凪に涙の波紋
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
番外編(錆兎):狭霧山のひだまり
山間を抜ける風が、柔らかに木々を揺らす狭霧山。
あさきにとってこの山は、家族を失い一人ぼっちだった幼い自分を鱗滝左近次が拾い、温かく育ててくれた「家」そのものだった。
その平穏な日常に、天涯孤独の少年・錆兎が加わったのは、あさきがまだ幼い頃のことだった。
「今日からここで一緒に暮らす、錆兎だ」
鱗滝に紹介された時、宍色の髪をした少年は、泥だらけの顔でニッと真っ直ぐに笑ってみせた。
同じ傷を抱えた者同士、ふたりは実のきょうだいのようにお互いを支え合い、厳しい修行の日々を乗り越えていった。そして、成長するにつれてその絆は、ごく自然に、甘く温かな恋心へと変わっていったのだった。
「あさき、ほら。手を出せ」
厳しい山くだりの修行が終わった夕暮れ時。
境内の縁側で息を整えるあさきの隣に座り、錆兎が不器用に手を伸ばす。ゴツゴツとした大きな掌があさきの頭にぽんと置かれ、慈しむように優しく撫でられた。
「……錆兎、髪がぐしゃぐしゃになっちゃう」
「ははっ、いいんだよ。今日もよく頑張ったな」
大人同士の濃厚な愛なんてまだ知らない。
けれど、夕暮れに染まる縁側で手を握り合ったり、頭を撫でられたり、誰にも見られない場所で触れるだけの唇を重ねたり。それだけで胸がいっぱいになり、世界の何よりも満たされる……そんな純粋で甘やかな初恋をふたりは育んでいたのだった。
◇
そんなふたりの穏やかな日常に、少し遅れてやってきたのが、大人しくて気弱な少年・冨岡義勇だった。
肉親を亡くしたばかりで心を閉ざし、いつも遠くを寂しそうに見つめていた義勇。
だが、あさきと錆兎は、そんな義勇を蚊帳の外にすることなど決してしなかった。
「おい義勇! ぼさっとしてたら修行に置いていくぞ!」
「義勇、はいお水。無理しないでね」
錆兎が豪快に義勇の背中を叩いて引っ張り、あさきが甲斐甲斐しく手当てをして笑いかける。
既に深く結ばれていたふたりの温かな輪の中に、義勇はごく自然に引き入れられていった。
義勇にとって、錆兎とあさきは「憧れの関係」であり、ふたりが並んで笑い合っている姿を見るのが何よりの救いだった。
時折、あさきと錆兎がふたりきりで手を取り合い、甘く気恥ずかしい空気を纏っていると、義勇は「……少し水でも飲んでくる」と気を利かせて静かに席を外した。
邪魔をしてはいけないという遠慮もあったが、それ以上に、大好きなふたりが幸せそうに寄り添っている空間そのものが愛おしかったのだ。
夜、大きな岩の上で三人で夜空を見上げながら、錆兎が言った。
「鬼を全部倒したらさ。三人で静かな街に小さな家を借りて暮らそう。毎日美味しいものを食べて、笑って過ごすんだ。俺が二人を一生護る」
「俺も……強くなる。二人と一緒に……その未来へ行く」
義勇の不器用で真っ直ぐな言葉に、錆兎とあさきは顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
あさきと錆兎の甘い初恋も、義勇も含めた三人で描く未来も、すべてが眩しい光に満ちあふれていた。
◇
そして——、最終選別の前夜。
義勇がいつものように気を利かせて境内の奥へ去ったあと、月明かりが差し込む岩の上で、錆兎があさきを呼び止めた。
「あさき、手を貸してくれ」
差し出された小さな手に、錆兎は優しく触れる。懐から取り出した小さな銀色の輪を、あさきの右手の薬指へとそっと滑らせた。
「これは……?」
「お守りだ。俺たちの絆と、あの夜の誓いの証。これをはめていれば、離れていても俺はお前を護れる」
錆兎はあさきの右手を両手で優しく包み込み、ゆっくりと自分の額を重ねた。掌から伝わってくる熱気と、切ないほどの深い情愛。
「必ず生きて戻る。選別が終わったら……その時は、正式に俺をお前の特別にしてほしい」
「錆兎……! ええ、絶対に無事で帰ってきてね……!」
涙ぐむあさきを、錆兎は堪らなくなったように強く抱きしめた。あさきの髪に顔を埋め、慈しむように撫でる。
耳元で囁かれた甘い誓いと、右手の指輪の輝き。ふたりは互いの存在と未来を疑うことなく、静かに温もりを確かめ合っていたのだった。
——そしてその直後。
あさきに指輪を渡し、少し照れくさそうに部屋へ戻ってきた錆兎は、静かに起きていた義勇の前に腰を下ろした。
「義勇。……あさきには、指輪を渡してきた」
「……指輪?」
「あぁ。俺たちの約束の証だ」
錆兎は少し真剣な目になると、義勇の肩にポンと力強く手を置いた。
「……もしも、だ。もしも俺が将来、あさきの傍にいられなくなったら……あさきのことは、お前に託す」
「何を言ってるんだ錆兎! 一緒に帰ってくるんだろ!?」
思わず立ち上がろうとした義勇の頭を、錆兎はふっと優しく笑って小突いた。
「ふっ、分かっている。……だが、俺に万が一のことがあった時は、あさきを一人にしないでやってくれ。お前があさきを守り、傍にいてやってほしい」
その夜、錆兎が残した言葉。
それが、どれほど重く、切ない「命のバトン」として義勇の魂に刻まれることになるかを、まだ誰も知る由もなかったのだ——。
(完)
