ナイチンゲールの杞憂
名前
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雄英高校の副担任として着任する、少し前のこと。
冷たい雨が街を濡らす夕刻、彼女は買い出しの帰りにふと足をとめた。
薄暗い裏路地の奥、捨てられた資材の陰に、一人の青年がうずくまっている。
フードを目深にかぶった体は激しく震えており、首元や手首からは血が滲んでいた。爪で掻きむしったかのような酷い傷跡と、激しい乾燥による皮膚の亀裂。
「……大丈夫ですか?」
彼女は傘を差し伸べながら、路地裏へ足を踏み入れた。
「……近寄るな……ッ。消えろ……!」
青年——志村転弧(死柄木弔)は、濁った赤い瞳で彼女を強く睨みつけた。
その声には、世の中のすべてを拒絶するような強い警戒と、どうしようもない苦痛が混ざり合っている。
彼女は青年の前に静かに膝をついた。
相手が誰なのか、どうしてそんな傷を負っているのかは分からない。ただ、彼の血だらけの手が助けを求めるように震えていることだけが分かった。
「そんなに深く掻きむしったら、痛いでしょう。……少しだけ、触らせてくださいね」
「やめろって……痛ッ……!」
青年の制止を聞かず、彼女は温かい素手で、彼の傷ついた手をそっと包み込んだ。
彼女の手のひらから、淡く温かな光が解き放たれる。
自身の体力を少しだけ分け与える彼女の能力。青年の体を苛んでいた激しい皮膚の引きつりと、焼きつくような激痛が、嘘のようにスーッと引いていく。
「……え……?」
青年は息を呑み、呆然と自分の手を見つめた。
今までずっと自分を苦しめていた身体の激痛と、絶え間ない不快感。それが、触れられている場所から解けていく。
「……痛みは引きましたか?」
彼女は少年の顔を覗き込み、心底ホッとしたように柔らかく微笑んだ。
「……なんで……」
青年はぽつりと呟いた。かすれた声が雨音に消えそうになる。
「……なんで……見知らぬ俺を……治すんだよ。気味悪いだろ……こんな傷……」
彼女は少し困ったように首をかしげ、優しく首を振った。
「ううん。理由なんてないわ。目の前で痛がっている人がいたら、手を伸ばす。それだけで十分でしょう?」
フローラは「自分がヒーローであること」をひけらかすわけでもなく、ただ「目の前で傷ついている人」を放っておけない一人の人間として、ごく自然に、心からの優しさで手当てをした。
見返りも警戒心もなく、まるで子供をあやすような温かい手つき。
青年の胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れた。
これまでオールマイトに象徴される「表面上の正義」や「都合の良い社会」に絶望し、誰からも差し伸べられなかった手を憎んでいる死柄木にとって、その純粋な優しさは生まれて初めての経験だった。
名前も知らない。自分の持つ『崩壊』の恐ろしさも知らない。
ただの通りすがりの女性がくれた、見返りを求めない純粋な温もり。
「はい、これ。風邪をひいてしまいますから、使ってくださいね」
彼女は自分の持っていた傘を青年に握らせると、「気をつけて帰るのよ」と声をかけ、濡れるのも気にせず雨の街へ走り去っていった。
残された青年は、痛みの消えた自分の手を、そして去っていく彼女の背中を、雨の中でいつまでも見つめ続けていた。
(……痛くない……。あいつの手……すごく、温かかった……)
名前も知らない。誰かも分からない。
首を掻きむしりながら、フローラに撫でられた場所や痛みを消してくれた感覚を何度も思い出しその手に残った柔らかな温もりと、優しく微笑む彼女の瞳だけを、焼き付けるように記憶に刻み、残された死柄木は、痛みの消えた自分の手や体を呆然と見つめながら、理由のわからない動悸と胸の不快感に包まれていた——
雄英高校の副担任として着任する、少し前のこと。
冷たい雨が街を濡らす夕刻、彼女は買い出しの帰りにふと足をとめた。
薄暗い裏路地の奥、捨てられた資材の陰に、一人の青年がうずくまっている。
フードを目深にかぶった体は激しく震えており、首元や手首からは血が滲んでいた。爪で掻きむしったかのような酷い傷跡と、激しい乾燥による皮膚の亀裂。
「……大丈夫ですか?」
彼女は傘を差し伸べながら、路地裏へ足を踏み入れた。
「……近寄るな……ッ。消えろ……!」
青年——志村転弧(死柄木弔)は、濁った赤い瞳で彼女を強く睨みつけた。
その声には、世の中のすべてを拒絶するような強い警戒と、どうしようもない苦痛が混ざり合っている。
彼女は青年の前に静かに膝をついた。
相手が誰なのか、どうしてそんな傷を負っているのかは分からない。ただ、彼の血だらけの手が助けを求めるように震えていることだけが分かった。
「そんなに深く掻きむしったら、痛いでしょう。……少しだけ、触らせてくださいね」
「やめろって……痛ッ……!」
青年の制止を聞かず、彼女は温かい素手で、彼の傷ついた手をそっと包み込んだ。
彼女の手のひらから、淡く温かな光が解き放たれる。
自身の体力を少しだけ分け与える彼女の能力。青年の体を苛んでいた激しい皮膚の引きつりと、焼きつくような激痛が、嘘のようにスーッと引いていく。
「……え……?」
青年は息を呑み、呆然と自分の手を見つめた。
今までずっと自分を苦しめていた身体の激痛と、絶え間ない不快感。それが、触れられている場所から解けていく。
「……痛みは引きましたか?」
彼女は少年の顔を覗き込み、心底ホッとしたように柔らかく微笑んだ。
「……なんで……」
青年はぽつりと呟いた。かすれた声が雨音に消えそうになる。
「……なんで……見知らぬ俺を……治すんだよ。気味悪いだろ……こんな傷……」
彼女は少し困ったように首をかしげ、優しく首を振った。
「ううん。理由なんてないわ。目の前で痛がっている人がいたら、手を伸ばす。それだけで十分でしょう?」
フローラは「自分がヒーローであること」をひけらかすわけでもなく、ただ「目の前で傷ついている人」を放っておけない一人の人間として、ごく自然に、心からの優しさで手当てをした。
見返りも警戒心もなく、まるで子供をあやすような温かい手つき。
青年の胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れた。
これまでオールマイトに象徴される「表面上の正義」や「都合の良い社会」に絶望し、誰からも差し伸べられなかった手を憎んでいる死柄木にとって、その純粋な優しさは生まれて初めての経験だった。
名前も知らない。自分の持つ『崩壊』の恐ろしさも知らない。
ただの通りすがりの女性がくれた、見返りを求めない純粋な温もり。
「はい、これ。風邪をひいてしまいますから、使ってくださいね」
彼女は自分の持っていた傘を青年に握らせると、「気をつけて帰るのよ」と声をかけ、濡れるのも気にせず雨の街へ走り去っていった。
残された青年は、痛みの消えた自分の手を、そして去っていく彼女の背中を、雨の中でいつまでも見つめ続けていた。
(……痛くない……。あいつの手……すごく、温かかった……)
名前も知らない。誰かも分からない。
首を掻きむしりながら、フローラに撫でられた場所や痛みを消してくれた感覚を何度も思い出しその手に残った柔らかな温もりと、優しく微笑む彼女の瞳だけを、焼き付けるように記憶に刻み、残された死柄木は、痛みの消えた自分の手や体を呆然と見つめながら、理由のわからない動悸と胸の不快感に包まれていた——
