凪に涙の波紋
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第1章:残された指輪と凍てつく背中
藤襲山での最終選別が終わった。
泥と血にまみれ、命からがら狭霧山へと戻ってきた冨岡義勇を待っていたのは、無事を喜ぶ声ではなく、あまりにも残酷な現実だった。
「……錆兎は、鬼を一人で食い止め……他の志願者を全員助けて……」
血を吐くような思いで報告を口にしながら、義勇は崩れ落ちた。その青い瞳からは光が消え失せ、あの日あそこへ置いてきてしまった魂の慟哭に身を震わせる。自分が失絶し、何もできないまま守られ、生き残ってしまったという事実が、義勇の心をズタズタに引き裂いていた。
だが、そんな義勇を優しく包み込んだのは、あさきの手だった。
あさきだって、胸が引き裂かれるほど痛かったはずだった。右手の薬指には、出立の前夜に錆兎がはめてくれた小さな銀色の指輪が静かな光を放っている。けれど、あさきは義勇の前で絶対に涙を流さなかった。
自分が泣けば、義勇がどれほど自分を責めてしまうか、痛いほど分かっていたからだ。
「……よかった。義勇、あなたが生きて帰ってきてくれて……本当に、よかった……」
あさきは震える義勇の身体を力強く抱きしめ、背中を優しく撫で続けた。
自分の一番大切な存在を失った悲しみをすべて奥底に押し込め、ただ目の前で傷つき、泣き崩れる義勇の痛みに寄り添い、温もりを与え続けたのだった。
——けれど。
義勇を慰め、一人きりになった自室で。
あさきは右手の指輪をきつく握りしめ、布団に顔をうずめて声を押し殺し、ボロボロと涙を流していた。
『必ず生きて戻る』
あの夜、自分を抱きしめてくれた錆兎の温もりはもうどこにもない。押し寄せる深い悲しみと喪失感に耐えかね、誰もいない部屋でひっそりと膝を抱えて泣くあさき。
その姿を、あさきに一言お礼を言おうと部屋を訪れた義勇が、障子の隙間からたまたま見てしまったのだ。
(あさきは……俺の前では、あんなにも強く笑ってくれていたのに)
声を殺して泣くあさきの小さな背中を見た瞬間、義勇の胸に猛烈な罪悪感と自己嫌悪が突き刺さった。
あさきから一番大切な錆兎を奪ったのは、他ならぬ自分だ。
自分が弱かったせいで錆兎は死に、あさきにこんなにも苦しい涙を流させている。自分があさきの側にいれば、あさきは気を使って笑ってみせ、一人になった時にこうして血を吐くような思いで泣くのだ。
(俺が……あさきを傷つけている
俺には、あさきの側にいる資格など最初からなかったんだ)
あさきが生きていてくれた喜びすらも、重すぎる罪悪感によって塗りつぶされていく。
これ以上あさきを悲しませたくない。あさきに無理をさせたくない。そして、もし次に自分の未熟さのせいで、この愛おしいあさきまで失ってしまったら——。
「もう二度と、大切なものを俺のせいで失いたくない」
その夜を境に、義勇はあさきを徹底的に避けるようになった。
同じ狭霧山に身を置きながらも、あさきの気配を感じ取ると露骨に姿を消し、偶然通路ですれ違いそうになっても、冷酷なまでに視線を合わせず通り過ぎていく。
あさきがどれほど心配そうに声をかけても、義勇は「……近寄るな」「俺に関わるな」と冷たい言葉で突き放し続けた。あさきを遠ざけるたび、義勇自身の心も悲鳴を上げていたが、あさきを守るため、そして自分の罪を背負うため、彼は分厚い氷の壁を築き続けたのだった。
あさきが「私が義勇に嫌われてしまったのだ」と勘違いし、暗闇の中で傷ついていることすら、気づかぬ振りをしながら——。
