凪に涙の波紋
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プロローグ:暁の誓いと約束の輪
狭霧山の夕暮れは、息を呑むほどに美しく、そしてどこまでも厳しかった。
切り立った山肌を駆け降りる修行を終え、境内の古い縁側に倒れ込むように腰を下ろした三人の少年少女は、上がった息を整えることすらできずにいた。汗に濡れた髪が額に張り付き、着物は泥と煤にまみれている。
「……ハァ……ハァ……今日の山くだり、罠の数が倍になってなかったか……?」
着物の袖で乱雑に顔を拭い、ぽつりと呟いたのは義勇だった。まだ少年の柔らかさを残した横顔には酷い疲労の色が浮かんでいたが、その青い瞳にはどこか安堵の光が宿っていた。
「何を弱音を吐いているんだ、義勇! 鱗滝さんの罠を見抜けんようでは、藤襲山で鬼に喰われるぞ」
そう言って義勇の背中をバシッと叩いたのは錆兎だった。豪快な笑い声を上げる彼の髪は、沈みかける夕日に照らされて柔らかな木蓮色に輝いている。背中を叩かれた義勇が「痛い……」と顔を顰めると、隣にいた少女・あさきは思わず小さく吹き出した。
「ふふっ、二人ともお疲れ様。はい、お水」
あさきが差し出した竹筒の水を、義勇は「……ありがとう」と静かに受け取り、錆兎は「助かる!」と爽やかに笑って一気に飲み干す。
泥だらけになりながら笑い合うこの時間こそが、過酷な修行の中で彼らにとって何よりの救いだった。鱗滝左近次の厳しい指導に必死にしがみつき、互いの傷を庇い合いながら、三人は実のきょうだい以上に強い絆を育んでいった。
夜が更け、境内の大きな岩の上に腰掛けた三人は、静かに夜空を見上げていた。冷たい風が頬を撫でる中、錆兎が遥か未来を見つめるような眼差しで口を開く。
「なぁ。無事に最終選別を突破して、鬼殺隊士になったら……鬼のいない世界を作ろう」
「うん、絶対に」
錆兎の言葉に、あさきはまっすぐな瞳で頷き彼の右手の指先をそっと握りしめる。錆兎は一瞬驚いたように目を見張り、それから嬉しそうに目元を緩めた。
「そうだな。俺たちが鬼を全て倒して、鬼のいない世界を作ろう。……そうしたら、あさき。鬼の脅威におびえることも、誰かが泣くこともない世界で、三人でずっと一緒に暮らそう」
「三人で……?」
錆兎は少し照れくさそうに鼻の頭を掻きながら、隣で黙って話を聞いていた義勇の肩を抱き寄せた。
「そうだ。俺と、あさきと、義勇でだ。静かな街で小さな家を借りてさ。毎日美味しいものを食べて、笑って過ごすんだ。お前たち二人を、俺が一生護る」
「錆兎……」
「俺も……」
ずっと俯いていた義勇が、ゆっくりと顔を上げた。その青い瞳には、力強い光が宿っていた。
「俺も……強くなる。錆兎とあさきと一緒に、鬼を倒す。二人から離れたくない」
言葉数は少ないけれど、義勇の不器用な声には溢れんばかりの情熱と、二人への深い執着が込められていた。まだ幼い三人の胸にあったのは、純粋で眩しいほどの希望だけだった。
錆兎はあさきにとって、暗闇を照らす太陽のような初恋の人。
そして義勇は、静かに寄り添い、共に痛みを分け合えるかけがえのない存在。
「約束だよ、三人で必ず生き残って、その未来を見に行こうね」
あさきが差し出した小指に、錆兎の力強い小指と、義勇の少し冷たくて温かい小指が重なる。
三人は月明かりの下で小指を絡め合い、鬼のいない未来で共に生きることを固く誓い合った。
そして、藤襲山へと向かう最終選別前夜。
明日の出立を控え、静まり返った境内の月影で、あさきは呼び出された。待っていたのは、宍色の髪を夜風に揺らす錆兎だった。
「あさき。手を貸してくれ」
言われるがままがあさきが差し出した小さな手に、錆兎は優しく触れる。そして懐から取り出した小さな銀色の輪を、あさきの右手の指へと静かに通した。
「これは……?」
驚いて見つめるあさきに、錆兎は多くを語らなかった。明日をも知れぬ鬼殺隊の世界へ足を踏み入れる前夜。軽々しく「未来」を口にすることなど、彼にはできなかった。だからこそ、その顔に浮かんでいたのは浮ついた笑みなどではなく、胸が締め付けられるほどに切実な、祈るような眼差しだった。
「……お守りだ」
ぽつりと漏らした声は、夜風に消えてしまいそうなほど静かだった。錆兎は指輪をはめたあさきの右手を両手でぎゅっと包み込み、すがるように、ゆっくりと自らの額を重ねる。伝わってくるのは、自分たちの無事を天に乞うような、痛いほどの切望と震えだった。
「俺たちの絆と、あの夜の誓い……。どんなことがあっても、俺は生きてお前の元へ戻る。だからあさき、お前も絶対に生きてくれ」
それは言葉というよりも、自らの魂に刻み込むような必死の誓いだった。指輪の冷たさと、それを包む錆兎の手の熱気。その矛盾する温もりに、あさきは胸を突かれ、ただ溢れる涙を堪えながら深く頷くことしかできなかった。
これが初恋の記憶であり、生死を分かつ夜に交わされた、痛切なまでの祈り。
だが——。
これが、錆兎と交わした最後の約束になる。そしてこの指輪がふたりを繋ぐ最後のお守りになってしまうとは、この時のあさきも、そして部屋でふたりの無事を祈っていた義勇も、知る由もなかったのだ。
プロローグ:暁の誓いと約束の輪
狭霧山の夕暮れは、息を呑むほどに美しく、そしてどこまでも厳しかった。
切り立った山肌を駆け降りる修行を終え、境内の古い縁側に倒れ込むように腰を下ろした三人の少年少女は、上がった息を整えることすらできずにいた。汗に濡れた髪が額に張り付き、着物は泥と煤にまみれている。
「……ハァ……ハァ……今日の山くだり、罠の数が倍になってなかったか……?」
着物の袖で乱雑に顔を拭い、ぽつりと呟いたのは義勇だった。まだ少年の柔らかさを残した横顔には酷い疲労の色が浮かんでいたが、その青い瞳にはどこか安堵の光が宿っていた。
「何を弱音を吐いているんだ、義勇! 鱗滝さんの罠を見抜けんようでは、藤襲山で鬼に喰われるぞ」
そう言って義勇の背中をバシッと叩いたのは錆兎だった。豪快な笑い声を上げる彼の髪は、沈みかける夕日に照らされて柔らかな木蓮色に輝いている。背中を叩かれた義勇が「痛い……」と顔を顰めると、隣にいた少女・あさきは思わず小さく吹き出した。
「ふふっ、二人ともお疲れ様。はい、お水」
あさきが差し出した竹筒の水を、義勇は「……ありがとう」と静かに受け取り、錆兎は「助かる!」と爽やかに笑って一気に飲み干す。
泥だらけになりながら笑い合うこの時間こそが、過酷な修行の中で彼らにとって何よりの救いだった。鱗滝左近次の厳しい指導に必死にしがみつき、互いの傷を庇い合いながら、三人は実のきょうだい以上に強い絆を育んでいった。
夜が更け、境内の大きな岩の上に腰掛けた三人は、静かに夜空を見上げていた。冷たい風が頬を撫でる中、錆兎が遥か未来を見つめるような眼差しで口を開く。
「なぁ。無事に最終選別を突破して、鬼殺隊士になったら……鬼のいない世界を作ろう」
「うん、絶対に」
錆兎の言葉に、あさきはまっすぐな瞳で頷き彼の右手の指先をそっと握りしめる。錆兎は一瞬驚いたように目を見張り、それから嬉しそうに目元を緩めた。
「そうだな。俺たちが鬼を全て倒して、鬼のいない世界を作ろう。……そうしたら、あさき。鬼の脅威におびえることも、誰かが泣くこともない世界で、三人でずっと一緒に暮らそう」
「三人で……?」
錆兎は少し照れくさそうに鼻の頭を掻きながら、隣で黙って話を聞いていた義勇の肩を抱き寄せた。
「そうだ。俺と、あさきと、義勇でだ。静かな街で小さな家を借りてさ。毎日美味しいものを食べて、笑って過ごすんだ。お前たち二人を、俺が一生護る」
「錆兎……」
「俺も……」
ずっと俯いていた義勇が、ゆっくりと顔を上げた。その青い瞳には、力強い光が宿っていた。
「俺も……強くなる。錆兎とあさきと一緒に、鬼を倒す。二人から離れたくない」
言葉数は少ないけれど、義勇の不器用な声には溢れんばかりの情熱と、二人への深い執着が込められていた。まだ幼い三人の胸にあったのは、純粋で眩しいほどの希望だけだった。
錆兎はあさきにとって、暗闇を照らす太陽のような初恋の人。
そして義勇は、静かに寄り添い、共に痛みを分け合えるかけがえのない存在。
「約束だよ、三人で必ず生き残って、その未来を見に行こうね」
あさきが差し出した小指に、錆兎の力強い小指と、義勇の少し冷たくて温かい小指が重なる。
三人は月明かりの下で小指を絡め合い、鬼のいない未来で共に生きることを固く誓い合った。
そして、藤襲山へと向かう最終選別前夜。
明日の出立を控え、静まり返った境内の月影で、あさきは呼び出された。待っていたのは、宍色の髪を夜風に揺らす錆兎だった。
「あさき。手を貸してくれ」
言われるがままがあさきが差し出した小さな手に、錆兎は優しく触れる。そして懐から取り出した小さな銀色の輪を、あさきの右手の指へと静かに通した。
「これは……?」
驚いて見つめるあさきに、錆兎は多くを語らなかった。明日をも知れぬ鬼殺隊の世界へ足を踏み入れる前夜。軽々しく「未来」を口にすることなど、彼にはできなかった。だからこそ、その顔に浮かんでいたのは浮ついた笑みなどではなく、胸が締め付けられるほどに切実な、祈るような眼差しだった。
「……お守りだ」
ぽつりと漏らした声は、夜風に消えてしまいそうなほど静かだった。錆兎は指輪をはめたあさきの右手を両手でぎゅっと包み込み、すがるように、ゆっくりと自らの額を重ねる。伝わってくるのは、自分たちの無事を天に乞うような、痛いほどの切望と震えだった。
「俺たちの絆と、あの夜の誓い……。どんなことがあっても、俺は生きてお前の元へ戻る。だからあさき、お前も絶対に生きてくれ」
それは言葉というよりも、自らの魂に刻み込むような必死の誓いだった。指輪の冷たさと、それを包む錆兎の手の熱気。その矛盾する温もりに、あさきは胸を突かれ、ただ溢れる涙を堪えながら深く頷くことしかできなかった。
これが初恋の記憶であり、生死を分かつ夜に交わされた、痛切なまでの祈り。
だが——。
これが、錆兎と交わした最後の約束になる。そしてこの指輪がふたりを繋ぐ最後のお守りになってしまうとは、この時のあさきも、そして部屋でふたりの無事を祈っていた義勇も、知る由もなかったのだ。
