無題
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たとえばこれが何かの偶然だとして。偶然の発生する余地に神の意志なんかがあるとしたら、なんて意地悪なんだろうと俺は神を憎むだろう。
目の前に立つこの一度だけ脱色しましたとでも言うような髪色をした男は、不機嫌そうに眉を寄せたまま、保健室の椅子を占領している俺を見下ろしていた。
「何やってんだ」
成長期途中の特有の声が、やはり機嫌悪そうに俺の鼓膜を打って、脳を揺らしている。
なにをしているのか。見ればわかるだろう、と反論する気は起きなくて、ただ茫然と腕から血液が流れ落ちていくのを感じていた。あの黒崎一護に目はつけられたくない、と、思っていたのに。ああ、なんでこんな。
クソの役にも立たない神よ。なぜ俺にこんな仕打ちばかりするのですか。
被害者面したところで事態は変わるはずもなく。黙りこくったままの俺を、彼はただ不機嫌そうに見つめていた。
腕を傷つけることはもうすっかり日課になっていて、自分にとっては、半ば今日を生きる儀式のようになっていた。剃刀で深く傷付けられた腕は、その口を閉じることなく、だらしなく、ぐっぱりと肉を露わにしている。
毎度懲りずに学校へ登校するまえに行うこの儀式の後始末はおざなりで、いつも包帯には血が滲んでいた。自分の手当てをすることが面倒というよりかは"手当ての方法を知らない"俺は、ただ毎日適当にガーゼを当て、包帯を巻くという適当な所業を繰り返す。
ほんとうのところ、自らで負った傷に自らで手当てをするなどと考えると甚だおもしろすぎてしまって、まじめにすることも思いつかない、という理由も一枚噛んではいた。
その日はいつもより少し深く切ってしまって、休み時間に包帯の様子を見てみれば、あわれ包帯は血液にぐずぐずに侵されていて、制服の袖に侵食しそうになっていた。
人にバレたら、と思った俺は半ばパニックになり、誰かに言い残すこともなく早駆けで保健室へ走って向かった。
保健室には人っ子一人いないで居てくれればよかったものの、ベッドには黒崎一護が寝転がっていて、そういえば1時間目だかに運ばれていたななんて思いながら救急箱を開けたのだ。彼のことだからきっとずっと寝てサボりでもしているだろうと思ったから。そう、だから。だからここで、無防備にも、無神経にも手当を行おうと思っていたのに。
「何やってんだ」
そして、冒頭に戻る。ぽた、と腕を伝っていた血液が床に垂れ落ちたのを皮切りにして、黒崎一護はそっと俺に手をのばす。
殴られる、と思って、ぎゅっと目を瞑ったのも束の間、いつのまにか傷だらけの腕を掴まれていた。思っていたよりもずっと優しく、ずっと柔らかに。
「手当てしてんじゃねぇのか」
血、垂れてるぞ。と呟くと、彼は俺の腕にガーゼを当てて、ぎゅっと握りしめる。痛い、と思ったけど、言わなかった。自分で刻んだ傷を痛いと言う資格はなくて、黒崎一護が何をしているのか、あまりにも自分の脳が理解をしてくれなかったからだった。
唇を引き結んで、彼の視線をたどる。あいも変わらず不機嫌そうに眉が寄ったままではあったけれど、その視線は静かに俺の腕へと落とされていた。好奇の目でないことはひと目で、わかる。
「止血もできてねぇじゃんか」
「わかんなくて。やりかた」
初めての会話。絞り出した声は、小さく震えていた。情けない、と内心で自嘲する。顔には出さない。
「保健の授業ちゃんと受けてたか?」
「お、まえは。受けてたのかよ」
「そら当たり前だろ」
意外な返答だった。てっきり授業など出ていないかと思って───記憶をたどる。そういえば、あの日もこの日も黒崎一護は登校していて、授業に出ていたような気がする。そういえば彼は、その外見に見合わず成績が良かった気がする。そういえば彼は、クラスの誰もに慕われて居たような気がする。そういえば、彼は───。
「ほら、できたぞ」
意識を飛ばしていると、黒崎一護の明るい声が部屋に響いた。ハッと腕を見下ろしてみれば、綺麗に包帯が巻きなおされていて、血のにじみも乱れもない。そうだ、そういえば彼の家は病院だったと誰かが言っていたっけ。
ありがとう、と小さな声で返せば、別にいいとぶっきらぼうな返事がなされて、それから──沈黙。彼は退室するでもなく、ただずっと俺を眺めていた。
「……。なに?」
「いや。……なんでも」
ほんとうは、訊きたかったのだろう。この傷がなんなのか、どうして存在するのか。俺とて不可思議な切り傷を負っている人間を見たらどうして、と訊きたくなる。だから、おかしいとは思わない。
けれど、彼は俺へ質問する術を持たないみたいだった。無遠慮にどうしたんだと訊けばよかったのにそれをしなかった。彼が、思慮深くて、やさしいひとだと察するのにはそれで充分で、それに応えられない俺がどれだけ酷い人間か思い知るのにも、充分だった。
言葉を失って数秒。運良く予鈴が鳴って、俺は薄い笑みを貼り付ける。
「ありがとう、黒崎。手当て、助かった。だれにも言わないでね」
「おう。……ああ、なあ、名前聞いてもいいか」
「え?ああ、」
クラスメイトの名前も覚えていなかったか、と笑って、口を開く。本当はあまり呼ばれたくなくて、黒崎一護には興味すら持たれたくなかったのだけれど。
「みょうじなまえだよ」
彼に触れられて、少しだけ。こころのどこかが融けた気がした。