第15章
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鯉登少尉は鶴見中尉からの電報を読んで以来、落ち着かぬ日々を過ごしていた。
旭川にナマエを遊びに行かせるから何処かに連れて行ってやってくれ、という文面で、何度も読み返してはブツブツと独り言を繰り返す。
月島にもどうするべきか尋ねてみたが、街を歩いて飯でも食べれば良いのではないでしょうか、という味気ない返事であった。
もっとナマエが喜びそうな事をしたいと考えていると、郵便物の中の絵葉書に目が留まる。
隅に旭川新景 旭川翠香園 と印刷されていて、写真には池や築山が映っており、風光明媚であることが窺えた。
「確か曙の方にある私設の庭園だったな……花々が美しく咲くと聞く。よし、ここだ!月島ァ!」
そう言うと、彼は興奮気味に月島の元へ案を話しに行った。
♢
ナマエとの約束当日となって、鯉登少尉は軍服を身に纏うと軍帽を被り、最後に手鏡を覗き込んだ。
身支度も整ったところで彼女が宿泊しているという宿へ向かうと、待合室で不安げに佇むナマエの姿が見えた。
彼女のことはすぐに見つける事が出来た。他の誰よりも、輝いて見えたからだ。
「ナマエさん、お早うございます。お待たせしましたか」
「いいえ、今参りました所です。本日は宜しくお願い致します」
そう言ってナマエは丁寧に頭を下げた。鯉登少尉は はい、と返事をすると彼女を馬車へと促す。
二人は中へ乗り込むと距離を開けて座り、ナマエは窓から外を眺める。
「旭川は賑やかな街ですね」
「ええ、第七師団の司令部もありますし、鉄道が敷かれてからは随分栄えたと聞いています。…ナマエさん、今日の行き先は翠香園にしました。お気に召されると良いのですが」
ナマエは ああ、と言うように顔を明るくさせると、鯉登少尉の目を見た。
「絵葉書で見たことがあります。数年前にできたお庭でしたよね」
お花が綺麗と聞いているので嬉しいです、と彼女が答えたので、鯉登少尉は安堵の表情を浮かべた。
「それは良かった。本日は貸切にしたので、ゆっくり見て回りましょう」
貸切という言葉に驚いて少尉の顔を見返すが、彼は嬉しそうに微笑んだままだった。
お金の使い方に驚いていると、馬車が静かに止まって目的地に着いたことを知る。
馭者 が扉を開けて外に出ると、庭園の入り口が見えて、鯉登少尉が前に立って中へと誘った。
敷地内へ足を踏み入れると、手入れの行き届いた庭が閑かに広がっていて、二人は青々とした緑の中を歩いた。
少し歩くと牡丹と芍薬が辺り一面に鮮やかな花を咲かせていて、ナマエはその美しさに足を止める。
鯉登少尉は花を眺めるナマエへ、無意識に視線を注いだ。
どの花々よりも、貴女が綺麗だ。摘むことを許されぬ花。ただ眺めることしかできない、遠くにある貴女。
「あら、あちらには池があるようですね。行ってみても良いですか」
ナマエの声にハッと我に帰ると、鯉登少尉は頷いて先を歩いた。
池には睡蓮が見えて、緑色の丸い葉の間に、ぽつりぽつりと白や桃色の花が咲いている。
「綺麗ですね、鯉登さん」
ええ、と答えながら、彼はまたナマエの横顔を盗み見た。
花を愛でる柔らかな表情に、心根の優しさが現れているような気がして頬が緩む。
するとナマエがこちらを見て目が合ったので、慌てて池に視線を戻した。
「ナマエさん、橋が見えますね。その向こうに東屋がありますから、そこで昼食を食べましょう」
橋は小さく、石造りでやや幅が狭かったので、鯉登少尉は先に渡るとナマエに手を差し出した。
彼女は迷ったようだが、危ないですから、と言うとそっと左手を彼の手に乗せる。
初めて触れるナマエの体温に鼓動が早まった。掌で包んでしまえそうな女の手は柔らかかった。しかし薬指には銀色の指輪が嵌っていて、忽ち現実に引き戻される。嗚呼、握ったこの手に力を込めて、抱き寄せる事が出来たらどんなに良いか……
東屋は池を眺められるように作られていて、二人が長椅子に並んで座ると、美しい景色を見ることができた。
鯉登少尉は懐から懐中時計を取り出すと、そろそろだな、と呟く。ややあって、貸切の庭園に人影が現れた。
「鯉登様、お待たせ致しました。ご注文のお品です」
「うむ、こちらに置いてくれ」
現れたのは風呂敷に包まれた重箱を持った男で、鯉登少尉が示した場所へ包みを丁重に置くと、一礼して立ち去っていく。
「料亭に作らせたのです。頂きましょう」
ナマエはまたもや驚きつつも、開けられた重箱を膝に乗せて箸をつけた。
色とりどりの料理が詰められた弁当は美味しく、睡蓮の景観も相まってナマエはうっとりとした。
「鯉登さん、とても美味しいです。あの、今日は何から何まで有難う御座います。私には勿体無いような一日です」
「勿体無いなど……私にとっても、そんな一日ですよ。貴女と時間を過ごせたので」
私と?と聞き返されて、鯉登少尉は視線をさっと池に向けた。
思わず口が滑ってしまい、出汁がきいた上品な味の煮物を口に入れて誤魔化す。
二人はぽつぽつと他愛のない事を話しながら、静かな庭で時を過ごした。
♢
馬車に乗って庭園を後にすると、鯉登少尉が「折角ですから司令部の前を通って宿までお送りしましょう」と言ったので、師団通りを通っている。
賑やかな道を馬車に揺られていると、やがて第七師団司令部と書かれた大きな門が見えてきた。
「ナマエさん、見えてきましたよ。……おや」
一人の兵士が慌ただしく出てきて、馬車に乗っている鯉登少尉の顔を確認するやいなや、猛烈な勢いで走り寄ってきたので馬車を止めた。
「どうした」
鯉登少尉が尋ねると、兵士は敬礼してから早口に言う。
「鶴見中尉殿より入電で、網走監獄典獄の犬堂四郎助を名乗る人物が現れたので至急司令部へ向かうようにとの事であります」
わかった、と言って鯉登少尉は勢いよく外にでると、馭者 に馬車を門まで寄せるように言い、走り出しながらナマエの方を振り向いた。
「ナマエさんは馬車で待っていてくださいッ」
叫ぶように言うと、鯉登少尉は素早く門へと走っていった。
旭川にナマエを遊びに行かせるから何処かに連れて行ってやってくれ、という文面で、何度も読み返してはブツブツと独り言を繰り返す。
月島にもどうするべきか尋ねてみたが、街を歩いて飯でも食べれば良いのではないでしょうか、という味気ない返事であった。
もっとナマエが喜びそうな事をしたいと考えていると、郵便物の中の絵葉書に目が留まる。
隅に旭川新景 旭川
「確か曙の方にある私設の庭園だったな……花々が美しく咲くと聞く。よし、ここだ!月島ァ!」
そう言うと、彼は興奮気味に月島の元へ案を話しに行った。
♢
ナマエとの約束当日となって、鯉登少尉は軍服を身に纏うと軍帽を被り、最後に手鏡を覗き込んだ。
身支度も整ったところで彼女が宿泊しているという宿へ向かうと、待合室で不安げに佇むナマエの姿が見えた。
彼女のことはすぐに見つける事が出来た。他の誰よりも、輝いて見えたからだ。
「ナマエさん、お早うございます。お待たせしましたか」
「いいえ、今参りました所です。本日は宜しくお願い致します」
そう言ってナマエは丁寧に頭を下げた。鯉登少尉は はい、と返事をすると彼女を馬車へと促す。
二人は中へ乗り込むと距離を開けて座り、ナマエは窓から外を眺める。
「旭川は賑やかな街ですね」
「ええ、第七師団の司令部もありますし、鉄道が敷かれてからは随分栄えたと聞いています。…ナマエさん、今日の行き先は翠香園にしました。お気に召されると良いのですが」
ナマエは ああ、と言うように顔を明るくさせると、鯉登少尉の目を見た。
「絵葉書で見たことがあります。数年前にできたお庭でしたよね」
お花が綺麗と聞いているので嬉しいです、と彼女が答えたので、鯉登少尉は安堵の表情を浮かべた。
「それは良かった。本日は貸切にしたので、ゆっくり見て回りましょう」
貸切という言葉に驚いて少尉の顔を見返すが、彼は嬉しそうに微笑んだままだった。
お金の使い方に驚いていると、馬車が静かに止まって目的地に着いたことを知る。
敷地内へ足を踏み入れると、手入れの行き届いた庭が閑かに広がっていて、二人は青々とした緑の中を歩いた。
少し歩くと牡丹と芍薬が辺り一面に鮮やかな花を咲かせていて、ナマエはその美しさに足を止める。
鯉登少尉は花を眺めるナマエへ、無意識に視線を注いだ。
どの花々よりも、貴女が綺麗だ。摘むことを許されぬ花。ただ眺めることしかできない、遠くにある貴女。
「あら、あちらには池があるようですね。行ってみても良いですか」
ナマエの声にハッと我に帰ると、鯉登少尉は頷いて先を歩いた。
池には睡蓮が見えて、緑色の丸い葉の間に、ぽつりぽつりと白や桃色の花が咲いている。
「綺麗ですね、鯉登さん」
ええ、と答えながら、彼はまたナマエの横顔を盗み見た。
花を愛でる柔らかな表情に、心根の優しさが現れているような気がして頬が緩む。
するとナマエがこちらを見て目が合ったので、慌てて池に視線を戻した。
「ナマエさん、橋が見えますね。その向こうに東屋がありますから、そこで昼食を食べましょう」
橋は小さく、石造りでやや幅が狭かったので、鯉登少尉は先に渡るとナマエに手を差し出した。
彼女は迷ったようだが、危ないですから、と言うとそっと左手を彼の手に乗せる。
初めて触れるナマエの体温に鼓動が早まった。掌で包んでしまえそうな女の手は柔らかかった。しかし薬指には銀色の指輪が嵌っていて、忽ち現実に引き戻される。嗚呼、握ったこの手に力を込めて、抱き寄せる事が出来たらどんなに良いか……
東屋は池を眺められるように作られていて、二人が長椅子に並んで座ると、美しい景色を見ることができた。
鯉登少尉は懐から懐中時計を取り出すと、そろそろだな、と呟く。ややあって、貸切の庭園に人影が現れた。
「鯉登様、お待たせ致しました。ご注文のお品です」
「うむ、こちらに置いてくれ」
現れたのは風呂敷に包まれた重箱を持った男で、鯉登少尉が示した場所へ包みを丁重に置くと、一礼して立ち去っていく。
「料亭に作らせたのです。頂きましょう」
ナマエはまたもや驚きつつも、開けられた重箱を膝に乗せて箸をつけた。
色とりどりの料理が詰められた弁当は美味しく、睡蓮の景観も相まってナマエはうっとりとした。
「鯉登さん、とても美味しいです。あの、今日は何から何まで有難う御座います。私には勿体無いような一日です」
「勿体無いなど……私にとっても、そんな一日ですよ。貴女と時間を過ごせたので」
私と?と聞き返されて、鯉登少尉は視線をさっと池に向けた。
思わず口が滑ってしまい、出汁がきいた上品な味の煮物を口に入れて誤魔化す。
二人はぽつぽつと他愛のない事を話しながら、静かな庭で時を過ごした。
♢
馬車に乗って庭園を後にすると、鯉登少尉が「折角ですから司令部の前を通って宿までお送りしましょう」と言ったので、師団通りを通っている。
賑やかな道を馬車に揺られていると、やがて第七師団司令部と書かれた大きな門が見えてきた。
「ナマエさん、見えてきましたよ。……おや」
一人の兵士が慌ただしく出てきて、馬車に乗っている鯉登少尉の顔を確認するやいなや、猛烈な勢いで走り寄ってきたので馬車を止めた。
「どうした」
鯉登少尉が尋ねると、兵士は敬礼してから早口に言う。
「鶴見中尉殿より入電で、網走監獄典獄の犬堂四郎助を名乗る人物が現れたので至急司令部へ向かうようにとの事であります」
わかった、と言って鯉登少尉は勢いよく外にでると、
「ナマエさんは馬車で待っていてくださいッ」
叫ぶように言うと、鯉登少尉は素早く門へと走っていった。