第16章
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ナマエは街に戻ると、即病院に連れていかれて、骨などに異常が無いか検査を受けた。幸いどこにも異常はなく、何箇所かにできた擦り傷の手当てを受ける。その最中に、バタバタと遠くから足音が聞こえてきて、勢いよく扉が開いた。
「ナマエさんッ、大きな怪我などはありませんでしたか」
ゼエゼエと荒い息で、額には薄っすらと汗をかき、転がり込むように病室へ入ってきたのは鯉登少尉だ。白石の捜索を終えるや否や、矢のように早く帰ってきたのが見て取れる。
「はい、お医者様も問題ないと仰っていました。鯉登さんも、少し休まれた方が良いのではないですか」
「いいえ、これしき平気ですから」
そう言いながら息を整えるが、処置を終えた医師が椅子を勧めたので、鯉登少尉はどさりと腰を下ろした。医師は部屋を出て行き、扉が閉まる音がする。ナマエは近くの机に置かれていた水差しを手に取ると、硝子のコップに水を注いで差し出した。鯉登少尉はそれを受け取ると、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干す。
「……小樽へは明日お帰りですか」
「はい、その予定です。…主人には、この傷は転んだと申し上げることにしますね」
そう言うと、ナマエは控えめに微笑んで鯉登少尉を見た。それは彼が鶴見中尉から叱責を受けないための配慮だとわかり、その気遣いに心がほどけるような心地がする。しかし鯉登少尉は首を横に振った。
「それはいけません。今から小樽に電話しますので、私から鶴見中尉殿にご説明致します」
ナマエは何か言いたげに口を開きかけたが、鯉登少尉の厳しい表情を見てとると、黙って頷いた。
電話は第七師団司令部内にあり、廊下の壁に掛かったそれを二人は囲むようにして立っている。ナマエはちらりと鯉登少尉を見やると、口を開いた。
「あの…私がかけましょうか」
彼は おいが電話すっで待ちたもんせ、と言ったきり電話をじっと見つめている。胸元の物入れから鶴見中尉の写真を取り出してじっと見つめたあと、深呼吸を数回して意を決したように電話のハンドルを回すと受話器を持つ。市外です、と電話交換手に言って少しの間の後に はい、と微かに聞こえて来た。
「……なんだ月島か。鶴見中尉殿はいらっしゃらないのか。…そうか、それでは仕方あるまい。伝言をお伝えしてくれ」
そう言うと、犬童典獄と白石の顛末や、ナマエの怪我についても説明する。犬童典獄は偽物で、なんと刺青持ちの囚人であったそうだ。
「うむ、わかった。では切るぞ」
鯉登少尉は受話器を置いてナマエに向き直る。
「鶴見中尉殿は所用でお留守でしたので、月島に伝言を頼みました。しかし、囚人絡みの件ですので直接小樽まで報告に行った方が良いだろうということで、明日に私もナマエさんと旭川を出ることになりました」
「あら、そうですか。では支度をしなくてはならないですね」
ええ、と鯉登少尉は返事をすると、少し考えてから遠慮がちに口を開いた。
「…では、お詫びと言ってはなんですが、呉服屋に参りましょう。そのままで、鶴見中尉殿の元へお返しするわけにはいきませんから」
「いいえ、着替えもありますからお気遣いなく」
鯉登少尉はナマエの包帯を巻かれた腕や、破れた着物を見やってから、私の気が治らないのです、と言う。その表情は何か切々としたものが感じられて、ナマエは小さく頷いた。
♢
軍病院を出ると、2人は大通りにある呉服屋へ向かった。鯉登少尉は店へ入るなり、上等の反物を用意するようにと接客係に命じる。次々と運ばれてくる色とりどりの反物を、ナマエは呆然と眺めるばかりだった。鯉登少尉は慣れた様子でそれらの生地を眺めると、ナマエの方へと向き直って晴れやかな顔で言った。
「さあナマエさん、お好きなものを選んでください」
「あの、幾ら何でもこんな立派な反物は……私には勿体ないです」
「何を仰いますか、きっとお似合いになります。……鶴見中尉殿も、そうお思いになるでしょう」
最後の一言は複雑な気待ちで言ったが、ナマエは嬉しそうに頬を赫らめると そうでしょうか、と小さな声で言った。その様子にまた心を打たれるが、ぐっと堪えて反物に目を向ける。
「おや、これは薩摩絣 ですね。懐かしい、母もこの反物でよく着物を仕立てておりました。兄や私にも、誂えてくれたものです。綿織物ですが絹のように滑らかで、私は好きですが……」
そう言いながら、彼は反物に手を触れた。その薩摩絣は白地で、最高級の生地が指先に心地よかった。その白を見ていると、ふと去年の夏の或る日を思い出す。太陽が照りつけ、揺らめくような空気の中に浮かび上がっていた日傘。やけにくっきりと思い出される、ナマエの顔に落ちた陰。あの夏の日とこの薩摩絣が結びついて、ナマエがこの反物で仕立てた着物を着たら、どうだろうか。鯉登少尉の胸の中には、そんな思いが湧いて出た。着物を通して、自分と彼女は糸のように細くではあるが、繋がれていられるような気がした。
鶴見中尉どん、申し訳あいもはん。一つだけ、こんひととん思い出をおいにくれん。
彼は心の内で呟いてから、口を開いた。
「ナマエさん、この白薩摩で仕立てては如何ですか。…これは私の個人的な意見ですので、ナマエさんが好きな反物も選んで下さい」
ナマエは驚いて鯉登少尉を見返すが、彼は至って真面目な様子だったので、軽口で言った訳ではいのがすぐに分かった。
「いいえ、そんなにして頂いては申し訳ないですから……あの、鯉登さんがお勧めして下さった反物に致します」
「本当にそれでいいのですか?薩摩絣は良いものですが、他にも色鮮やかで御婦人が好きそうな反物もあると言うのに」
いいのです、とても気に入りましたから。そう言うとナマエは柔らく微笑んだ。
「ナマエさんッ、大きな怪我などはありませんでしたか」
ゼエゼエと荒い息で、額には薄っすらと汗をかき、転がり込むように病室へ入ってきたのは鯉登少尉だ。白石の捜索を終えるや否や、矢のように早く帰ってきたのが見て取れる。
「はい、お医者様も問題ないと仰っていました。鯉登さんも、少し休まれた方が良いのではないですか」
「いいえ、これしき平気ですから」
そう言いながら息を整えるが、処置を終えた医師が椅子を勧めたので、鯉登少尉はどさりと腰を下ろした。医師は部屋を出て行き、扉が閉まる音がする。ナマエは近くの机に置かれていた水差しを手に取ると、硝子のコップに水を注いで差し出した。鯉登少尉はそれを受け取ると、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干す。
「……小樽へは明日お帰りですか」
「はい、その予定です。…主人には、この傷は転んだと申し上げることにしますね」
そう言うと、ナマエは控えめに微笑んで鯉登少尉を見た。それは彼が鶴見中尉から叱責を受けないための配慮だとわかり、その気遣いに心がほどけるような心地がする。しかし鯉登少尉は首を横に振った。
「それはいけません。今から小樽に電話しますので、私から鶴見中尉殿にご説明致します」
ナマエは何か言いたげに口を開きかけたが、鯉登少尉の厳しい表情を見てとると、黙って頷いた。
電話は第七師団司令部内にあり、廊下の壁に掛かったそれを二人は囲むようにして立っている。ナマエはちらりと鯉登少尉を見やると、口を開いた。
「あの…私がかけましょうか」
彼は おいが電話すっで待ちたもんせ、と言ったきり電話をじっと見つめている。胸元の物入れから鶴見中尉の写真を取り出してじっと見つめたあと、深呼吸を数回して意を決したように電話のハンドルを回すと受話器を持つ。市外です、と電話交換手に言って少しの間の後に はい、と微かに聞こえて来た。
「……なんだ月島か。鶴見中尉殿はいらっしゃらないのか。…そうか、それでは仕方あるまい。伝言をお伝えしてくれ」
そう言うと、犬童典獄と白石の顛末や、ナマエの怪我についても説明する。犬童典獄は偽物で、なんと刺青持ちの囚人であったそうだ。
「うむ、わかった。では切るぞ」
鯉登少尉は受話器を置いてナマエに向き直る。
「鶴見中尉殿は所用でお留守でしたので、月島に伝言を頼みました。しかし、囚人絡みの件ですので直接小樽まで報告に行った方が良いだろうということで、明日に私もナマエさんと旭川を出ることになりました」
「あら、そうですか。では支度をしなくてはならないですね」
ええ、と鯉登少尉は返事をすると、少し考えてから遠慮がちに口を開いた。
「…では、お詫びと言ってはなんですが、呉服屋に参りましょう。そのままで、鶴見中尉殿の元へお返しするわけにはいきませんから」
「いいえ、着替えもありますからお気遣いなく」
鯉登少尉はナマエの包帯を巻かれた腕や、破れた着物を見やってから、私の気が治らないのです、と言う。その表情は何か切々としたものが感じられて、ナマエは小さく頷いた。
♢
軍病院を出ると、2人は大通りにある呉服屋へ向かった。鯉登少尉は店へ入るなり、上等の反物を用意するようにと接客係に命じる。次々と運ばれてくる色とりどりの反物を、ナマエは呆然と眺めるばかりだった。鯉登少尉は慣れた様子でそれらの生地を眺めると、ナマエの方へと向き直って晴れやかな顔で言った。
「さあナマエさん、お好きなものを選んでください」
「あの、幾ら何でもこんな立派な反物は……私には勿体ないです」
「何を仰いますか、きっとお似合いになります。……鶴見中尉殿も、そうお思いになるでしょう」
最後の一言は複雑な気待ちで言ったが、ナマエは嬉しそうに頬を赫らめると そうでしょうか、と小さな声で言った。その様子にまた心を打たれるが、ぐっと堪えて反物に目を向ける。
「おや、これは
そう言いながら、彼は反物に手を触れた。その薩摩絣は白地で、最高級の生地が指先に心地よかった。その白を見ていると、ふと去年の夏の或る日を思い出す。太陽が照りつけ、揺らめくような空気の中に浮かび上がっていた日傘。やけにくっきりと思い出される、ナマエの顔に落ちた陰。あの夏の日とこの薩摩絣が結びついて、ナマエがこの反物で仕立てた着物を着たら、どうだろうか。鯉登少尉の胸の中には、そんな思いが湧いて出た。着物を通して、自分と彼女は糸のように細くではあるが、繋がれていられるような気がした。
鶴見中尉どん、申し訳あいもはん。一つだけ、こんひととん思い出をおいにくれん。
彼は心の内で呟いてから、口を開いた。
「ナマエさん、この白薩摩で仕立てては如何ですか。…これは私の個人的な意見ですので、ナマエさんが好きな反物も選んで下さい」
ナマエは驚いて鯉登少尉を見返すが、彼は至って真面目な様子だったので、軽口で言った訳ではいのがすぐに分かった。
「いいえ、そんなにして頂いては申し訳ないですから……あの、鯉登さんがお勧めして下さった反物に致します」
「本当にそれでいいのですか?薩摩絣は良いものですが、他にも色鮮やかで御婦人が好きそうな反物もあると言うのに」
いいのです、とても気に入りましたから。そう言うとナマエは柔らく微笑んだ。