捧げた心臓の在処
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プロローグ:悪魔の脳と、鉄の補佐官
壁内人類の存亡をかけた戦いが新たな局面を迎えようとしていた、三重の壁の深奥。
第104期訓練兵団の卒業と配属選択を間近に控えたその日、開拓地に併設された訓練場には、他兵団とは一線を画す異様な緊張感が漂っていた。
「……あれが、調査兵団の」
列をなす訓練兵たちの間から、息を呑むような囁き声が漏れる。
視線の先に立つのは、調査兵団団長エルヴィン・スミス。そしてその一段後ろ、寸分の狂いもない姿勢で控える一人の女性兵士――団長補佐、あさきであった。
仕立の良さを窺わせる深緑のマントを羽織り、背筋を真っ直ぐに伸ばした立ち姿は、まるで一輪の凛とした花のような気品を漂わせている。しかし、その瞳に宿る光はどこまでも冷徹で、隙がない。
憲兵団の上層部が「エルヴィン以上の壁」と恐れ、駐屯兵団のピクシス司令をして「美人の笑顔ほど怖いものはない」と言わしめる存在。没落と勘当を経てこの地獄へ行き着いた元貴族令嬢は、今や「調査兵団の冷徹な脳」として全兵団にその名を知られていた。
「相変わらずだな、あさき」
訓練兵たちを突き放すような指導を終えた教官、キース・シャーディスが歩み寄り、低い声で彼女に視線を向ける。
「エルヴィンの隣で、化け物じみた手腕を発揮していると聞いている。貴族どもの下らん嫌がらせを完璧な書類一枚で叩き潰しているそうだな」
「お褒めいただき光栄です、キース教官」
あさきは微かに唇の端を上げ、上品におじぎをした。
「ですが、私はただ、団長がその頭脳を作戦立案だけに集中できるよう、雑務を片付けているに過ぎません」
「……相変わらず、分不相応なほど優秀な羽を手に入れたものだ、エルヴィンめ」
キースはフンと鼻を鳴らすと、遠くでこちらを窺っている104期生たちへ視線を投げた。
エレン・イェーガー、ミカサ・アッカーマン、アルミン・アルレルト、ジャン・キルシュタイン……。
死地へと飛び込もうとする若者たちの姿を、あさきは静かな瞳で見つめる。
(この子たちを、ただの捨て駒にはさせない)
彼女が夜を徹して作り上げた「新兵用生存マニュアル」と、権限を極限まで行使して手配した最高品質の資材。それらはすべて、かつて初陣の地獄で恐怖に震え、エルヴィンに救われたあの日の自分のような者を、一人でも多く生き残らせるための「祈り」であった。
「おい、あさき」
背後から、低く掠れた声が掛けられる。
いつの間にか影から現れた「人類最強の兵士」、リヴァイが壁に背を預け、死んだ魚のような目でこちらを見ていた。
「ガキどもに見とれてねえで、さっさと行くぞ。エルヴィンが内地からの嫌がらせ書類を抱えて待ってる」
「分かっているわ、リヴァイ。……それと、今夜の報告書、期日通りに出してくださいね?」
「チッ……気やすい口を叩くな」
毒づきながらも、リヴァイがあさきの側を離れようとしないのは、彼女がエルヴィンの安全弁であり、兵団の命運を握る要であることを誰よりも理解しているからだ。
あさきは一度だけ深呼吸をし、胸元に手を当てた。
服越しに触れる硬い感触――かつてすべてを失い、雨の中でエルヴィンから差し出されたあの日から、自分の心臓は彼のために動いている。
(生き残りなさい、104期)
あさきは心の中で静かに呟くと、迷いのない足取りでエルヴィンとリヴァイの待つ馬車へと歩き出した。
時代が激動の渦へと飲み込まれていく、その直前の静けさの中で。
