ナイチンゲールの影にキス
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穏やかな静寂と、失われたもの
最終決戦が終わり、季節はめぐり、雄英高校の敷地にも静かな日常が戻っていた。
放課後の夕暮れ。誰もいなくなった保健室の窓辺で、フローラは沈みゆく夕日を静かに眺めていた。
彼女の手元には、もうプロヒーローとしての捕縛布も、目まぐるしい出動要請の端末もない。
「生体バッテリー」として個性を吸い尽くされた後遺症は重く、彼女の肉体はもう、現場の第一線で戦う過酷な負荷には耐えられなくなっていた。
プロヒーロー「Ms.フローレンス」は引退し、今の彼女は雄英の救護・補佐員として、後方から生徒たちを見守る立場に身を置いている。
「……寒くはないか」
不意に背後から低く落ち着いた声がかけられ、肩に温かな漆黒のコートがそっと掛けられた。
振り向くと、そこには片目に眼帯をつけ、義足を踏みしめて立つ相澤消太が立っていた。
「消太先生……。ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
フローラが穏やかに微笑む。
かつてのように命を擦り減らして無茶な治癒を振りかざすことはなくなったが、その表情にはどこか透き通るような静けさが宿っていた。
語られない絆と、二人だけの距離感
相澤はフローラの隣に並び、同じように沈む夕日を見つめた。
彼らの間に、甘い恋人のような言葉や、恋情を確かめ合うような過剰な触れ合いはない。
フローラは志村転弧という一人の悲しい男を、その命と魂のすべてを使って愛し抜き、彼の最期をその腕の中で抱きしめて看取った。
彼女の胸の奥には、今も転弧から受け取った最期のキスの温もりと、「君は、生きて」という愛の記憶が、消えることのない小さな灯火として灯り続けている。
彼女が誰かと新たに「恋愛」をすることはない。
そして、相澤消太もまた、それを誰よりも深く理解していた。
相澤は、彼女に自分の愛を強要することも、亡き転弧の存在を彼女の心から追い出そうとすることもしない。
彼女が背負った罪と覚悟、そして転弧を救い切った聖女としての傷跡——そのすべてをまるごと受け止め、ただ「生涯の理解者」として、彼女の隣に静かに立ち続けることを選んだのだ。
「……生徒たちは、みんな元気にトレーニングに励んでいますよ」
「……ああ。デクも爆豪も、相変わらず無茶ばかりしようとする。お前が後方で手綱を引いてくれて助かっている」
「ふふ、私の役割ですから」
二人の間で交わされるのは、どこまでも穏やかで、けれど互いの命を預け合ってきた者同士にしか分からない、深く確かな信頼の言葉だった。
愛を抱えて、未来へ
フローラはそっと自分の胸に手を当てた。
一人の男(志村転弧)の凄惨な人生を受け止め、彼を「ヴィラン」ではなく「愛された一人の人間」として見送ったあの日。
自分の身体には痛痛しい後遺症が残り、ヒーローとしての前線は退くことになった。
けれど、後悔は微塵もなかった。
(……見守っていてね、転弧くん。あなたが愛してくれたこの世界を……、生きて守り続けていくから)
彼女が胸に抱く「転弧への深い愛」と、目の前にいる「相澤消太との絶対的な信頼と歩み」。
そのどちらも偽りのない本物であり、彼女の生きる糧だった。
「……帰りましょうか、相澤先生」
「そうだな。……夜は冷える。メシでも食って帰るぞ」
相澤が差し出した義足側の腕に、フローラはそっと自分の手を添える。
恋人でもなく、ただの同僚でもない。お互いの傷をすべて知った上で、同じ未来を見据えて歩むパートナー。
夕闇が二人を包み込む中、フローラは胸の中の小さな温もりを感じながら、相澤と共に光の差す明日へとゆっくり歩みを進めていくのだった。
Ifルート B:『愛による毒抜き(転弧の解放と、遺された愛)』完結
