第10章
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年が明けて、明治四十年になった。
年末はいつにも増して忙しかったが、鶴見中尉の妻として迎える正月は、一つ一つが新鮮だった。
女中と共に隅々まで大掃除をしたり、御節料理を作ったり、仕事は山ほどある。
ナマエは女中の仕事をしていた事もあって、気がつくと手が動いてしまう。
冷たい水で雑巾を洗い、手を赤くしながらせっせと拭き掃除をしていると、鶴見中尉が現れて彼女の手を取った。
「ナマエ、こんなに手を赤くして……ダメだろう、今すぐ手を洗って火鉢に当たってきなさい」
「でも旦那さま、私は平気です」
「いや、ダメだよ。あかぎれにでもなったらどうするんだ」
そう言うと彼は女中を呼んで拭き掃除を任せた。
窓硝子からは冬の弱い日光が入ってきていて、雪がきらりと反射しているのが見える。
手を洗って火鉢に当たると、冷えた掌に熱が気持ちいい。
「働き者なのはナマエの良いところだが、程々にするんだよ。きみの美しい手が傷つくのは私が困る」
「旦那さまがお困りになるのですか?」
ナマエは少し不思議に思って聞き返すと、彼はゆったりとした笑みを口元に浮かべた。
「ああ。仕事中も、君の手が無事か気になるだろう」
そう言うと、鶴見中尉はナマエの手をとって甲に唇をつける。
ナマエは目を閉じて、手の甲に受ける熱い感触を味わった。
明治三十九年、年の瀬の或る日。
新年の朝には、鶴見中尉は普段お酒を飲まないがお屠蘇は少しいるというので用意して、二人で盃を舐めた。
縁起物だから、と言って彼はほんの少し口にしたけれど、珍しく不味そうな表情を浮かべるのでナマエは思わず笑みを浮かべてしまう。
それを見た鶴見中尉は、「亭主を笑うのはやめなさい」と悪戯っぽく言うのだった。
♢
もう今年が始まって二ヶ月が経つが、女中や軍の関係者に「奥様」と呼ばれるのは未だに慣れない。
鶴見中尉はそれをからかって、奥様、とナマエを呼ぶこともあって参ってしまう。
今朝だって、「この家の奥様はどちらかな」と言いながら、台所にいたナマエの所までやってきたかと思うと、今日は豆大福が食べたいから日中買ってくるようにと言いに来るのだった。
そういうわけで、鶴見中尉をお見送りしたあとに街へ出かけて、目当てのものを買って帰ろうとした時だ。
一寸そこの人、いいかいと言われて振り向くと、変わった組み合わせの二人組が立っている。
一人は若い男で、軍帽を被り黄色い地に赤い格子柄の襟巻をしている。顔の傷が特徴的で、恐らく帰還兵だろう。
もう一人はアイヌの女の子で、理知的な表情に美しい瞳が印象的だ。
ナマエは不思議に思いながらも、何ですかと言って立ち止まった。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど。お姉さん、変な刺青の噂って聞いたことない?」
「変な刺青、ですか」
瞬時に鶴見中尉が着ている皮のことを思い出したが、まさかその事を言っているのではあるまいと考える。
「こういうやつだ」
今度はアイヌの少女が、鉛筆で描いた絵を差し出した。
曲線と直線が交差して、丸で囲まれた金の文字。
ナマエは一瞬目を疑ったが、間違いない。
彼等は鶴見中尉が集めている皮の事を言っているのだった。
「……さあ、存じません。お役に立てずにごめんなさい」
「いや、いいんだ。引き止めて悪かったね」
そういうと、二人組は立ち去っていく。
ナマエは今更胸に動悸を感じて、足早に家へ帰って行った。
年末はいつにも増して忙しかったが、鶴見中尉の妻として迎える正月は、一つ一つが新鮮だった。
女中と共に隅々まで大掃除をしたり、御節料理を作ったり、仕事は山ほどある。
ナマエは女中の仕事をしていた事もあって、気がつくと手が動いてしまう。
冷たい水で雑巾を洗い、手を赤くしながらせっせと拭き掃除をしていると、鶴見中尉が現れて彼女の手を取った。
「ナマエ、こんなに手を赤くして……ダメだろう、今すぐ手を洗って火鉢に当たってきなさい」
「でも旦那さま、私は平気です」
「いや、ダメだよ。あかぎれにでもなったらどうするんだ」
そう言うと彼は女中を呼んで拭き掃除を任せた。
窓硝子からは冬の弱い日光が入ってきていて、雪がきらりと反射しているのが見える。
手を洗って火鉢に当たると、冷えた掌に熱が気持ちいい。
「働き者なのはナマエの良いところだが、程々にするんだよ。きみの美しい手が傷つくのは私が困る」
「旦那さまがお困りになるのですか?」
ナマエは少し不思議に思って聞き返すと、彼はゆったりとした笑みを口元に浮かべた。
「ああ。仕事中も、君の手が無事か気になるだろう」
そう言うと、鶴見中尉はナマエの手をとって甲に唇をつける。
ナマエは目を閉じて、手の甲に受ける熱い感触を味わった。
明治三十九年、年の瀬の或る日。
新年の朝には、鶴見中尉は普段お酒を飲まないがお屠蘇は少しいるというので用意して、二人で盃を舐めた。
縁起物だから、と言って彼はほんの少し口にしたけれど、珍しく不味そうな表情を浮かべるのでナマエは思わず笑みを浮かべてしまう。
それを見た鶴見中尉は、「亭主を笑うのはやめなさい」と悪戯っぽく言うのだった。
♢
もう今年が始まって二ヶ月が経つが、女中や軍の関係者に「奥様」と呼ばれるのは未だに慣れない。
鶴見中尉はそれをからかって、奥様、とナマエを呼ぶこともあって参ってしまう。
今朝だって、「この家の奥様はどちらかな」と言いながら、台所にいたナマエの所までやってきたかと思うと、今日は豆大福が食べたいから日中買ってくるようにと言いに来るのだった。
そういうわけで、鶴見中尉をお見送りしたあとに街へ出かけて、目当てのものを買って帰ろうとした時だ。
一寸そこの人、いいかいと言われて振り向くと、変わった組み合わせの二人組が立っている。
一人は若い男で、軍帽を被り黄色い地に赤い格子柄の襟巻をしている。顔の傷が特徴的で、恐らく帰還兵だろう。
もう一人はアイヌの女の子で、理知的な表情に美しい瞳が印象的だ。
ナマエは不思議に思いながらも、何ですかと言って立ち止まった。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど。お姉さん、変な刺青の噂って聞いたことない?」
「変な刺青、ですか」
瞬時に鶴見中尉が着ている皮のことを思い出したが、まさかその事を言っているのではあるまいと考える。
「こういうやつだ」
今度はアイヌの少女が、鉛筆で描いた絵を差し出した。
曲線と直線が交差して、丸で囲まれた金の文字。
ナマエは一瞬目を疑ったが、間違いない。
彼等は鶴見中尉が集めている皮の事を言っているのだった。
「……さあ、存じません。お役に立てずにごめんなさい」
「いや、いいんだ。引き止めて悪かったね」
そういうと、二人組は立ち去っていく。
ナマエは今更胸に動悸を感じて、足早に家へ帰って行った。