その手を掴んで明日へ行く
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第三章 鋼の腕が手繰り寄せる生命
第一話:ダブリスの深い闇と、母の抱擁
南方の商人の街・ダブリス。
エルリック兄弟の錬金術の師匠であるイズミ・カーティスが営む肉屋の二階。そこには、外部の喧騒が一切届かない静寂が満ちていた。
「——そう。あなたも……持っていかれたのね」
イズミは静かに自ら淹れた茶のカップを置くと、ベッドに腰掛けるルイへ視線を向けた。その目は冷徹な師匠の顔ではなく、一人の傷ついた女性の眼差しだった。
14歳の時、病で亡くした弟を救おうと冒した禁忌——人体錬成。
その代償として真理の扉に奪われた『通行料』は、子宮。命を宿し、育むための器官だった。
自らの口からその重い過去を明かしたルイは、膝の上で握りしめた拳を震わせ、苦痛に耐えるように唇を噛み締めていた。
「私もだよ、ルイ」
イズミは静かに立ち上がり、ルイの目の前に歩み寄ると、自らの腹部に手を当てた。
「私も……昔、死んだ我が子を忘れられなくてね。あの子をもう一度抱きしめたくて、錬成陣を描いたの。……愚かで、浅はかな母親だった」
イズミの瞳の奥に、消えることのない深い悲哀の色が宿る。
「真理の扉に持っていかれたのは、内臓の一部。……そして、二度と子供を授かることのできない身体にされたわ。命を生み出したいと願った報いに、命を生み出す機能を永遠に奪われたのよ」
ぽつり、ぽつりと語られるイズミの告白。
それは、同じ苦しみを知る者にしか理解し得ない「女性特有の絶望」だった。
女として生まれた喜びを奪われ、誰かの母になる未来を閉ざされ、罪の重さに潰されそうになりながら生きる苦しみ。
これまで誰にも理解されず、胸の奥底に押し込めていた絶望を完璧に言語化された瞬間、ルイの胸の奥で堰を切ったように感情が決壊した。
「……あ……っ……っ……」
ポロポロと、アメジスト色の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
声にならない嗚咽が漏れ、震える手で顔を覆うルイ。
冷徹な大人の仮面も、軍人としての矜持もすべて崩れ去り、ただの傷ついた一人の少女のように涙を流し続けた。
そんなルイの姿を、イズミはどこまでも温かく、包み込むような腕で優しく抱きしめた。
「辛かったでしょう。痛かったでしょうね……。自分を責めて、傷つけることでしか生きている赦しを得られない気持ち……痛いほどよくわかるわ」
「……っ……イズミ、さん……ッ……私、は……っ!」
イズミの体温と、母の腕のような抱擁の温もりが、ルイの身体に伝わっていく。
これまで「自傷行為だ」「命を大切にしろ」と正論をぶつけられるたび、罪悪感で身を縮こまらせてきた。けれど、目の前の女性はルイの罪と、その裏にある底知れぬ痛みのすべてを受け止めてくれている。
「だけどね、ルイ」
イズミはそっと腕を緩めると、ルイの肩を掴み、その濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。その声には、悲哀を乗り越えてきた者だけが持てる強い芯があった。
「子供を産めなくなったからといって、命を生み出せない身体になったからといって……己の命を投げ捨てていい理由にはならないのよ」
「……っ……」
「あなたの命はね、誰かを救うための捨て駒でも、死んで買うための免罪符でもないの。あなたを生み、愛してくれた人がいたはずでしょう? あなたが自分の命を雑に扱い、傷つくたびに、見えない誰かが血を流しているのよ。……生きて、足掻きなさい。生きて自分を許す道を、這ってでも探しなさい」
「……っ……はい……」
イズミの言葉の一つひとつが、ルイの心に突き刺さり、同時に確かな生への光となって広がっていく。ルイは涙を拭うことも忘れ、小さく頷いた。
◇
——そして、その部屋の戸口の影。
隙間から二人のやり取りを盗み聞きしていたエドワードは、壁に背を預けたまま、動くことすらできずにいた。
(……俺は……何も……)
握りしめた右腕の鋼の義手が、ギチリと乾いた音を立てる。
脳裏に蘇るのは、病室でルイに向かって激昂した己の姿だ。
『免罪符だあ!?』『自分の命を使った自傷行為だ!』『生きろッ!』——。
正義感のつもりだった。正論を叩きつけているつもりだった。
だが、自分は「女としての絶望」や「二度と命を宿せないことへの根深い罪悪感」など、何ひとつ分かっていなかったのだ。15歳の男である自分には知る由もない領域の深い痛みを踏みにじり、己の価値観と正義感をただ一方的にぶつけていただけだったのだと、激しい後悔が押し寄せる。
(あいつの……あの女の本当の苦しみを何一つ理解しようともしないで……ただ大声で怒鳴りつけて満足してたのは……俺の方じゃねぇか……ッ!)
己の浅はかさと子供っぽさに対する、激しい怒りと恥辱。
そして同時に、エドワードの胸の中で、これまでとはまったく違う質の熱い感情が燃え上がっていた。
(正義感なんかじゃねぇ……。俺の意地だ。……ここで、この手で、この女を本当の意味で救ってやりてぇ)
命を削り、一人で死に向かおうとしていたルイの呪縛。
それをイズミが解きほぐしてくれたのなら、自分はこれから先、彼女の「生」を全力で引っ張り、繋ぎ止め続ける存在にならなければならない。
琥珀色の瞳に、静かで、けれど決して折れない「鋼の覚悟」が宿った。
第三章 鋼の腕が手繰り寄せる生命
第一話:ダブリスの深い闇と、母の抱擁
南方の商人の街・ダブリス。
エルリック兄弟の錬金術の師匠であるイズミ・カーティスが営む肉屋の二階。そこには、外部の喧騒が一切届かない静寂が満ちていた。
「——そう。あなたも……持っていかれたのね」
イズミは静かに自ら淹れた茶のカップを置くと、ベッドに腰掛けるルイへ視線を向けた。その目は冷徹な師匠の顔ではなく、一人の傷ついた女性の眼差しだった。
14歳の時、病で亡くした弟を救おうと冒した禁忌——人体錬成。
その代償として真理の扉に奪われた『通行料』は、子宮。命を宿し、育むための器官だった。
自らの口からその重い過去を明かしたルイは、膝の上で握りしめた拳を震わせ、苦痛に耐えるように唇を噛み締めていた。
「私もだよ、ルイ」
イズミは静かに立ち上がり、ルイの目の前に歩み寄ると、自らの腹部に手を当てた。
「私も……昔、死んだ我が子を忘れられなくてね。あの子をもう一度抱きしめたくて、錬成陣を描いたの。……愚かで、浅はかな母親だった」
イズミの瞳の奥に、消えることのない深い悲哀の色が宿る。
「真理の扉に持っていかれたのは、内臓の一部。……そして、二度と子供を授かることのできない身体にされたわ。命を生み出したいと願った報いに、命を生み出す機能を永遠に奪われたのよ」
ぽつり、ぽつりと語られるイズミの告白。
それは、同じ苦しみを知る者にしか理解し得ない「女性特有の絶望」だった。
女として生まれた喜びを奪われ、誰かの母になる未来を閉ざされ、罪の重さに潰されそうになりながら生きる苦しみ。
これまで誰にも理解されず、胸の奥底に押し込めていた絶望を完璧に言語化された瞬間、ルイの胸の奥で堰を切ったように感情が決壊した。
「……あ……っ……っ……」
ポロポロと、アメジスト色の瞳から大粒の涙が溢れ出す。
声にならない嗚咽が漏れ、震える手で顔を覆うルイ。
冷徹な大人の仮面も、軍人としての矜持もすべて崩れ去り、ただの傷ついた一人の少女のように涙を流し続けた。
そんなルイの姿を、イズミはどこまでも温かく、包み込むような腕で優しく抱きしめた。
「辛かったでしょう。痛かったでしょうね……。自分を責めて、傷つけることでしか生きている赦しを得られない気持ち……痛いほどよくわかるわ」
「……っ……イズミ、さん……ッ……私、は……っ!」
イズミの体温と、母の腕のような抱擁の温もりが、ルイの身体に伝わっていく。
これまで「自傷行為だ」「命を大切にしろ」と正論をぶつけられるたび、罪悪感で身を縮こまらせてきた。けれど、目の前の女性はルイの罪と、その裏にある底知れぬ痛みのすべてを受け止めてくれている。
「だけどね、ルイ」
イズミはそっと腕を緩めると、ルイの肩を掴み、その濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。その声には、悲哀を乗り越えてきた者だけが持てる強い芯があった。
「子供を産めなくなったからといって、命を生み出せない身体になったからといって……己の命を投げ捨てていい理由にはならないのよ」
「……っ……」
「あなたの命はね、誰かを救うための捨て駒でも、死んで買うための免罪符でもないの。あなたを生み、愛してくれた人がいたはずでしょう? あなたが自分の命を雑に扱い、傷つくたびに、見えない誰かが血を流しているのよ。……生きて、足掻きなさい。生きて自分を許す道を、這ってでも探しなさい」
「……っ……はい……」
イズミの言葉の一つひとつが、ルイの心に突き刺さり、同時に確かな生への光となって広がっていく。ルイは涙を拭うことも忘れ、小さく頷いた。
◇
——そして、その部屋の戸口の影。
隙間から二人のやり取りを盗み聞きしていたエドワードは、壁に背を預けたまま、動くことすらできずにいた。
(……俺は……何も……)
握りしめた右腕の鋼の義手が、ギチリと乾いた音を立てる。
脳裏に蘇るのは、病室でルイに向かって激昂した己の姿だ。
『免罪符だあ!?』『自分の命を使った自傷行為だ!』『生きろッ!』——。
正義感のつもりだった。正論を叩きつけているつもりだった。
だが、自分は「女としての絶望」や「二度と命を宿せないことへの根深い罪悪感」など、何ひとつ分かっていなかったのだ。15歳の男である自分には知る由もない領域の深い痛みを踏みにじり、己の価値観と正義感をただ一方的にぶつけていただけだったのだと、激しい後悔が押し寄せる。
(あいつの……あの女の本当の苦しみを何一つ理解しようともしないで……ただ大声で怒鳴りつけて満足してたのは……俺の方じゃねぇか……ッ!)
己の浅はかさと子供っぽさに対する、激しい怒りと恥辱。
そして同時に、エドワードの胸の中で、これまでとはまったく違う質の熱い感情が燃え上がっていた。
(正義感なんかじゃねぇ……。俺の意地だ。……ここで、この手で、この女を本当の意味で救ってやりてぇ)
命を削り、一人で死に向かおうとしていたルイの呪縛。
それをイズミが解きほぐしてくれたのなら、自分はこれから先、彼女の「生」を全力で引っ張り、繋ぎ止め続ける存在にならなければならない。
琥珀色の瞳に、静かで、けれど決して折れない「鋼の覚悟」が宿った。
