第9章
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まだ夜が明けきらぬ頃、玄関の引き戸を開ける音でナマエはうっすらと目を開ける。
ややあって、障子が開いた気配がして、畳を踏む足音が近づく。
掛け布団が持ち上げられて出来た隙間から、すうっとした冷気と共に男の掌が入ってきて肩のあたりに触れた。
「ナマエ。今帰ったよ」
ぼんやりとした意識から覚醒したナマエは、慌てて身を起こそうとしたが鶴見中尉の掌がそれを抑えた。
「このままでいい」
そう言うと、彼はナマエの横に身を滑り込ませて背中の方から彼女を腕に包む。
背後に鶴見中尉の体温を感じて、ナマエは緊張した。
「もうじき夜が明けますね。そろそろ私は起きませんと」
「今日は起きなくていい。私と少し朝寝坊だ」
耳元で囁くように言ってから、ナマエを包む腕に少しだけ力を込める。
彼女は大人しく彼の腕に包まれながらじっとしていると、じきに鶴見中尉の腕から力が抜けていって、彼が眠ったことを知る。
部屋の中は障子越しに朝の光が少しずつ入ってきていたが、ナマエもそのまま目を閉じた。
♢
すっかり朝になってから、ナマエと鶴見中尉は目を覚ました。
朝はますます冷えるようになり、身を起こして掛け布団から身体がでると、思わず身震いしてしまう。
そんなナマエの指先を、鶴見中尉の掌が包んだ。
「最近は寒くなってきたね。ナマエの指にも霜が降りないか心配だ」
そう言いながら手を口元に持っていって、ナマエの手の甲に唇を付けた。
「もしそうなったら、篤四郎さまはどうなさいますか」
照れで視線を外しながらも問いかけたナマエに、彼はふふっと笑いかけた。
「その時はもちろん、私が温めてあげよう。尤も、君の指先が凍るような事にはさせないがね」
そう言うと、ナマエの手に再び唇を落とす。
恥ずかしいのかじっと体を強張らせている彼女を見て、鶴見中尉は口元に笑みを浮かべると「はやく私に慣れなさい」と囁いた。
しばらく彼はナマエの手を握っていたが、やがて口を開く。
「…それから、今日はナマエにやってほしい事がある」
「はい、何なりと」
「兵器工場建設の投資を持ちかけようと思っている男がいてね。鰊大尽の成金だが……以前一度訪ねたところ、娘がいるらしい。しかし少々内気で、親として気になっていると。
そこでナマエは私と同行し、その娘の話相手をやってくれないか。鰊大尽を信頼させるためにね」
「私がですか?私にそんな事が出来るでしょうか……」
不安そうにするナマエの顔を、鶴見中尉は覗き込むようにすると柔らかく微笑んで言葉を続けた。
「出来るさ。ナマエは美しく賢いから……やってくれるね?」
「そんな事は……でも、お役に立てるように致します」
「ありがとう、ナマエ。支度をしたら一緒に出かけよう」
そう言うと、鶴見中尉は指先をナマエの頬に伸ばして優しく撫でた。
♢
鰊御殿は海岸沿いに建っている。
ナマエは鶴見中尉が乗る馬に乗せてもらうと、月島も伴って出発した。
良く晴れた日で、風も弱いので馬での移動も苦では無い。
このように馬に乗ったのは、料亭でのあの夜以来だと懐かしく思い出す。
やがて海が迫ってきて潮風を頬に感じると、小高い丘の上に目的の建物が見えてきた。
噂に聞く通り、贅を尽くした立派な建物でナマエは思わず目を見張った。
こんな豪奢な造りの家は、なかなかお目にかかる事はできない。
「さあ、着いたよ。降りようか」
鶴見中尉は先に降りると、ナマエに手を貸した。
女中が出迎えに来て応接間に通される。
調度品は舶来品も含まれていて、どれを取っても高価そうなものばかりだが、一際目を引いたのは洋琴で、物珍しい。
少しの間のあと、鰊御殿の親方とその奥方、例の娘が現れた。
3人とも良い身なりをしていて、鰊漁の盛況ぶりを感じさせる。
「今日もお時間を頂きまして有難う御座います。いや、いつ見ても見事な御殿ですな」
鶴見中尉が挨拶と共に褒めると、親方は満足そうに笑った。
「いやいや、泡銭で建てた御殿ですよ。それで、今日は娘のために奥様もご一緒に来て下さったと。ほら、ご挨拶しなさい」
今、奥様という言葉が聞こえた気がしたがナマエは努めて平静を装った。
親方に促されて、隠れるように立っていた少女がぺこりとお辞儀をする。十五歳くらいだろうか。
ナマエもお辞儀を返したところで、鶴見中尉が口を開いた。
「ええ、お嬢様のお話相手になればと妻も連れて参りました。楽しい時間が過ごせれば幸いです」
ナマエは目に驚きの色を浮かべて鶴見中尉を見たが、彼は一瞬パチリと片目を閉じて見せて、いたずらっぽく微笑んだ。
どうやらここは妻という体で話を進めるらしいと理解して、ナマエは小さく頷く。
「それは有り難い。奥様を自室にご案内しなさい。あとで菓子なども持って来させよう」
親方にそう言われて、娘は俯きがちのままナマエを部屋へと案内する。
鶴見中尉が 行っておいで、と言うようにナマエに目配せをしたので、その娘のあとについて行った。
階段を登って、長い廊下を歩いてようやく彼女の自室へ辿り着き、襖を開けて中に入る。
襖の引手は七宝焼で出来ていて、その贅沢ぶりにナマエは驚くばかりだった。
座布団を勧められたので座ると、娘も座卓を挟んで向かいに腰掛ける。
「こんなに隅々まで美しいお宅は初めて拝見しました。素敵ですね」
ナマエが率直な感想を述べると、娘は先程までのしおらしさは何処へやら、ふぅと溜息をつく。
「どんなに飾っても、所詮成金よ。お嬢様にはなれないわ」
少々面食らうも、ナマエはおずおずと口を開く。
「お嬢様にはなれない……ですか」
「そうよ。お父様は元々モッコ背負いだったし……ナマエさん、でしたね。中尉さんの奥様になれるような方は、きっとお生まれもいいのでしょうけど。女学校にいる、本物のお嬢様に私はなれないわ」
幼さの残る口元で、ふうとため息をつく。
ナマエは彼女が外で大人しい理由が分かったような気がした。
小樽には名家も多く、莫大な財をなしても学友とは相容れないものがあるのかもしれない。
尤も、ナマエは生まれが良いとは言えないので想像でしかなかったが。
「……軍人さんに嫁ぐ方は、軍に所縁のあるお家柄が多いと聞きますから、お嬢様がそう思われるのもごもっともで御座いますが、私に至っては違うのです」
「違う?」
少女はちらりとナマエを見やった。若い無垢な瞳だった。
「私はたまたま、鶴見さんに拾って頂いたので……運が良かっただけなのです」
「あらそうなの……でもそれで、あの軍人さんのことをお慕いに?」
ナマエは曖昧に言葉を濁したが、少女には大変興味深い話題であったようで、身を乗り出すようにしてあれやこれやと聞いてくる。
途中で女中がお茶と菓子を持ってきたが、食べるのもそっちのけで、彼女の無邪気なお喋りは続いた。
「素敵ね。私の旦那様になる方はどんなひとなのかしら」
「こんなに立派な家のお嬢様ですから、きっと素敵なご縁をご両親様が結んで下さいますよ」
その時、失礼するよ、と声がして襖が開いた。
「お話し中失礼。ナマエ、そろそろお暇しよう。妻とは楽しく過ごせましたかな」
ええ、とっても。と娘は答えると、ナマエを見て また来て下さいませ、と微笑みかける。
ナマエは控えめに微笑むと、鶴見中尉と月島と共に屋敷を後にした。
ややあって、障子が開いた気配がして、畳を踏む足音が近づく。
掛け布団が持ち上げられて出来た隙間から、すうっとした冷気と共に男の掌が入ってきて肩のあたりに触れた。
「ナマエ。今帰ったよ」
ぼんやりとした意識から覚醒したナマエは、慌てて身を起こそうとしたが鶴見中尉の掌がそれを抑えた。
「このままでいい」
そう言うと、彼はナマエの横に身を滑り込ませて背中の方から彼女を腕に包む。
背後に鶴見中尉の体温を感じて、ナマエは緊張した。
「もうじき夜が明けますね。そろそろ私は起きませんと」
「今日は起きなくていい。私と少し朝寝坊だ」
耳元で囁くように言ってから、ナマエを包む腕に少しだけ力を込める。
彼女は大人しく彼の腕に包まれながらじっとしていると、じきに鶴見中尉の腕から力が抜けていって、彼が眠ったことを知る。
部屋の中は障子越しに朝の光が少しずつ入ってきていたが、ナマエもそのまま目を閉じた。
♢
すっかり朝になってから、ナマエと鶴見中尉は目を覚ました。
朝はますます冷えるようになり、身を起こして掛け布団から身体がでると、思わず身震いしてしまう。
そんなナマエの指先を、鶴見中尉の掌が包んだ。
「最近は寒くなってきたね。ナマエの指にも霜が降りないか心配だ」
そう言いながら手を口元に持っていって、ナマエの手の甲に唇を付けた。
「もしそうなったら、篤四郎さまはどうなさいますか」
照れで視線を外しながらも問いかけたナマエに、彼はふふっと笑いかけた。
「その時はもちろん、私が温めてあげよう。尤も、君の指先が凍るような事にはさせないがね」
そう言うと、ナマエの手に再び唇を落とす。
恥ずかしいのかじっと体を強張らせている彼女を見て、鶴見中尉は口元に笑みを浮かべると「はやく私に慣れなさい」と囁いた。
しばらく彼はナマエの手を握っていたが、やがて口を開く。
「…それから、今日はナマエにやってほしい事がある」
「はい、何なりと」
「兵器工場建設の投資を持ちかけようと思っている男がいてね。鰊大尽の成金だが……以前一度訪ねたところ、娘がいるらしい。しかし少々内気で、親として気になっていると。
そこでナマエは私と同行し、その娘の話相手をやってくれないか。鰊大尽を信頼させるためにね」
「私がですか?私にそんな事が出来るでしょうか……」
不安そうにするナマエの顔を、鶴見中尉は覗き込むようにすると柔らかく微笑んで言葉を続けた。
「出来るさ。ナマエは美しく賢いから……やってくれるね?」
「そんな事は……でも、お役に立てるように致します」
「ありがとう、ナマエ。支度をしたら一緒に出かけよう」
そう言うと、鶴見中尉は指先をナマエの頬に伸ばして優しく撫でた。
♢
鰊御殿は海岸沿いに建っている。
ナマエは鶴見中尉が乗る馬に乗せてもらうと、月島も伴って出発した。
良く晴れた日で、風も弱いので馬での移動も苦では無い。
このように馬に乗ったのは、料亭でのあの夜以来だと懐かしく思い出す。
やがて海が迫ってきて潮風を頬に感じると、小高い丘の上に目的の建物が見えてきた。
噂に聞く通り、贅を尽くした立派な建物でナマエは思わず目を見張った。
こんな豪奢な造りの家は、なかなかお目にかかる事はできない。
「さあ、着いたよ。降りようか」
鶴見中尉は先に降りると、ナマエに手を貸した。
女中が出迎えに来て応接間に通される。
調度品は舶来品も含まれていて、どれを取っても高価そうなものばかりだが、一際目を引いたのは洋琴で、物珍しい。
少しの間のあと、鰊御殿の親方とその奥方、例の娘が現れた。
3人とも良い身なりをしていて、鰊漁の盛況ぶりを感じさせる。
「今日もお時間を頂きまして有難う御座います。いや、いつ見ても見事な御殿ですな」
鶴見中尉が挨拶と共に褒めると、親方は満足そうに笑った。
「いやいや、泡銭で建てた御殿ですよ。それで、今日は娘のために奥様もご一緒に来て下さったと。ほら、ご挨拶しなさい」
今、奥様という言葉が聞こえた気がしたがナマエは努めて平静を装った。
親方に促されて、隠れるように立っていた少女がぺこりとお辞儀をする。十五歳くらいだろうか。
ナマエもお辞儀を返したところで、鶴見中尉が口を開いた。
「ええ、お嬢様のお話相手になればと妻も連れて参りました。楽しい時間が過ごせれば幸いです」
ナマエは目に驚きの色を浮かべて鶴見中尉を見たが、彼は一瞬パチリと片目を閉じて見せて、いたずらっぽく微笑んだ。
どうやらここは妻という体で話を進めるらしいと理解して、ナマエは小さく頷く。
「それは有り難い。奥様を自室にご案内しなさい。あとで菓子なども持って来させよう」
親方にそう言われて、娘は俯きがちのままナマエを部屋へと案内する。
鶴見中尉が 行っておいで、と言うようにナマエに目配せをしたので、その娘のあとについて行った。
階段を登って、長い廊下を歩いてようやく彼女の自室へ辿り着き、襖を開けて中に入る。
襖の引手は七宝焼で出来ていて、その贅沢ぶりにナマエは驚くばかりだった。
座布団を勧められたので座ると、娘も座卓を挟んで向かいに腰掛ける。
「こんなに隅々まで美しいお宅は初めて拝見しました。素敵ですね」
ナマエが率直な感想を述べると、娘は先程までのしおらしさは何処へやら、ふぅと溜息をつく。
「どんなに飾っても、所詮成金よ。お嬢様にはなれないわ」
少々面食らうも、ナマエはおずおずと口を開く。
「お嬢様にはなれない……ですか」
「そうよ。お父様は元々モッコ背負いだったし……ナマエさん、でしたね。中尉さんの奥様になれるような方は、きっとお生まれもいいのでしょうけど。女学校にいる、本物のお嬢様に私はなれないわ」
幼さの残る口元で、ふうとため息をつく。
ナマエは彼女が外で大人しい理由が分かったような気がした。
小樽には名家も多く、莫大な財をなしても学友とは相容れないものがあるのかもしれない。
尤も、ナマエは生まれが良いとは言えないので想像でしかなかったが。
「……軍人さんに嫁ぐ方は、軍に所縁のあるお家柄が多いと聞きますから、お嬢様がそう思われるのもごもっともで御座いますが、私に至っては違うのです」
「違う?」
少女はちらりとナマエを見やった。若い無垢な瞳だった。
「私はたまたま、鶴見さんに拾って頂いたので……運が良かっただけなのです」
「あらそうなの……でもそれで、あの軍人さんのことをお慕いに?」
ナマエは曖昧に言葉を濁したが、少女には大変興味深い話題であったようで、身を乗り出すようにしてあれやこれやと聞いてくる。
途中で女中がお茶と菓子を持ってきたが、食べるのもそっちのけで、彼女の無邪気なお喋りは続いた。
「素敵ね。私の旦那様になる方はどんなひとなのかしら」
「こんなに立派な家のお嬢様ですから、きっと素敵なご縁をご両親様が結んで下さいますよ」
その時、失礼するよ、と声がして襖が開いた。
「お話し中失礼。ナマエ、そろそろお暇しよう。妻とは楽しく過ごせましたかな」
ええ、とっても。と娘は答えると、ナマエを見て また来て下さいませ、と微笑みかける。
ナマエは控えめに微笑むと、鶴見中尉と月島と共に屋敷を後にした。