ナイチンゲールの影にキス
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拒絶のない鳥籠
アジトの薄暗い一室。
鉄格子も、重々しい鎖の拘束もない。フローラを繋ぎ止めているのは、彼女の身体を締め上げる死柄木弔の冷たい腕だけだった。
「……あぁ……あ……っ」
死柄木はフローラの膝に顔をうずめ、まるで冷え切った身体を温める幼子のように、彼女の胴体に必死にしがみついていた。
四本の指で彼女の背中を愛おしそうに撫で回し、親指を立てた『死の手』で逃がさないように抱きしめる。
首筋を掻きむしる彼の不快感と激痛は、フローラが素手で触れ、【治癒】の微弱な光を流し込み続けているおかげで奇跡的に治まっていた。
彼女は、逃げようとしない。
壁を破って助けに来てくれるかもしれない相澤消太やヒーローたちの顔が胸をよぎるが、彼女はもう、自らこの部屋を脱出する意思を捨てていた。
(私が逃げ出せば……この人はまた世界を壊す。相澤先生や、生徒たちを殺しに行く……)
自分がここに留まり、この人の痛みを止め続けること。それが、プロヒーローとして、そして一人の人間として彼女が出した「最悪で、最後の責任」だった。
本当の名前
死柄木の荒い息遣いが、ゆっくりと穏やかな睡眠のそれに変わっていく。
フローラは小さく息を吐くと、五本指の恐怖に身を竦めることもなく、そっと腕を伸ばした。
彼女の手が、死柄木のパサついた白髪に触れる。
優しく、何度も、母親が子供の髪を撫でつけるように頭を撫でてやる。
「……ん……っ」
死柄木が心地よさそうに身を擦り寄せ、彼女の腹部に顔をうずめ直した。
その幼い反応に、フローラの胸はぎゅっと締め付けられる。
世界を滅ぼそうとする恐ろしいヴィランの首魁。けれど、こうして痛みを消してやり、髪を撫でてやれば、彼はただの「救われなかったかわいそうな男の子」でしかなかった。
「……ねえ、死柄木くん」
膝の上で眠りかける彼に向かって、フローラは静かに、柔らかな声で問いかけた。
「死柄木くん……あなたの、本当の名前はなんていうの?」
「志村転弧」の揺らぎと狂気の固着
その問いに、死柄木の身体が小さく跳ねた。
『死柄木弔』というオール・フォー・ワンから与えられた壊れた名前の奥底。
脳裏に一瞬だけ浮かび上がったのは、雨の日に誰の手も差し伸べられず、血を吐きながら泣いていた、小さかった頃の自分——『志村転弧』の記憶。
「……てん……こ……」
掠れた声で、彼自身すら忘れていたはずの幼名が漏れ出す。
「……転弧……志村、転弧……」
フローラは愛おしそうに目を細め、さらに優しく彼の頭を撫で続けた。
「……そう。転弧くん、っていうのね……。素敵な名前……」
その温かい言葉と手のひらに、死柄木(転弧)の心に温かな涙が伝うような感覚が走る。
誰も呼んでくれなかった名前。誰も受け入れてくれなかった自分。
彼女は僕の痛みを消し、俺の本当の名前を、僕という存在そのものを包み込んでくれている。
「……あは……転弧……っ。そうだよ、僕の名前……」
だが、その安らぎは「改心」には繋がらない。
フローラから与えられた温もりが大きければ大きいほど、彼の中で「この温もりをくれた世界、フローラ以外、やっぱり全部要らない」という狂気が完成していく。
死柄木は彼女の腰をさらに強く抱きしめ、顔を上げてフローラの首筋へ、顎へ、何度も熱いキスを落とした。
「……ねえ、フローラ……転弧って呼んでよ。僕だけの……僕だけの救い主……!
お前を苦しめたヒーローも、相澤消太も、全部僕が殺してあげるからさあ……っ!!」
救えなさの悲痛と、静かな覚悟
「……っ」
首筋に触れる彼の唇の温もりと、彼から発せられる絶望的な殺意。
フローラは涙を零しながら、彼を突き放すことなく、ただ静かに死柄木(転弧)の背中を抱き返した。
(ああ……やっぱり、私はこの人を『救う』ことはできないんだ……)
名前を呼び、寄り添うことはできても、彼の世界への憎しみや狂気そのものを消し去ることはできない。
自分の温もりが、かえって彼の破壊衝動を加速させてしまっているという絶望。
それでも——彼女は手を放さない。
「……ええ、転弧くん……」
彼女は泣きながら、彼の髪を撫で続ける。
相澤先生、ごめんなさい。
私はもう、光の差す場所へは戻れません。
この悲しい男の子の「麻酔」として、彼の狂気が世界を飲み干し、自分自身をも崩壊させるその最後の瞬間まで、私はこの鳥籠の中で彼の手を握り続けます。
拒絶のない鳥籠
アジトの薄暗い一室。
鉄格子も、重々しい鎖の拘束もない。フローラを繋ぎ止めているのは、彼女の身体を締め上げる死柄木弔の冷たい腕だけだった。
「……あぁ……あ……っ」
死柄木はフローラの膝に顔をうずめ、まるで冷え切った身体を温める幼子のように、彼女の胴体に必死にしがみついていた。
四本の指で彼女の背中を愛おしそうに撫で回し、親指を立てた『死の手』で逃がさないように抱きしめる。
首筋を掻きむしる彼の不快感と激痛は、フローラが素手で触れ、【治癒】の微弱な光を流し込み続けているおかげで奇跡的に治まっていた。
彼女は、逃げようとしない。
壁を破って助けに来てくれるかもしれない相澤消太やヒーローたちの顔が胸をよぎるが、彼女はもう、自らこの部屋を脱出する意思を捨てていた。
(私が逃げ出せば……この人はまた世界を壊す。相澤先生や、生徒たちを殺しに行く……)
自分がここに留まり、この人の痛みを止め続けること。それが、プロヒーローとして、そして一人の人間として彼女が出した「最悪で、最後の責任」だった。
本当の名前
死柄木の荒い息遣いが、ゆっくりと穏やかな睡眠のそれに変わっていく。
フローラは小さく息を吐くと、五本指の恐怖に身を竦めることもなく、そっと腕を伸ばした。
彼女の手が、死柄木のパサついた白髪に触れる。
優しく、何度も、母親が子供の髪を撫でつけるように頭を撫でてやる。
「……ん……っ」
死柄木が心地よさそうに身を擦り寄せ、彼女の腹部に顔をうずめ直した。
その幼い反応に、フローラの胸はぎゅっと締め付けられる。
世界を滅ぼそうとする恐ろしいヴィランの首魁。けれど、こうして痛みを消してやり、髪を撫でてやれば、彼はただの「救われなかったかわいそうな男の子」でしかなかった。
「……ねえ、死柄木くん」
膝の上で眠りかける彼に向かって、フローラは静かに、柔らかな声で問いかけた。
「死柄木くん……あなたの、本当の名前はなんていうの?」
「志村転弧」の揺らぎと狂気の固着
その問いに、死柄木の身体が小さく跳ねた。
『死柄木弔』というオール・フォー・ワンから与えられた壊れた名前の奥底。
脳裏に一瞬だけ浮かび上がったのは、雨の日に誰の手も差し伸べられず、血を吐きながら泣いていた、小さかった頃の自分——『志村転弧』の記憶。
「……てん……こ……」
掠れた声で、彼自身すら忘れていたはずの幼名が漏れ出す。
「……転弧……志村、転弧……」
フローラは愛おしそうに目を細め、さらに優しく彼の頭を撫で続けた。
「……そう。転弧くん、っていうのね……。素敵な名前……」
その温かい言葉と手のひらに、死柄木(転弧)の心に温かな涙が伝うような感覚が走る。
誰も呼んでくれなかった名前。誰も受け入れてくれなかった自分。
彼女は僕の痛みを消し、俺の本当の名前を、僕という存在そのものを包み込んでくれている。
「……あは……転弧……っ。そうだよ、僕の名前……」
だが、その安らぎは「改心」には繋がらない。
フローラから与えられた温もりが大きければ大きいほど、彼の中で「この温もりをくれた世界、フローラ以外、やっぱり全部要らない」という狂気が完成していく。
死柄木は彼女の腰をさらに強く抱きしめ、顔を上げてフローラの首筋へ、顎へ、何度も熱いキスを落とした。
「……ねえ、フローラ……転弧って呼んでよ。僕だけの……僕だけの救い主……!
お前を苦しめたヒーローも、相澤消太も、全部僕が殺してあげるからさあ……っ!!」
救えなさの悲痛と、静かな覚悟
「……っ」
首筋に触れる彼の唇の温もりと、彼から発せられる絶望的な殺意。
フローラは涙を零しながら、彼を突き放すことなく、ただ静かに死柄木(転弧)の背中を抱き返した。
(ああ……やっぱり、私はこの人を『救う』ことはできないんだ……)
名前を呼び、寄り添うことはできても、彼の世界への憎しみや狂気そのものを消し去ることはできない。
自分の温もりが、かえって彼の破壊衝動を加速させてしまっているという絶望。
それでも——彼女は手を放さない。
「……ええ、転弧くん……」
彼女は泣きながら、彼の髪を撫で続ける。
相澤先生、ごめんなさい。
私はもう、光の差す場所へは戻れません。
この悲しい男の子の「麻酔」として、彼の狂気が世界を飲み干し、自分自身をも崩壊させるその最後の瞬間まで、私はこの鳥籠の中で彼の手を握り続けます。
