尉に関することとなると情緒不安定になるようで、ナマエはちらりと月島の表情を窺うが、彼は仏頂面を保ったままだった。そして鯉登少尉殿 お気を確かに、と慣れた様子で言うと、一枚の写真を取り出す。少尉はそれを機敏に察知すると、飛びつくように月島の手元を覗き込んで大切そうに受け取った。
「良い良いッ!月島ぁあ!奉天会戦の前ぐらいか?ナマエさんもご覧下さいッ」
二人は頭を付き合わせるようにして、写真を凝視する。まだ額に傷が無く、外套を着込んで月島と写っているそれは、厳かな雰囲気があった。鯉登少尉は何処からか自らの顔写真の切り抜きを取り出すと、月島の顔に被せるようにする。米で糊を作る作らないの問答をしているうちに、すらっと障子が開いて 来てたのか、鯉登少尉。と声が降ってきた。二人は弾かれたように後ろを振り向くと、鶴見中尉が微笑んだのが見える。突如キエエエと叫んだ鯉登少尉に驚きつつも、ナマエは お帰りなさいませ、と手をついた。
「すみません、旦那様のお写真を見ておりましたら気が付かずに……」
「写真?ふふ、妙なことを言うね。現物の私がいるのだから、紙一枚に夢中になる事もないさ」
そう言いながら鶴見中尉が上座へ腰を降ろそうとしていると、鯉登少尉は畳の上で土下座しながら、早口の薩摩弁でなにやら懸命に訴えている。上官の 分からんッの一言で、月島が彼の言葉を代弁することとなった。
「ナマエの事はもう良い、貴様がいたからこの程度で済んだのだ。あのまま連れ去られていたとしても、おかしくは無かったのだからな。……しかし白石由竹という男は、利用価値があると判断したから殺すなと命じたのだ。それを敵の手に渡すとは…失望したぞ、鯉登少尉」
鯉登少尉はあまりの落胆に、へなへなと体の力が抜けていく様子であったが、何か思い出したかのように立ち上がると、上衣の釦を外してシャツも脱ぎ始めた。姿を現したのは刺青人皮で、彼はそれを鶴見中尉に倣って素肌の上に着用している。ほお、似合ってるじゃないか と鶴見中尉は言うと、その皮は詐欺師の鈴川聖弘だろうと判断を下した。
「鯉登少尉、お前は旭川での任務を外れろ。小樽で私の囚人狩りに参加するのだ」
鯉登少尉は嬉しそうな表情を浮かべると、月島の耳元で何か囁く。
「精進いたします と言ってます」
浮き立つような顔つきの少尉の傍らで、月島軍曹の仏頂面は、さらに固いものになっていた。
「いつの間にか、夏が来たんですね」
動き出した列車に揺られながら、ナマエは窓の外へ目をやって言った。その言葉に列車の窓硝子越しに空を見上げると、真っ青な空に真白の雲が膨らんでいるのが見えた。その色彩はなんだか目に染み入るように鮮やかで、外を見るナマエの横顔と共に、心に残ってしまいそうだった。
列車の長旅を終えて駅に降り立つと、もう夕刻となっていた。鯉登少尉がナマエを自宅まで送ると、女中が二人を出迎えて、鶴見中尉の不在を伝える。鯉登少尉は そうか、と呟くように言うと、ナマエへ視線を戻した。
「では鶴見中尉殿へご報告の為に、後日改めてお伺いします。…着物は仕上がり次第こちらへ送るように言ってありますから、お受け取り下さい」
では失礼、と言って、鯉登少尉は兵舎へ向かって行った。その後姿を見送ってから、ナマエは玄関へと入る。数日ぶりの自宅にほっと心が緩むような心地良さを感じながら、部屋で荷解きを始めた。そんなに長い時間家を空けていた訳ではないが、鶴見中尉の気配が漂う空間にいると、途端に彼が恋しくなった。ナマエに触れる指先や、優しい言葉を囁く声を思い出していると、ふいに誰かが後ろからナマエの背中を包んだので、作業していた手を止めた。
「ナマエ、お帰り」
胸の奥がジンとするような、懐かしい声に名前を呼ばれる。ただ今戻りました、と呟くように答えると、彼の唇が耳に触れた。顎髭がちくりと当たって、僅かに痛い。
「昨日、月島から鯉登少尉の伝言を聞いたよ。飛行船から落ちたんだって?怪我はないのかな」
そう言いながら、鶴見中尉はナマエのうなじに唇をつけて、包帯が巻かれている腕に手を重ねた。こっちを向いて、と言われて体ごと振り向くと、彼に唇を奪われる。たっぷり数秒はそうした後に、鶴見中尉はナマエの瞳を覗き込むようにして口を開いた。
「……心配したよ。君がこうして帰ってきて良かった」
そう言いながら、指先でナマエの頬を撫でると、腕を伸ばして今度は正面から彼女を抱きしめた。外気の匂いと、鶴見中尉の匂いが混ざり合い、ナマエは目を閉じて深く息を吸った。軍服越しに、彼の鍛えられた胸板を感じて、頭を預けるようにする。鶴見中尉は優しくナマエの背中を撫でるようにした。それは子どもにするような慈愛のあるものに感じられて、心が安心に浸っていくような気がする。
「……旭川はどうだった?」
「はい、鯉登さんが色々と手配して下さって……楽しく過ごせました」
そうかい、それは良かった。と鶴見中尉は言うと、ナマエを包む腕にほんの少しだけ力を込める。今度は失わない、どんな形でもナマエだけは。だがそんな心境は微塵も出さずに、鶴見中尉は優しい目でナマエを見つめた。
♢
暑さは勢いを増し、本格的な夏が到来した。鶴見中尉は白地の夏
「強盗ですか?怖いですね」
「ああ、近頃はこいつらが小樽の街中にいるようだから、用心するんだよ。ナマエは以前にも、土方歳三の一味に危険な目に遭わされた事があるだろう」
鶴見中尉は新聞の文字を追いながら、ナマエの手の甲を指で撫でた。
「この稲妻という男は、網走の脱獄囚の一人だ。近々一波乱あるかもしれないな」
鶴見中尉が意味ありげに言ったその日の午後、鯉登少尉と月島軍曹の二人が家を訪れて、ナマエが居間へと迎え入れた。鯉登少尉は包帯の外れた彼女の腕を見て、安堵の表情を浮かべると出されたお茶を啜る。
「傷も良くなってきたご様子で安心しました。……鶴見中尉殿には、これから謝罪致します」
鯉登少尉は座布団に正座し、そわそわと落ち着かなげに、座卓の上で組んだ指を揉むようにして気を紛らわせようとしていた。
「白石由竹も逃してしまったし……さぞお怒りだっただろう?鶴見中尉殿に叱られてしまう…月島、私の事を何か言っていなかったか?」
月島が何か言おうと口を開けると、鯉登少尉は怒涛の勢いでそれを制す。どうやら彼は鶴見中尉に関することとなると情緒不安定になるようで、ナマエはちらりと月島の表情を窺うが、彼は仏頂面を保ったままだった。そして鯉登少尉殿 お気を確かに、と慣れた様子で言うと、一枚の写真を取り出す。少尉はそれを機敏に察知すると、飛びつくように月島の手元を覗き込んで大切そうに受け取った。
「良い良いッ!月島ぁあ!奉天会戦の前ぐらいか?ナマエさんもご覧下さいッ」
二人は頭を付き合わせるようにして、写真を凝視する。まだ額に傷が無く、外套を着込んで月島と写っているそれは、厳かな雰囲気があった。鯉登少尉は何処からか自らの顔写真の切り抜きを取り出すと、月島の顔に被せるようにする。米で糊を作る作らないの問答をしているうちに、すらっと障子が開いて 来てたのか、鯉登少尉。と声が降ってきた。二人は弾かれたように後ろを振り向くと、鶴見中尉が微笑んだのが見える。突如キエエエと叫んだ鯉登少尉に驚きつつも、ナマエは お帰りなさいませ、と手をついた。
「すみません、旦那様のお写真を見ておりましたら気が付かずに……」
「写真?ふふ、妙なことを言うね。現物の私がいるのだから、紙一枚に夢中になる事もないさ」
そう言いながら鶴見中尉が上座へ腰を降ろそうとしていると、鯉登少尉は畳の上で土下座しながら、早口の薩摩弁でなにやら懸命に訴えている。上官の 分からんッの一言で、月島が彼の言葉を代弁することとなった。
「ナマエの事はもう良い、貴様がいたからこの程度で済んだのだ。あのまま連れ去られていたとしても、おかしくは無かったのだからな。……しかし白石由竹という男は、利用価値があると判断したから殺すなと命じたのだ。それを敵の手に渡すとは…失望したぞ、鯉登少尉」
鯉登少尉はあまりの落胆に、へなへなと体の力が抜けていく様子であったが、何か思い出したかのように立ち上がると、上衣の釦を外してシャツも脱ぎ始めた。姿を現したのは刺青人皮で、彼はそれを鶴見中尉に倣って素肌の上に着用している。ほお、似合ってるじゃないか と鶴見中尉は言うと、その皮は詐欺師の鈴川聖弘だろうと判断を下した。
「鯉登少尉、お前は旭川での任務を外れろ。小樽で私の囚人狩りに参加するのだ」
鯉登少尉は嬉しそうな表情を浮かべると、月島の耳元で何か囁く。
「精進いたします と言ってます」
浮き立つような顔つきの少尉の傍らで、月島軍曹の仏頂面は、さらに固いものになっていた。