ナイチンゲールの影にキス
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鳥籠の微睡・仮初めの「望み」
膝の上の温もりと、優しき問い
アジトの静寂の中、かすかな息遣いだけが響いていた。
死柄木(転弧)は、フローラの膝に頭を乗せたまま、彼女の服の裾をぎゅっと握りしめて小さく身体を丸めていた。
首筋を掻きむしる不快感も、身体を蝕む破壊の激痛も、いまはない。
フローラの手が素肌に触れ、微弱な【治癒】の光を流し込み続けているおかげで、彼の世界は驚くほど穏やかで、静まり返っていた。
フローラは、膝の上の白髪にそっと手を添え、愛おしそうに撫で続けた。
拒絶も、恐怖もない。ただ目の前で苦しむ一人の「傷ついた男の子(転弧)」の痛みを和らげようとする、温かな手つき。
「……ねえ、転弧くん」
静寂を割って、フローラが穏やかに呼びかける。
死柄木が心地よさそうに目を細め、彼女の腹部にすり寄るように顔をうずめた。
「転弧くん……私を、どうしたい……?」
優しく、背中を宥めるようにさすりながら、彼女は問いかけた。
「私をここに縛り付けて……あなたは何がしたいの? 私に、どうしてほしい……?」
「転弧」の望みと、幼い執着
その問いに、死柄木の動きがふっと止まった。
どうしたい、か。
今まで誰も僕にそんなことを聞いてはくれなかった。
AFOは僕を「破壊の象徴」として利用し、ヒーローたちは僕を「討伐すべき敵」として追いたてた。
僕の「望み」なんて、世界を全部壊すこと以外、誰も耳を傾けてくれなかった。
死柄木はゆっくりと顔を上げ、四本の指でフローラの華奢な手首をそっと握りしめた。
その赤い瞳には、世界のすべてを憎む凶暴なヴィランの眼差しではなく、ただ「温もりを求める子供」のような、壊れた切なさが宿っていた。
「……どこにも……行かないでほしい……」
掠れた声が、漏れ出す。
「僕の痛みを……ずっと止めていて……。
僕の頭を撫でて……僕の名前を呼んで……。
相澤消太のところにも……ヒーローのところにも戻らないで……僕だけのものになって……っ」
彼が求めていたのは、過激な肉体の支配でも、世界を滅ぼすための兵器でもない。
ただ「自分を傷つけず、痛みを消して、隣にいてくれる存在」——あの日、雨の路地裏で手に入らなかった「自分だけの救い」そのものだった。
死柄木はフローラの手を自分の頬に寄せ、愛おしそうに擦り寄せた。
「君がここにいて……僕をこうして触ってくれるなら……僕は、痛くないんだ……。
お前が僕の痛みを消してくれるなら……僕の体も……心も、壊れなくて済むんだよ……っ」
仮初めの安息と、悲愴な抱擁
「……そう……」
フローラは涙を浮かべながら、小さく頷いた。
死柄木の望みは、あまりにも幼く、そして残酷なほど純粋だった。
自分という人間を一人の女性として求めているのではない。
誰も自分を助けてくれなかった暗闇の中で、ようやく見つけた「たったひとつの麻酔」として、彼女を繋ぎ止めたいのだ。
(ああ……この子は、ただ助けてほしかっただけなんだ……)
相澤先生への想いは、命を共に戦ってきた信頼と敬愛。
けれど、目の前でこうして自分に縋りつき、子供のように痛みを訴える死柄木を、今のフローラにはどうしても突き放すことができなかった。
「……いいわよ、転弧くん……」
フローラは身を乗り出し、死柄木のボロボロの肩を、そっと両腕で包み込んだ。
五本指の死の恐怖が隣り合わせにあることなど忘れたかのように、彼を強く、優しく抱きしめる。
「ここにいるわ……。あなたが痛くなくなるまで……ずっと、こうして撫でてあげる……」
「……あ……ああ……」
フローラの胸の中に顔をうずめ、死柄木は深く、深く息を吐き出した。
首を掻きむしる爪の音は消え、アジトの冷たい空間に、二人だけの温かな体温だけが満ちていく。
それは、世界の終わりに向かって堕ちていく前の、あまりにも切なく、儚い仮初めの平和だった。
