捧げた心臓の在処
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第2話前編:古城の静寂と、小さな嵐
特別兵法会議の喧騒から数日。
エレン・イェーガーの監視と巨人化能力の検証、そして第57回壁外調査に向けた準備のため、調査兵団本部は郊外に位置する旧調査兵団本部――通称「古城」へとその拠点を移していた。
長年放置されていた巨大な古城は、埃と蜘蛛の巣に覆われており、本部に到着するや否や「人類最強の兵士」による容赦のない徹底清掃が命じられたのは言うまでもない。
「おい、あさき。エルヴィンの部屋の書類整理が終わったら、廊下の拭き掃除だ。雑巾の絞り方が甘いガキどもに任せていたら日が暮れる」
「分かっているわ、リヴァイ。でもその前に、憲兵団へ送る追加の報告書を仕上げないと」
あさきは両腕いっぱいに抱えた分厚い書類の山を抱え、急ぎ足で薄暗い廊下を歩いていた。
元貴族令嬢としての気品を崩さぬよう、背筋をすっと伸ばした凛とした佇まい。しかし、裁判直後からほとんど不眠不休で書類仕事と各兵団との折衝をこなしていた彼女の側顔には、うっすらと疲労の影が差している。
その時だった。
「あ、あさきさん……っ!」
角からひょっこりと顔を出したのは、バケツと雑巾を手にしたエレンだった。
あさき姿を認めると、その緑の瞳をパッと輝かせ、尻尾を振る犬のように弾んだ足取りで駆け寄ってくる。
「お疲れ様です! その書類、すごく重そうですね……! 俺が持ちます! 何か手伝うことありますか!? 何でも言ってください!」
目をキラキラと輝かせ、必死に「役に立ちたい」とアピールしてくるエレン。
あの裁判の日に、化け物扱いされた自分を唯一「人間」として扱い、優しく口元の血を拭ってくれたあさき。彼女に対して、エレンの心には憧れと強い執着、そして「認められたい」という切実な想いが渦巻いていた。
「あら、エレン」
あさきは足を止め、疲れた顔にふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう。でもこれはエルヴィン団長へ直接渡す極秘の報告書だから、自分で持たないといけないの。気持ちだけ受け取っておくわね。手伝おうとしてくれて嬉しいわ」
そう言って、あさきは愛おしそうにエレンの頭をポンポンと優しく撫でた。
「っ……!」
頭に触れられた温もりに、エレンの顔が一瞬でカッと熱くなる。
(あさきさんに、撫でられた……!)
胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘く激しい動悸。母親を失って以来、ずっと飢えていた温もりがあさきの手から伝わってくる。
「そ、そんな! 俺だって役に立ちたいんです! 掃除でも、物資の運搬でも、あさきさんの指示なら何でも――」
ガシッ。
「うわっ!?」
次の瞬間、エレンの首後ろの襟ぐりが、容赦ない力でぐいっと掴み上げられた。
「……おい。てめえ、割り当てられた1階の廊下の掃除はどうした」
背後から漂う、冷ややかな殺気と強い石鹸の匂い。
振り返らなくても分かる。リヴァイ兵長だった。
「あさきにまとわりついてる暇があるなら、床の一枚でも磨いてろ。お前はこっちの掃除でもしとけ」
「ちょ、兵長! 今、あさきさんのお手伝いを――!」
「黙れ。拭き残しがあったら容赦なく叩き直す」
無表情のまま、首根っこを掴んでエレンをズルズルと清掃用具置き場の方へと引きずっていくリヴァイ。
「うわあぁぁ! あさきさーん! 今度こそ絶対手伝いますからね――!!」
必死に手を伸ばしながら連行されていくエレンの姿に、あさきは思わずクスッと苦笑いを漏らした。
「ごめんねエレン! リヴァイ兵長の言う通り、掃除も大事な任務だから頑張ってね!」
遠ざかっていくエレンを背に見送りながら、あさきが小さく息を吐くと、背後からあきれ顔のペトラとオルオが歩み寄ってきた。
「……ふふ、エレンってば、あさき補佐官の前だと本当に分かりやすいですよね」
ペトラが微笑ましいものを見る目でクスクスと笑う。
「フン! カッコつけて補佐官の機嫌を取ろうなどと100年早い! この俺様のように常に冷静沈着で……ギャッ!(舌を噛む)」
「オルオ、だから喋りながら歩くなと言っているでしょう」
あさきは呆れつつも慣れた手つきでポケットからハンカチを取り出し、血を拭うオルオに差し出した。
「すみません、あさき補佐官……」
しゅんとするオルオを見て、ペトラがあさきに小声で耳打ちする。
「あさき補佐官、兵長はああ言ってますけど……昨日の夜、補佐官が徹夜で書類を書いていたのを見て、すごく心配されていたんですよ。だからエレンが騒いで補佐官の邪魔をしないように、わざわざ掃除にかこつけて連れ去ったんです」
「……リヴァイが?」
「ええ。『あいつはまた限界を超えて仕事をする気だ』って不機嫌そうにつぶやいていらっしゃいました。不器用ですけど、補佐官のことを一番気遣っているのは兵長ですから」
ペトラの言葉に、あさきは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
不愛想で言葉は足りないが、リヴァイはいつだってあさきの背中を支え、守ってくれている。
「ふふ、そうね。あとで美味しい紅茶を淹れてあげないと」
あさきが優しく目を細めたその時――。
「あーーーっ!! あさきみーっけ!!」
猛烈な足音とともに、眼鏡を光らせたハンジが曲がり角から飛び出してきた!
「ちょうどいいところに! ねえあさき、エレン知らない!? 今日のソニーとビーンの歯磨き実験、手伝わせようと思って探してるんだけど!」
「ハンジ分隊長……エレンなら今、リヴァイ兵長に連行されて廊下の掃除をさせられていますよ」
「何だって!? リヴァイのやつ、貴重な被験体を掃除ごときで独占するなんてズルいぞ! よし、奪い返しに行こう!」
ハンジは腕まくりをしながら嵐のように去っていき、あさきとペトラは顔を見合わせて思わず吹き出した。
緊迫した世界と、巨人の脅威。
だが、この古城に流れる賑やかで温かい日常の時間は、失うにはあまりにも愛おしい、調査兵団の確かな「灯火」であった。
(この日常を……みんなの笑顔を、絶対に守り抜く)
あさきはぎゅっと書類を抱え直し、エルヴィンの待つ執務室へと足を進めた。
その先で待ち受ける、苛烈な第57回壁外調査――女型の巨人との激突の時が、刻一刻と近づいていることも知らずに。
第2話前編:古城の静寂と、小さな嵐
特別兵法会議の喧騒から数日。
エレン・イェーガーの監視と巨人化能力の検証、そして第57回壁外調査に向けた準備のため、調査兵団本部は郊外に位置する旧調査兵団本部――通称「古城」へとその拠点を移していた。
長年放置されていた巨大な古城は、埃と蜘蛛の巣に覆われており、本部に到着するや否や「人類最強の兵士」による容赦のない徹底清掃が命じられたのは言うまでもない。
「おい、あさき。エルヴィンの部屋の書類整理が終わったら、廊下の拭き掃除だ。雑巾の絞り方が甘いガキどもに任せていたら日が暮れる」
「分かっているわ、リヴァイ。でもその前に、憲兵団へ送る追加の報告書を仕上げないと」
あさきは両腕いっぱいに抱えた分厚い書類の山を抱え、急ぎ足で薄暗い廊下を歩いていた。
元貴族令嬢としての気品を崩さぬよう、背筋をすっと伸ばした凛とした佇まい。しかし、裁判直後からほとんど不眠不休で書類仕事と各兵団との折衝をこなしていた彼女の側顔には、うっすらと疲労の影が差している。
その時だった。
「あ、あさきさん……っ!」
角からひょっこりと顔を出したのは、バケツと雑巾を手にしたエレンだった。
あさき姿を認めると、その緑の瞳をパッと輝かせ、尻尾を振る犬のように弾んだ足取りで駆け寄ってくる。
「お疲れ様です! その書類、すごく重そうですね……! 俺が持ちます! 何か手伝うことありますか!? 何でも言ってください!」
目をキラキラと輝かせ、必死に「役に立ちたい」とアピールしてくるエレン。
あの裁判の日に、化け物扱いされた自分を唯一「人間」として扱い、優しく口元の血を拭ってくれたあさき。彼女に対して、エレンの心には憧れと強い執着、そして「認められたい」という切実な想いが渦巻いていた。
「あら、エレン」
あさきは足を止め、疲れた顔にふっと柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう。でもこれはエルヴィン団長へ直接渡す極秘の報告書だから、自分で持たないといけないの。気持ちだけ受け取っておくわね。手伝おうとしてくれて嬉しいわ」
そう言って、あさきは愛おしそうにエレンの頭をポンポンと優しく撫でた。
「っ……!」
頭に触れられた温もりに、エレンの顔が一瞬でカッと熱くなる。
(あさきさんに、撫でられた……!)
胸の奥がキュッと締め付けられるような、甘く激しい動悸。母親を失って以来、ずっと飢えていた温もりがあさきの手から伝わってくる。
「そ、そんな! 俺だって役に立ちたいんです! 掃除でも、物資の運搬でも、あさきさんの指示なら何でも――」
ガシッ。
「うわっ!?」
次の瞬間、エレンの首後ろの襟ぐりが、容赦ない力でぐいっと掴み上げられた。
「……おい。てめえ、割り当てられた1階の廊下の掃除はどうした」
背後から漂う、冷ややかな殺気と強い石鹸の匂い。
振り返らなくても分かる。リヴァイ兵長だった。
「あさきにまとわりついてる暇があるなら、床の一枚でも磨いてろ。お前はこっちの掃除でもしとけ」
「ちょ、兵長! 今、あさきさんのお手伝いを――!」
「黙れ。拭き残しがあったら容赦なく叩き直す」
無表情のまま、首根っこを掴んでエレンをズルズルと清掃用具置き場の方へと引きずっていくリヴァイ。
「うわあぁぁ! あさきさーん! 今度こそ絶対手伝いますからね――!!」
必死に手を伸ばしながら連行されていくエレンの姿に、あさきは思わずクスッと苦笑いを漏らした。
「ごめんねエレン! リヴァイ兵長の言う通り、掃除も大事な任務だから頑張ってね!」
遠ざかっていくエレンを背に見送りながら、あさきが小さく息を吐くと、背後からあきれ顔のペトラとオルオが歩み寄ってきた。
「……ふふ、エレンってば、あさき補佐官の前だと本当に分かりやすいですよね」
ペトラが微笑ましいものを見る目でクスクスと笑う。
「フン! カッコつけて補佐官の機嫌を取ろうなどと100年早い! この俺様のように常に冷静沈着で……ギャッ!(舌を噛む)」
「オルオ、だから喋りながら歩くなと言っているでしょう」
あさきは呆れつつも慣れた手つきでポケットからハンカチを取り出し、血を拭うオルオに差し出した。
「すみません、あさき補佐官……」
しゅんとするオルオを見て、ペトラがあさきに小声で耳打ちする。
「あさき補佐官、兵長はああ言ってますけど……昨日の夜、補佐官が徹夜で書類を書いていたのを見て、すごく心配されていたんですよ。だからエレンが騒いで補佐官の邪魔をしないように、わざわざ掃除にかこつけて連れ去ったんです」
「……リヴァイが?」
「ええ。『あいつはまた限界を超えて仕事をする気だ』って不機嫌そうにつぶやいていらっしゃいました。不器用ですけど、補佐官のことを一番気遣っているのは兵長ですから」
ペトラの言葉に、あさきは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
不愛想で言葉は足りないが、リヴァイはいつだってあさきの背中を支え、守ってくれている。
「ふふ、そうね。あとで美味しい紅茶を淹れてあげないと」
あさきが優しく目を細めたその時――。
「あーーーっ!! あさきみーっけ!!」
猛烈な足音とともに、眼鏡を光らせたハンジが曲がり角から飛び出してきた!
「ちょうどいいところに! ねえあさき、エレン知らない!? 今日のソニーとビーンの歯磨き実験、手伝わせようと思って探してるんだけど!」
「ハンジ分隊長……エレンなら今、リヴァイ兵長に連行されて廊下の掃除をさせられていますよ」
「何だって!? リヴァイのやつ、貴重な被験体を掃除ごときで独占するなんてズルいぞ! よし、奪い返しに行こう!」
ハンジは腕まくりをしながら嵐のように去っていき、あさきとペトラは顔を見合わせて思わず吹き出した。
緊迫した世界と、巨人の脅威。
だが、この古城に流れる賑やかで温かい日常の時間は、失うにはあまりにも愛おしい、調査兵団の確かな「灯火」であった。
(この日常を……みんなの笑顔を、絶対に守り抜く)
あさきはぎゅっと書類を抱え直し、エルヴィンの待つ執務室へと足を進めた。
その先で待ち受ける、苛烈な第57回壁外調査――女型の巨人との激突の時が、刻一刻と近づいていることも知らずに。
