第15章
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邪魔にならぬよう、建物の裏手に寄せられた馬車の中で、ナマエは窓の外を見ながら鯉登少尉の帰りを待った。
犬堂典獄の名は初めて聞いたが、網走監獄、と言っているのが聞こえたので、脱獄囚関連なのだろう。
兵士や鯉登少尉の慌ただしさを思い返していると、急に数発の銃声が響き渡る。
ナマエが驚いて外を伺おうとした時、何かぶつかったような鈍い音がして、馬車が揺れた。見ると馭者がぐったりと伸びている。
そして白い外套を頭から被った兵士が馬車の扉を勢いよく開けて、三本線の袖章がぬっと現れたかと思うとナマエの腕を掴んで外へと引きずり出した。
「尾形さん!?なんで……」
春先に脱走したはずの姿に驚いて、彼の顔をまじまじと見た。尾形は急いでいるようで、強い力で引っ張るように走り出したので、ナマエも縺 れるようになりながら足を進める。
「黙って走れ。お前は人質だからな」
見ると、建物から兵士が幾人も飛び出して来ている。尾形は彼らから逃げようとしているようだ。
ナマエの腕を掴む掌はびくともせず、訳も分からぬうちに走っていると右手から男が二人駆けてくるのが見えた。
「杉元こっちはダメだッ 南へ逃げろ」
そう二人に叫んだ後、出て来ている兵士を見やってから銃剣を取り出して、ナマエの喉元に突き付ける。
「お前ら撃つなよ!この女を殺すぞ」
驚いて尾形の顔を見上げると、彼は低い声で 早く走れと命令した。杉元たちに合流すると、二人の男は不審げにナマエを見やる。
「確か鰊番屋にいたひと……尾形、どっから連れてきたんだっ…関係ないひとを巻き込むな」
杉元は出血のせいもあるのだろう、荒い息で尾形に問いかける。
「この女は鶴見中尉の嫁だ、弾除けにはなるだろ」
「あっ、前に火事の兵舎辺りにいたひとか…まさか鶴見中尉の奥さんだったとはねぇ」
坊主の男の言葉にナマエも記憶を遡ると、兵舎が火事になった時に声をかけて来た兵士と顔が一致した。彼はあの時変装して第七師団に紛れ込んでいたようだ。
「流石に人の嫁さん人質にするのはダメだろっ……て、何だありゃあ!!」
杉元の言葉に前を見ると、巨大な白い風船が、
空中に浮き上がろうとしている。何本もの紐が木枠の船のようなものに繋がっていて、ナマエはこれが何と言うものなのか知らなかった。
「気球隊の試作機だ!」
尾形が叫ぶように言うと、坊主頭の男が あれを奪って逃げよう、と一目散に駆け出す。
ナマエも尾形に引っ張られるようにして、気球のそばまで連れていかれたかと思うと、喉元に銃剣が突き付けられた。
「全員下がれッ もっと離れろ」
尾形が殺気立つ声で怒鳴る背後で、坊主の男が気球に乗り込んで操縦士の兵士に「早く動かせ」と急かしているのが聞こえる。
「乗れッ」
尾形の合図で、兵士から銃を奪っていた杉元も飛行船に飛び乗った。ナマエも押し上げられるように乗せられ、どんどん高度を上げて行くそれから飛び降りようと身をよじるが尾形に阻まれる。
下では兵士達が飛行船が飛び立とうとするのを全力で阻止しようと、大変な騒ぎとなっていた。
「ナマエさんッ」
その時鋭く名前を呼ばれて遠くを見ると、鯉登少尉が全速力で駆けてくるのが見える。兵士の軍刀を奪うと、群がる彼らの背中を蹴り上げて飛行船に飛び乗った。
「鯉登さんっ、良かった……」
飛行船はあっという間に降りられない高度に達していて、ナマエは気が遠くなりそうになりながらも木枠にしがみつく。
「ナマエさん、今助けますッ 動かないように!」
そう言うと、鯉登少尉は軍刀を構えて杉元らを睨みつけた。
杉元が応戦すべく尾形から銃剣を受け取る時に、鯉登少尉は尾形の存在に気がついたようで、薩摩弁で捲し立てた後、軍刀を振り上げて杉元に斬りかかった。
鯉登少尉が優勢に見えたが、死角から矢が放たれて彼の動きが止まる。その隙をついて、坊主の男が鯉登少尉に蹴りかかった。
身体がぐらりと揺れ、落ちる寸前に手を伸ばしてナマエの腕を掴む。
一瞬身体が浮くような感覚がしたかと思うと、あっという間に樹々が迫って来る。鯉登少尉は軍刀を手放すと両腕できつくナマエを包んだ。バキバキと枝が折れる音や、葉が擦れる音が響く。あちらこちらを擦りむく痛みと、落下の恐怖にナマエはきつく目を瞑った。
ナマエさん、ナマエさん、と呼ぶ声がぼんやりと聞こえて、彼女は薄っすら目を開けた。見ると、木の幹に身を預けるようにして座らされていて、彼がこのようにしてくれたのだと察する。
その様子に鯉登少尉は安堵の表情を浮かべると、すんもはん、おいのせいで…と薩摩弁で謝罪の言葉を並べた。
彼は自分が不甲斐なかった。その他大勢の男では一番でありたいと思っていたというのに、ナマエを危険な目に遭わせてしまった。
「いいえ、鯉登さん。自分で身を守れなかった私のせいですから、どうか頭を上げて下さい。それに、こうして助けて下さったではないですか」
おずおずとナマエの顔を見てみると、彼女は少し顔色が悪いものの、優しく微笑んでいる。その表情に、鯉登少尉の胸の奥は締め付けられた。
「男子として、おなごん一人も守れんなは情けなか……あたに怪我もさせてしもた」
そう言いながら、ナマエのそこかしこについた擦り傷や、枝に引っかかって破けた着物を見た。彼女はそれに気がつくと、大丈夫ですよ、と言うように傷をさすってみせる。
「鯉登さんこそ、お怪我は大丈夫ですか。あの高さで無事だったのは、鯉登さんが庇って下さったからです」
あら、血が少し出ていますよ、と言うと、彼女は懐からハンケチを取り出して、傷ができているらしいこめかみの辺りへ押し当てた。ナマエの指先の力が、布を通して伝わってくる。
もうだめだ、我慢できん。
鯉登少尉は彼女の腕を取ると、呆気にとられているその顔をじっと見つめた。このひとを抱きしめたい、その唇を奪いたい。
引きつけられるように、彼が顔をナマエに寄せた時だった。いたぞ、という声がして、鯉登少尉は弾かれたようにナマエから離れる。
「鯉登少尉殿!ご無事でありますか」
馬で捜索に来た兵士に視線を移し、若い将校は頷いてからすっと立ち上がった。
「……ああ、平気だ。私も奴らを追う、馬を寄越せ。一人は奥様を宿までお連れしろ」
ナマエさん、立てますか。と声をかけながら、彼女に手を貸して立たせると馬に乗った兵士の一人に任せる。
ナマエが街の方へ引き返していく後ろ姿を見届けてから、鯉登少尉は部下とともに白石の捜索へ向かった。今は兎に角、鶴見中尉殿のお役に立つことだけを考えなければ。想いを断ち切るというのは、難しく辛いことだった。そのせいで心が痛む程、ナマエの存在は大きなものになってしまっていた。
鯉登少尉は仕事に集中する為に前を真っ直ぐに見据え、馬を走らせる。
犬堂典獄の名は初めて聞いたが、網走監獄、と言っているのが聞こえたので、脱獄囚関連なのだろう。
兵士や鯉登少尉の慌ただしさを思い返していると、急に数発の銃声が響き渡る。
ナマエが驚いて外を伺おうとした時、何かぶつかったような鈍い音がして、馬車が揺れた。見ると馭者がぐったりと伸びている。
そして白い外套を頭から被った兵士が馬車の扉を勢いよく開けて、三本線の袖章がぬっと現れたかと思うとナマエの腕を掴んで外へと引きずり出した。
「尾形さん!?なんで……」
春先に脱走したはずの姿に驚いて、彼の顔をまじまじと見た。尾形は急いでいるようで、強い力で引っ張るように走り出したので、ナマエも
「黙って走れ。お前は人質だからな」
見ると、建物から兵士が幾人も飛び出して来ている。尾形は彼らから逃げようとしているようだ。
ナマエの腕を掴む掌はびくともせず、訳も分からぬうちに走っていると右手から男が二人駆けてくるのが見えた。
「杉元こっちはダメだッ 南へ逃げろ」
そう二人に叫んだ後、出て来ている兵士を見やってから銃剣を取り出して、ナマエの喉元に突き付ける。
「お前ら撃つなよ!この女を殺すぞ」
驚いて尾形の顔を見上げると、彼は低い声で 早く走れと命令した。杉元たちに合流すると、二人の男は不審げにナマエを見やる。
「確か鰊番屋にいたひと……尾形、どっから連れてきたんだっ…関係ないひとを巻き込むな」
杉元は出血のせいもあるのだろう、荒い息で尾形に問いかける。
「この女は鶴見中尉の嫁だ、弾除けにはなるだろ」
「あっ、前に火事の兵舎辺りにいたひとか…まさか鶴見中尉の奥さんだったとはねぇ」
坊主の男の言葉にナマエも記憶を遡ると、兵舎が火事になった時に声をかけて来た兵士と顔が一致した。彼はあの時変装して第七師団に紛れ込んでいたようだ。
「流石に人の嫁さん人質にするのはダメだろっ……て、何だありゃあ!!」
杉元の言葉に前を見ると、巨大な白い風船が、
空中に浮き上がろうとしている。何本もの紐が木枠の船のようなものに繋がっていて、ナマエはこれが何と言うものなのか知らなかった。
「気球隊の試作機だ!」
尾形が叫ぶように言うと、坊主頭の男が あれを奪って逃げよう、と一目散に駆け出す。
ナマエも尾形に引っ張られるようにして、気球のそばまで連れていかれたかと思うと、喉元に銃剣が突き付けられた。
「全員下がれッ もっと離れろ」
尾形が殺気立つ声で怒鳴る背後で、坊主の男が気球に乗り込んで操縦士の兵士に「早く動かせ」と急かしているのが聞こえる。
「乗れッ」
尾形の合図で、兵士から銃を奪っていた杉元も飛行船に飛び乗った。ナマエも押し上げられるように乗せられ、どんどん高度を上げて行くそれから飛び降りようと身をよじるが尾形に阻まれる。
下では兵士達が飛行船が飛び立とうとするのを全力で阻止しようと、大変な騒ぎとなっていた。
「ナマエさんッ」
その時鋭く名前を呼ばれて遠くを見ると、鯉登少尉が全速力で駆けてくるのが見える。兵士の軍刀を奪うと、群がる彼らの背中を蹴り上げて飛行船に飛び乗った。
「鯉登さんっ、良かった……」
飛行船はあっという間に降りられない高度に達していて、ナマエは気が遠くなりそうになりながらも木枠にしがみつく。
「ナマエさん、今助けますッ 動かないように!」
そう言うと、鯉登少尉は軍刀を構えて杉元らを睨みつけた。
杉元が応戦すべく尾形から銃剣を受け取る時に、鯉登少尉は尾形の存在に気がついたようで、薩摩弁で捲し立てた後、軍刀を振り上げて杉元に斬りかかった。
鯉登少尉が優勢に見えたが、死角から矢が放たれて彼の動きが止まる。その隙をついて、坊主の男が鯉登少尉に蹴りかかった。
身体がぐらりと揺れ、落ちる寸前に手を伸ばしてナマエの腕を掴む。
一瞬身体が浮くような感覚がしたかと思うと、あっという間に樹々が迫って来る。鯉登少尉は軍刀を手放すと両腕できつくナマエを包んだ。バキバキと枝が折れる音や、葉が擦れる音が響く。あちらこちらを擦りむく痛みと、落下の恐怖にナマエはきつく目を瞑った。
ナマエさん、ナマエさん、と呼ぶ声がぼんやりと聞こえて、彼女は薄っすら目を開けた。見ると、木の幹に身を預けるようにして座らされていて、彼がこのようにしてくれたのだと察する。
その様子に鯉登少尉は安堵の表情を浮かべると、すんもはん、おいのせいで…と薩摩弁で謝罪の言葉を並べた。
彼は自分が不甲斐なかった。その他大勢の男では一番でありたいと思っていたというのに、ナマエを危険な目に遭わせてしまった。
「いいえ、鯉登さん。自分で身を守れなかった私のせいですから、どうか頭を上げて下さい。それに、こうして助けて下さったではないですか」
おずおずとナマエの顔を見てみると、彼女は少し顔色が悪いものの、優しく微笑んでいる。その表情に、鯉登少尉の胸の奥は締め付けられた。
「男子として、おなごん一人も守れんなは情けなか……あたに怪我もさせてしもた」
そう言いながら、ナマエのそこかしこについた擦り傷や、枝に引っかかって破けた着物を見た。彼女はそれに気がつくと、大丈夫ですよ、と言うように傷をさすってみせる。
「鯉登さんこそ、お怪我は大丈夫ですか。あの高さで無事だったのは、鯉登さんが庇って下さったからです」
あら、血が少し出ていますよ、と言うと、彼女は懐からハンケチを取り出して、傷ができているらしいこめかみの辺りへ押し当てた。ナマエの指先の力が、布を通して伝わってくる。
もうだめだ、我慢できん。
鯉登少尉は彼女の腕を取ると、呆気にとられているその顔をじっと見つめた。このひとを抱きしめたい、その唇を奪いたい。
引きつけられるように、彼が顔をナマエに寄せた時だった。いたぞ、という声がして、鯉登少尉は弾かれたようにナマエから離れる。
「鯉登少尉殿!ご無事でありますか」
馬で捜索に来た兵士に視線を移し、若い将校は頷いてからすっと立ち上がった。
「……ああ、平気だ。私も奴らを追う、馬を寄越せ。一人は奥様を宿までお連れしろ」
ナマエさん、立てますか。と声をかけながら、彼女に手を貸して立たせると馬に乗った兵士の一人に任せる。
ナマエが街の方へ引き返していく後ろ姿を見届けてから、鯉登少尉は部下とともに白石の捜索へ向かった。今は兎に角、鶴見中尉殿のお役に立つことだけを考えなければ。想いを断ち切るというのは、難しく辛いことだった。そのせいで心が痛む程、ナマエの存在は大きなものになってしまっていた。
鯉登少尉は仕事に集中する為に前を真っ直ぐに見据え、馬を走らせる。