第13章
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二階堂はそれから程なくして退院したので、軍病院へ行く必要は無くなった。
相変わらず耳に話しかけているようだったが、それが彼の心を慰めるのならば、それでいいと思う。
そんなある日の日中、玄関から ごめんください、と来客の声が聞こえて、ナマエは急ぎ足で廊下を歩いた。
ガラガラと引戸を開けてみると、そこには一人の女が立っている。
赤い着物に、首元には赤毛の狐の襟巻をしていて、頭には鉢巻を巻いている。
口元には刺青が施されていて、アイヌだ、とナマエは思った。
「何か御用でしょうか」
「はい。こちらは鶴見中尉のお宅ですね?アナタは奥様ですね。折り入ってお話ししたい事があって伺いました」
女はニッコリと笑顔を見せたが、隙のない雰囲気を感じる。切れ長の目が涼しげで、知的だった。
「そうでしたか。主人とお約束が?」
そんな事は言われていないと考えながらナマエが問いかけると、彼女は首を横に振って いいえ、と答える。
「ですがきっと、鶴見中尉もご興味のあるお話だと思います。……数年前の、ある殺害現場の話です」
「殺害現場…」
ナマエが呟くように彼女の言葉を復唱した時、二人分の軍靴が土を踏む音がする。
視線を女の後ろにやってみると、鶴見中尉と月島軍曹の姿が見えた。
「おや、お客様かな。月島は戻っていいぞ」
はい、と返事をして月島の足音が遠ざかっていく。
鶴見中尉は一歩進むと、女を観察するように眺めていたが、やがて口を開いた。
「ナマエ。立ち話もなんだから、この方をお迎えしなさい」
はい、と返事をすると、ナマエは女を促した。
♢
女はインカラマッといった。
ウイルクという男の死について調べているそうで、その中で金塊に関わるアイヌの殺害現場の遺留品を持つ、鶴見中尉に辿り着いたようだ。
鶴見中尉とインカラマッは、座敷で座卓を挟み、向かい合って座っている。
ナマエは二人にお茶を出して退出しようとしたが、鶴見中尉が ここに居なさい、と言ったので傍で事の成り行きを見守った。
「ウイルクは既に殺されている。監獄にいるのっぺら坊は、金塊のありかを知るキロランケの仲間だ」
インカラマッは探るような目で鶴見中尉を見ているが、やがて口を開いた。
「……そうですか。ならばせめて、彼の忘れ形見のアシリパちゃんだけでも、無事に小樽へ帰したいものですし…彼の死について、真相が知りたいですね」
鶴見中尉は うんうん、そうかい…と頷いてみせる。
「コタンにいる谷垣という男を利用しなさい。そろそろ足の具合も良くなってる筈だ」
鶴見中尉は湯飲みに口をつけてから、さらに続けた。
「私は遺留品から指紋を採取している。犯人を見つけるのに必ず役立つだろう…そして、アシリパだがね。金塊を追っている連中とつるんでいる以上、危険なこともあるだろう。そうなった時、我々は力になってやる事も出来るのだが」
「……何がお望みですか」
インカラマッの問いかけに、鶴見中尉は口元に笑みを浮かべると、口を開いた。
「谷垣と合流したら、居場所を私に知らせなさい。常に」
インカラマッは少し黙ったあと、分かりました、お約束します。と落ち着いた声で答える。
「交渉成立だな」
鶴見中尉はそう言うと、ナマエに視線を向けて 玄関までお送りしなさい、と声をかけた。
二人の女は立ち上がると、廊下に出て階段を降りる。
「ナマエさん、今日はお邪魔しました。……アナタは随分、優しいひとなんですね。私は占いをやるので、分かるのです」
インカラマッは靴を履くと、振り向いてそう言った。
切れ長の、謎めいた目。
「そうでしょうか」
ナマエは曖昧に微笑むと、彼女は ええ、そう思います、と相槌を打った。
「あの鶴見中尉の側にいられるひとは、そうそう居ないと思いますよ。では」
インカラマッはそれだけ言い残すと、不思議な余韻を残して小樽の街へ消えていった。
♢
インカラマッが帰ったところで、ナマエはお茶を淹れなおすと、余っていた穴門蜜柑を剥いて出した。
鶴見中尉は一切れ口に入れると、うん、と頷く。
「菓子もいいが、果物も美味しいね。二階堂も大層喜んでいたよ」
ナマエも一口食べてみると、甘く爽やかな果汁が口いっぱいに広がって美味だった。
目の前の彼を見ながら、先ほどの鶴見中尉の様子を思い返す。
彼は普段の通りだったけれど、インカラマッがウイルクの名前を口に出した瞬間だけ、ほんの僅かに空気が変わったような気がしたのだ。
鶴見中尉の横顔は何も語らなかったが、何かあるように感じた。
しかし今の彼からはそんな雰囲気は微塵も感じられず、あれは気のせいだったのかも知れないとナマエは思い直す。
「何か考えている?」
鶴見中尉は柔らかく微笑んで問いかけた。
夜の海のように黒い瞳に、ナマエの姿が映っている。
その目を見ると、ナマエは暗示にかかったように心が満たされてしまうのだった。
「いいえ、旦那さま」
鶴見中尉は ふふ、と笑うと、皿に載った果肉を一切れ手に取ってナマエの口元へ持ってきた。
「ほら、口を開けて」
言われるがままにすると、鶴見中尉の指によって、瑞々しい果肉が口に入ってくる。
美味しいです、と言ってナマエが微笑むと、鶴見中尉は満足そうな表情を浮かべる。
「ナマエは笑顔が一番似合うよ。……君にはいつまでも、そのままで居てもらいたいものだな」
そう言った彼の声には、少しひっそりした気配が含まれているように思われて、ナマエは座卓に置かれた彼の手へ、咄嗟に自らの手を重ねた。
「篤四郎さまがそう望むのならば、いつまでもそうします」
ナマエはなんだか祈るような気持ちで言う。
鶴見中尉は重ねられた彼女の手を取ると、私の可愛いナマエ、と言って甲に唇を落とした。
相変わらず耳に話しかけているようだったが、それが彼の心を慰めるのならば、それでいいと思う。
そんなある日の日中、玄関から ごめんください、と来客の声が聞こえて、ナマエは急ぎ足で廊下を歩いた。
ガラガラと引戸を開けてみると、そこには一人の女が立っている。
赤い着物に、首元には赤毛の狐の襟巻をしていて、頭には鉢巻を巻いている。
口元には刺青が施されていて、アイヌだ、とナマエは思った。
「何か御用でしょうか」
「はい。こちらは鶴見中尉のお宅ですね?アナタは奥様ですね。折り入ってお話ししたい事があって伺いました」
女はニッコリと笑顔を見せたが、隙のない雰囲気を感じる。切れ長の目が涼しげで、知的だった。
「そうでしたか。主人とお約束が?」
そんな事は言われていないと考えながらナマエが問いかけると、彼女は首を横に振って いいえ、と答える。
「ですがきっと、鶴見中尉もご興味のあるお話だと思います。……数年前の、ある殺害現場の話です」
「殺害現場…」
ナマエが呟くように彼女の言葉を復唱した時、二人分の軍靴が土を踏む音がする。
視線を女の後ろにやってみると、鶴見中尉と月島軍曹の姿が見えた。
「おや、お客様かな。月島は戻っていいぞ」
はい、と返事をして月島の足音が遠ざかっていく。
鶴見中尉は一歩進むと、女を観察するように眺めていたが、やがて口を開いた。
「ナマエ。立ち話もなんだから、この方をお迎えしなさい」
はい、と返事をすると、ナマエは女を促した。
♢
女はインカラマッといった。
ウイルクという男の死について調べているそうで、その中で金塊に関わるアイヌの殺害現場の遺留品を持つ、鶴見中尉に辿り着いたようだ。
鶴見中尉とインカラマッは、座敷で座卓を挟み、向かい合って座っている。
ナマエは二人にお茶を出して退出しようとしたが、鶴見中尉が ここに居なさい、と言ったので傍で事の成り行きを見守った。
「ウイルクは既に殺されている。監獄にいるのっぺら坊は、金塊のありかを知るキロランケの仲間だ」
インカラマッは探るような目で鶴見中尉を見ているが、やがて口を開いた。
「……そうですか。ならばせめて、彼の忘れ形見のアシリパちゃんだけでも、無事に小樽へ帰したいものですし…彼の死について、真相が知りたいですね」
鶴見中尉は うんうん、そうかい…と頷いてみせる。
「コタンにいる谷垣という男を利用しなさい。そろそろ足の具合も良くなってる筈だ」
鶴見中尉は湯飲みに口をつけてから、さらに続けた。
「私は遺留品から指紋を採取している。犯人を見つけるのに必ず役立つだろう…そして、アシリパだがね。金塊を追っている連中とつるんでいる以上、危険なこともあるだろう。そうなった時、我々は力になってやる事も出来るのだが」
「……何がお望みですか」
インカラマッの問いかけに、鶴見中尉は口元に笑みを浮かべると、口を開いた。
「谷垣と合流したら、居場所を私に知らせなさい。常に」
インカラマッは少し黙ったあと、分かりました、お約束します。と落ち着いた声で答える。
「交渉成立だな」
鶴見中尉はそう言うと、ナマエに視線を向けて 玄関までお送りしなさい、と声をかけた。
二人の女は立ち上がると、廊下に出て階段を降りる。
「ナマエさん、今日はお邪魔しました。……アナタは随分、優しいひとなんですね。私は占いをやるので、分かるのです」
インカラマッは靴を履くと、振り向いてそう言った。
切れ長の、謎めいた目。
「そうでしょうか」
ナマエは曖昧に微笑むと、彼女は ええ、そう思います、と相槌を打った。
「あの鶴見中尉の側にいられるひとは、そうそう居ないと思いますよ。では」
インカラマッはそれだけ言い残すと、不思議な余韻を残して小樽の街へ消えていった。
♢
インカラマッが帰ったところで、ナマエはお茶を淹れなおすと、余っていた穴門蜜柑を剥いて出した。
鶴見中尉は一切れ口に入れると、うん、と頷く。
「菓子もいいが、果物も美味しいね。二階堂も大層喜んでいたよ」
ナマエも一口食べてみると、甘く爽やかな果汁が口いっぱいに広がって美味だった。
目の前の彼を見ながら、先ほどの鶴見中尉の様子を思い返す。
彼は普段の通りだったけれど、インカラマッがウイルクの名前を口に出した瞬間だけ、ほんの僅かに空気が変わったような気がしたのだ。
鶴見中尉の横顔は何も語らなかったが、何かあるように感じた。
しかし今の彼からはそんな雰囲気は微塵も感じられず、あれは気のせいだったのかも知れないとナマエは思い直す。
「何か考えている?」
鶴見中尉は柔らかく微笑んで問いかけた。
夜の海のように黒い瞳に、ナマエの姿が映っている。
その目を見ると、ナマエは暗示にかかったように心が満たされてしまうのだった。
「いいえ、旦那さま」
鶴見中尉は ふふ、と笑うと、皿に載った果肉を一切れ手に取ってナマエの口元へ持ってきた。
「ほら、口を開けて」
言われるがままにすると、鶴見中尉の指によって、瑞々しい果肉が口に入ってくる。
美味しいです、と言ってナマエが微笑むと、鶴見中尉は満足そうな表情を浮かべる。
「ナマエは笑顔が一番似合うよ。……君にはいつまでも、そのままで居てもらいたいものだな」
そう言った彼の声には、少しひっそりした気配が含まれているように思われて、ナマエは座卓に置かれた彼の手へ、咄嗟に自らの手を重ねた。
「篤四郎さまがそう望むのならば、いつまでもそうします」
ナマエはなんだか祈るような気持ちで言う。
鶴見中尉は重ねられた彼女の手を取ると、私の可愛いナマエ、と言って甲に唇を落とした。