第6章
名前変換
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静かな夜が訪れる。
ベッド近くの窓から、月灯りが優しくさしこんでいて、ナマエはうつらうつらと眠たくなってきた。
しかしぼんやりした意識の中で、ふと異物を発見する。
窓からまっすぐ入ってきていたはずの月明かりの中に、黒い人影があってナマエは心底驚いた。
眠気が吹き飛び、昨日の場面が生々しく蘇った。
体が硬直し、目はただ影を見つめるばかりだ。
人影が一歩ベッドに歩み寄ると、月明かりが顔を照らし出した。
「尾形さん……?」
見知った顔に、ナマエはホッと胸をなで下ろす。
尾形は軍服の上に頭巾の付いた白地の外套を着ていて、軍帽は被っていない。
彼は月明かりを背にして立ったまま、口を開いた。
「……あのまま、本州にでも行ってしまえばよかったものを」
ナマエは え?と聞き返したけれど、尾形は答えなかった。
「誘拐犯のジジイを転がしてる方が、鶴見中尉殿といるよりよっぽどマシな人生だったと思うぜ」
「……私は鶴見さんのお側にいたいのです。鶴見さんのお近くに居られることが、私にとっての幸せなのです」
ベッドに横たわった、ナマエの青白い顔が月光に照らされている。
控えめな印象だが、目の中には驚くほど頑ななものがあって、男に堕ちていく女というのは、こういう様子なのかと尾形は思った。
関係すれば自分が傷つくような男に絡め取られていく。
自分の母親も、目の前の女のようだったのだろうか。
息子のことを構えなくなるくらいに深く暗い穴へ、気付いた時には堕ちていたのだろうか。
尾形は口元に微かな笑みを浮かべると、短く息を吐いた。
ナマエには彼の表情を読み取ることが難しかった。
顔色ひとつ変えないが、その下には暗く冷たいものが渦巻いているようだった。
特に今夜は、何かただならぬものが感じられて、背筋がすっと寒くなるような心地がする。
ふと彼の右手を見ると、黒っぽく汚れていた。
なにか仕事をしてきたのだろうか。
鶴見中尉が今朝に、夜は仕事があると言っていたのを思い出す。
「お前もたらし込まれたクチか…本当に運の無い女だ。
妾の母を持ち、鶴見中尉殿に目をつけられるとはな」
「母を悪く言うのはおやめ下さい」
尾形がククッと低く笑ったので、ナマエは怪訝に思って彼を見上げた。
「別に悪くは言っちゃいない。俺も同じ穴の狢だからな。……逃げるなら、今のうちだぞ」
そう言い残すと、尾形はナマエの返事も聞かずに立ち去っていく。
逃げるなら今のうち、という言葉が、ナマエの耳の奥にいつまでも残った。
……………
翌朝、目覚めてみると病院に出入りしている軍の関係者が何やら慌ただしい。
彼らの会話に耳をそばだててみると、どうやら昨晩に第七師団長の花沢中将が自刃したとの事だった。
「残ったのは腹違いの息子か…」
「ああ、尾形百之助だろう?山猫の子供は山猫さ」
彼らの言葉には多分に軽蔑が含まれていて、ナマエは不愉快な気分になる。
山猫というのが芸者の隠語だということは、料亭で働いていた頃に客から聞いたことがあった。
つまり、尾形の父は花沢中将で、芸者の妾に産ませた子どもが彼だという事なのだろう。
ナマエは、昨夜彼が「同じ穴の狢」と言っていたのを思い出す。
そして右手の黒い汚れ。あれは血だったのかもしれない、とナマエは唐突に思う。
不穏な予感が、彼女の胸の内を厚い雲のように覆った。
逃げるなら今のうち、という言葉が蘇る。
しかし自分がその選択をしないだろうと言うことは、もう知っていた。
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