捧げた心臓の在処
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第8話:白夜――崩れ落ちた鉄の仮面と、引き裂かれた愛
獣の巨人が解き放つ容赦ない投石によって、シガンシナ区の戦場は文字通りの地獄と化していた。
「兵士よ怒れ! 兵士よ叫べ! 兵士よ戦え!!」
狂気の咆哮を上げ、自ら先頭に立って死の突撃を敢行したエルヴィン。
その最期を、あさきは壁の上から、溢れ出る涙を拭うことすら忘れて見つめていた。
(エルヴィン……! 私の命も、魂も、すべてあなたと共にあるわ……!)
前夜、兵舎の執務室で重なり合った体温。
「私の生きた証を刻んでほしい」と乞い、本当の恋人のように互いを抱き締め合ったあの濃密で甘い夜。
彼の残した愛の感触が、今もあさきの全身に残っている。
だからこそ、あさきは絶望に屈しなかった。
エルヴィンが自らの命を囮にして作ってくれた一瞬の隙。リヴァイが獣の巨人を奇襲し、超大型巨人をアルミンの決死の作戦で撃破するまでの間、あさきは自ら刃を振るい、新兵たちの残した馬を守り抜き、後方支援を完遂したのだった。
そして――惨劇の後の静寂が訪れる。
「あさき補佐官……! 団長が……エルヴィン団長が生きているぞ!!」
フロックが、息も絶え絶えのエルヴィンを背負って街の屋根へと駆け登ってきた。
腹部を大きく抉られ、大量の血を流しながらも、かろうじてかすかな息を残しているエルヴィン。
「エルヴィン―――っ!?」
あさきは膝から崩れ落ちるように駆け寄ると、血に染まった彼の身体を抱きしめた。
「息をして……お願い、息をしてエルヴィン! 私を……私を一人にしないで……っ!」
その時、別の方角からリヴァイと半身を焼かれたアルミンを抱えたエレンたちが到着する。
手元にあるのは、巨人の力を継承させ、瀕死の人間を一人だけ蘇らせることができる「巨人化の注射器」一本のみ。
「アルミンに注射を打つんだ! アルミンを助けてくれ!」と泣き叫ぶエレンとミカサ。
「いいや、エルヴィンに打つ。人類の希望である彼を死なせるわけにはいかない」と主張するリヴァイ。
屋根の上で繰り広げられる、血を吐くような対立と狂気。
「あさきさん!!」
エレンがあさきに向かって、ボロボロの顔で叫んだ。
「あさきさんからも言ってくれ! エルヴィン団長は……団長はもう、十分すぎるほど戦ったんだ! これ以上、あの人を悪魔として地獄に縛り付けるつもりか!? アルミンなら……アルミンなら未来を変えられるんだ!!」
エレンの言葉が、鋭い刃となってあさきの胸を突き刺す。
「 アルミンを助けてくれ!!」と叫ぶエレンとミカサ。
いつもなら冷徹に状況を分析し、最適な判断を下すはずのあさき。
だが――今の彼女には、「指揮官の補佐官」としての仮面など、一欠片も残っていなかった。
「リヴァイ兵長……!!」
あさきは膝から崩れ落ち、血まみれの手でエルヴィンの冷たくなりゆく胸を抱きしめながら、顔を上げて泣き叫んだ。
「お願い……! 注射を、エルヴィンに……!! お願いだからエルヴィンを助けて……っ!!」
ボロボロと溢れ出る大粒の涙。鼻を赤くし、声を枯らし、子供のように泣きじゃくるあさき。
かつて貴族社会でも、激しい戦場でも、決して弱音を見せなかったあの凛としたあさきが、なりふり構わずリヴァイの足元へ擦り寄り、懇願していた。
「私はこの人を拾って帰ると約束したの! 一緒に壁の外を見るって……昨夜、約束したのよ……っ! 私から……私からこの人を奪わないで……っ!!」
「あさき……」
リヴァイの胸が激しく締め付けられる。
ケニーの喪失感で狂いそうな時の自分に「家族の端っこにいます」と言ってくれた大切な仲間であり、家族同然のあさき。彼女が人生のすべてを捧げた男の命を前にして、狂ったように泣き叫んでいる。
リヴァイの手が震えた。あさきのために、一度は本気でエルヴィンの腕に注射を突き刺そうと針を近づける。
「あさきさん……っ!」
その姿を見ていたエレンの胸に、激しい衝動と激痛が走る。
あさきが、自分たちではなく、エルヴィンという男ひとりのためにここまで己を崩して泣いている。あさきの涙に胸を掻き毟られながらも、エレンは泣きながら叫び返した。
「あさきさん、やめてくれ……! ごめんなさい、あさきさん……っ! でも、俺にはアルミンが必要なんだ! 壁の向こうの海を見るのは……俺とアルミンじゃなきゃダメなんだよ……っ!!」
「エレン……お願いよ……っ! エルヴィンを殺さないで……っ!!」
感情と感情がぶつかり合い、地獄のような狂気が渦巻く屋根の上。
その時だった。
あさきが必死に抱きしめていたエルヴィンの左手が、ビクッと動いた。
昏睡状態の中、エルヴィンは息を荒げると――自分の体を力任せに抱きしめていたあさきの手を、拒絶するように強く振り払ったのだ。
「……ッ!?」
あさきの動きが止まる。
エルヴィンは空を仰ぎ、子供のように無垢な声で、うわ言を呟いた。
『先生……。壁の外に……人がいないって……どうやって調べたんですか……?』
あさきの手を振り払ったその腕。
それは、あの日雨の中で自分を掬い上げてくれた温かい手であり、昨夜あさきを愛おしそうに抱きしめた手だった。
だが今、その手はあさきの温もりを拒み、夢に縛られた子供の姿へと戻っていた。
リヴァイは、すべてを理解した。
エルヴィンは今、死の淵でようやく「悪魔の団長」から解放されようとしている。あさきの手を振り払ったのは、彼女にこれ以上自分の死の呪縛を背負わせまいとする、エルヴィン無意識の優しさだった。
「……あさき。手を離せ」
「嫌……! 嫌ですリヴァイ兵長! 離しません……! エルヴィンを死なせないで……っ!!」
「もう……あいつを許してやってくれ!!」
リヴァイは叫ぶと、あさきの肩を強く引き剥がし、彼女の頭を己の胸の中へと強く抱きとめた。
「あいつはもう……十分すぎるほど戦った。これ以上、あいつを地獄へ引き戻すな……っ!」
「いやあああああぁぁぁっ!! エルヴィーーンッ!!」
リヴァイの胸の中で、あさきは喉がちぎれんばかりの悲鳴を上げた。
視界を遮られ、リヴァイの服を血と涙で濡らしながら、狂ったように叫び続けるあさき。
その悲痛な叫びが空に響き渡る中、リヴァイは静かに、アルミンの腕へと注射を打ち込んだ。
やがて、アルミンが巨人化し、ベルトルトを捕食して息を吹き返す。
戦いが完全に終わった静寂の中。
あさきは冷たくなったエルヴィンの遺体の傍らで、膝を折ったまま動かなくなっていた。
涙は枯れ果て、その瞳からは光が完全に消えていた。
前夜に交わした言葉、愛の感触、彼が遺した熱量。それらすべてが、いまや切ない幻影となってあさきの胸を締め付ける。
歩み寄ってきたエレンが、罪悪感に押し潰されそうな顔で膝をついた。
「……あさきさん。俺……俺のせいで……」
あさきはゆっくりと顔を上げた。
そこには、凛とした補佐官でも、泣き叫ぶ一人の女性でもなく――すべての感情を削ぎ落とされた、静かな顔があった。
「……いいのよ、エレン」
かすれた声で、あさきはエレンの頭にそっと手を置いた。
「あなたが……アルミンを選んだように。私は……エルヴィンを選びたかった……ただ、それだけのことよ……」
その静けさが、かえってエレンの胸に狂暴なまでの決意を芽生えさせる。
(俺のせいだ……。俺がアルミンを選んだせいで……あさきさんの心を殺してしまった……)
(俺が……海の向こうにいる敵を全部駆逐して……あさきさんの絶望を、全部俺が背負う……!!)
エルヴィンの死、そして「白夜」での残酷な別れ。
愛する人を失い、心を抜け殻にされたあさきと、彼女を絶望させた罪悪感から更なる暗闇へと堕ちていくエレン。
今はただ喪失のなか、枯れた涙の瞳を閉じるだけだった。
