第12章
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北海道に春を告げる、鰊の群来 。
海では鰊漁に出ている船から、雄々しいソーラン節の歌声が響いている。
鶴見家の食卓にも鰊料理が並ぶようになり、春の味に舌鼓を打った。
そんな中、積丹の海岸やあちこちの漁場で相次いで変死体が見つかる。
この時期に海岸へ集まる季節労働者のヤン衆は、脛に傷のある人間が隠れるのにはもってこいだ。例えば、網走の脱獄囚のような。
鶴見中尉はその殺人犯が囚人である可能性が高いとみて、近頃は海岸へ行っているようだった。
ナマエは今日も軍病院へ行った。
まだ雪が残る通い慣れた道を歩き、病室に入ると依然として意識のない尾形の顔を見る。
顔の腫れはすっかり引いて、怪我をする前からの変化といえば顎の縫合跡くらいになった。
鶴見中尉は彼から聞きたいことがあるようだし、ナマエも見知った人が意識不明なのは気がかりだった。
尾形について思い出すのは、彼女が入院していたあの夜のことだ。
あの時、尾形はナマエに助言めいたことを言って立ち去っていった。
たらし込まれたクチか。逃げるなら今のうち。
彼のその言葉は、なんだか耳に残った。
尾形は鶴見中尉の部下であるはずだが、どうしてあのような事を言ったのだろう。
月島軍曹や鯉登少尉を始めとした他の兵士達と比較すると、異質な発言に思える。
そんなことを考えている時に、尾形の指先がぴくりと動いたかと思うと、腕がすっと持ち上がって、膝の上で重ねられているナマエの手に触れた。
驚いて尾形の顔を見ると、薄っすらと目を開いて彼女の方を見ている。
ナマエが医者を呼ぼうと急いで立ち上がろうとした時、彼は手に力を込める。
そして空いた手の人差し指を口元へ持ってくると、しー、というような仕草をした。
「でも尾形さん、お医者様に見て頂いた方が……」
ナマエは尾形の手を振り払って立ち上がろうとするが、体力が落ちているとは思えないような力で彼女を引き止める。
「まあ待てよ、奥様」
ナマエは迷ったが、しぶしぶ椅子に腰を下ろした。
「なんですか」
「あんた俺の話を聞いてなかったようだな…死神と結婚するとは驚いたぜ」
死神。それが鶴見中尉のことを指しているのだと気付くのに、少し時間がかかった。
「…死神だなんて」
ナマエが抗議の声を上げると、尾形は口元に薄い笑みを浮かべた。
随分めでたい女だな、と呟くように言う。
盲目的に男へ尽くす彼女の姿には既視感があった。
遠い昔の、やつれた母の姿がちらついて、心に暗いものが広がるのを感じる。
「……俺が連れ出してやろうか」
ナマエは え?聞き返すが、尾形は黒い瞳でじっと彼女を見返すばかりだった。
あの夜のことは全て仕組まれたことで、お前はこれから時間をかけて、骨の髄までしゃぶり尽くされるんだぜ。
そんな言葉が喉の奥から出そうになったが、ナマエの目を見て尾形は口を噤んだ。
彼女の目は、山の中のように静かだった。
全てを飲み込むような静けさ。静かすぎて、物音を立てるのをためらうような。
尾形は唐突に、この女は鶴見中尉の闇深さに、気が付いているのかもしれないと思った。
「……どうして私に、助言して下さるのですか」
ナマエが彼を見つめ返して問うと、尾形は少し沈黙したあとに口を開く。
「お前みたいな女が嫌いだからだよ」
尾形は真意の読めない笑みを口元に浮かべると、少し眠る、と言って目を閉じる。
そのまま本当にナマエが居ないかのように眠ってしまったので、彼女はそっと席を外すと家路についた。
尾形という男は謎めいていて、腹の底が読めない人だとは思っていたが、今日は一層その印象が強まった。
玄関の引戸を開けながら、夜に帰ってくるであろう鶴見中尉に、尾形が意識を取り戻したことを伝えようと考える。
海では鰊漁に出ている船から、雄々しいソーラン節の歌声が響いている。
鶴見家の食卓にも鰊料理が並ぶようになり、春の味に舌鼓を打った。
そんな中、積丹の海岸やあちこちの漁場で相次いで変死体が見つかる。
この時期に海岸へ集まる季節労働者のヤン衆は、脛に傷のある人間が隠れるのにはもってこいだ。例えば、網走の脱獄囚のような。
鶴見中尉はその殺人犯が囚人である可能性が高いとみて、近頃は海岸へ行っているようだった。
ナマエは今日も軍病院へ行った。
まだ雪が残る通い慣れた道を歩き、病室に入ると依然として意識のない尾形の顔を見る。
顔の腫れはすっかり引いて、怪我をする前からの変化といえば顎の縫合跡くらいになった。
鶴見中尉は彼から聞きたいことがあるようだし、ナマエも見知った人が意識不明なのは気がかりだった。
尾形について思い出すのは、彼女が入院していたあの夜のことだ。
あの時、尾形はナマエに助言めいたことを言って立ち去っていった。
たらし込まれたクチか。逃げるなら今のうち。
彼のその言葉は、なんだか耳に残った。
尾形は鶴見中尉の部下であるはずだが、どうしてあのような事を言ったのだろう。
月島軍曹や鯉登少尉を始めとした他の兵士達と比較すると、異質な発言に思える。
そんなことを考えている時に、尾形の指先がぴくりと動いたかと思うと、腕がすっと持ち上がって、膝の上で重ねられているナマエの手に触れた。
驚いて尾形の顔を見ると、薄っすらと目を開いて彼女の方を見ている。
ナマエが医者を呼ぼうと急いで立ち上がろうとした時、彼は手に力を込める。
そして空いた手の人差し指を口元へ持ってくると、しー、というような仕草をした。
「でも尾形さん、お医者様に見て頂いた方が……」
ナマエは尾形の手を振り払って立ち上がろうとするが、体力が落ちているとは思えないような力で彼女を引き止める。
「まあ待てよ、奥様」
ナマエは迷ったが、しぶしぶ椅子に腰を下ろした。
「なんですか」
「あんた俺の話を聞いてなかったようだな…死神と結婚するとは驚いたぜ」
死神。それが鶴見中尉のことを指しているのだと気付くのに、少し時間がかかった。
「…死神だなんて」
ナマエが抗議の声を上げると、尾形は口元に薄い笑みを浮かべた。
随分めでたい女だな、と呟くように言う。
盲目的に男へ尽くす彼女の姿には既視感があった。
遠い昔の、やつれた母の姿がちらついて、心に暗いものが広がるのを感じる。
「……俺が連れ出してやろうか」
ナマエは え?聞き返すが、尾形は黒い瞳でじっと彼女を見返すばかりだった。
あの夜のことは全て仕組まれたことで、お前はこれから時間をかけて、骨の髄までしゃぶり尽くされるんだぜ。
そんな言葉が喉の奥から出そうになったが、ナマエの目を見て尾形は口を噤んだ。
彼女の目は、山の中のように静かだった。
全てを飲み込むような静けさ。静かすぎて、物音を立てるのをためらうような。
尾形は唐突に、この女は鶴見中尉の闇深さに、気が付いているのかもしれないと思った。
「……どうして私に、助言して下さるのですか」
ナマエが彼を見つめ返して問うと、尾形は少し沈黙したあとに口を開く。
「お前みたいな女が嫌いだからだよ」
尾形は真意の読めない笑みを口元に浮かべると、少し眠る、と言って目を閉じる。
そのまま本当にナマエが居ないかのように眠ってしまったので、彼女はそっと席を外すと家路についた。
尾形という男は謎めいていて、腹の底が読めない人だとは思っていたが、今日は一層その印象が強まった。
玄関の引戸を開けながら、夜に帰ってくるであろう鶴見中尉に、尾形が意識を取り戻したことを伝えようと考える。