このあと、美味しくいただきました

城下町から戻った茶々は裏門をくぐり、井戸端で手を濯ぎ、水を一杯飲んだ。
廊下で拭き掃除をする女中を呼び止め、湯を沸かしておくよう言い渡す。

久々に市に足を運んでくる旨、夫に文書で伝えておいたが、返書がないということは、未だ書類と睨み合っているか、または居眠りをしているか。
長々と伸びる濡れ縁に沿って進んでゆくと、広く区切られた庭の前栽の陰に、夫の姿があった。正確には、宙に向かって突き出された両足が、上下に動いているのが見えた。


「ただいま、左近」


逆立ちの体勢で腕を屈伸させている夫に、歩み寄る。首の後ろから肩、肘にかけての筋肉が、腕の伸び縮みに従って、まるで一つ一つが呼吸をしているように、躍動を繰り返している。


「おっかえりなさいよっ、と」


左近の体がふっと縮むと、地面からしなるようにして広い背中が立ち上がり、汗ばんだ顔が、茶々を見下ろした。


「なんか面白いもん、あった?」


左近は差し出された手拭いを足元の桶で濡らして、赤らんだ首筋を撫でる。


「え、返書した?」


茶々はすまほを開くが、左近からは何も届いていない。
連絡に気がつけば、必ず折り返す夫にしては珍しい。
左近は訝しんで、送信の欄を開く。

「あ、悪りぃ。送信失敗してたわ。で、なんかいいもん買えた?」

「ううん、ちょっと物見遊山してきただけだから。喉渇いたでしょ。お茶淹れるね」

「はいよ」


茶々は先に厨で、茶の用意を始めた。竈の鉄瓶に炒った茶葉を入れて煮出して、飲み頃を見計らって湯呑みに注ぎ、もう一つの器に移し替える。
それをまた、湯呑みに戻す。ほどよく温くなったところに、着替えを済ませた左近がやって来る。優しく湯気の立つ湯呑みを受け取るや、大きく喉を鳴らして飲み下し、くーっと声をあげる。

「そんなに美味しい?」

「そりゃもう、甘露、甘露」


もう一杯と差し出された湯呑みに、茶々は鉄瓶を傾ける。
左近はまだ熱い茶に息を吹きかけて冷ましながら、すまほを開いて業務連絡に目を通す。
左近は領内の収税に伴う金銭、穀物の出納関係の責任者だ。
主は豊臣一役儀に厳しいことで有名な石田三成で、折しも三日前から大坂より帰国していた。居城はすぐ後ろの山の上だ。

左近曰く、三成様がいると思うと、緊張感ハンパねぇ。
予告もなしに主が帰城したと知るなり、表の書斎に籠り、積み上げられた帳簿に不備がないかを、阿呆のように調べ始めた。別に遊び呆けてた訳ではないが、出し抜けに提出を命じられた時、一つでも手落ちが発覚すれば、恐ろしいことが起こるらしい。それによって度々痛い目を見ている左近は、体を動かせないと死ぬなどと言いつつ、真面目に役目をこなしている。

茶々としては、良い役目を授かったと思っている。何しろ米と銭は、生まれの貴賎に関わらず大切な物なのだ。
領民の暮らしを知ることは、軍事、政治に携わる者の基本だ。
領国経営について深く考えることが、左近の戦働きを支える太い柱になれば、何よりだ。


「あー、終わった、終わった」


左近はすまほを懐に仕舞い、目頭を抑えて唸る。


「お疲れ様」

「いや、まじで疲れた」


框から腰を上げた左近は、溜め息をつきながら、両の手で側頭部の髪を撫でつける。
茶々は、小麦粉に加える水を計り間違えそうになり、耳がほんのり赤くなった。
本人はただの癖でしているだけなのだが、茶々の目には、妙に艶っぽい瞬間に映るのだ。
左近の持つ精悍と軽妙が一体となって、ふとした仕草が男振りの良さを光らせる。
これを言うと、調子に乗るのが目に見えているので、茶々はときめきを無言のうちに留めておくことにしている。

「なーに作ってんの」

「肉饅頭」

「お、いいねぇ。で、今は何してんの」

「皮作ってるの」


見ればわかるでしょと、声のほうに首を巡らせれば、にんまりと細められる両目が、すまほ越しに茶々に向けられている。


「えー、嫁はただ今、肉饅頭を作ってくれてまーす。俺の、大好物でーす」


続けるよう促され、茶々は口唇を尖らせてすまほを睨みつける。左近は全く怯まない。


「もう、それ止めてって言ってるでしょ」

「へへー、怒った顔も可愛いね」


言われて、むきになって怒っても夫を喜ばせるだけだと思い直し、憮然としたまま、生地のまとまり具合に集中することにした。
左近は茶々が機嫌を損ねてもどこ吹く風で、調理中の姿の記録を楽しんでいる。構いたがりのこの男は手持ち無沙汰になると、家事をしている茶々のもとにふらりとやってきて、気ままにちょっかいを出してくるのだ。

左近は甘い物があまり得意ではないので、八つ時の軽食は塩気のある物を出すことにしている。
最近好評だったのは、にんにくを漬けておいた醤油を塗って、表面を香ばしく焼いたおむすびと、根菜や芋を葉のように薄く切って油でからりと揚げ、塩を振った菓子だ。

作って出す度に、野山から帰って来た子供と同じに、うまいうまいと夢中になって食べる。
それを見てしまうと、八つ時に何も出さないのは気が引けるし、さりとて動画にされてしまうのは恥ずかしいしで、茶々は今だに進退を決めかねていた。


「はい次はー、葱です葱。葱ってなんか、三成様に似てね?じゃ、肉は俺?俺のいない石田軍はつまり、肉の入ってない、肉饅頭、的な?」


くだらない洒落に興じて一人盛り上がる左近を横目に、野菜を切り始める。葱、椎茸、灰汁抜きをした筍を細かく刻む。野菜がざくりざくりと軽快に鳴り、あっという間にみじん切りの小山に変わる。茶々は思い立って、棚の奥の小さな壺を手に取った。


「蕗のとうとか、好きだっけ?」


左近は画面から目を上げ、思案顏になる。


「蕗のとうねぇ。味噌和えしか食ったことねぇけど、まぁ嫌いじゃねぇかな」

「具に混ぜてみてもいい?」

「おー、マジうまそ。やべぇ、今すっげぇ腹鳴ったんだけど。ちょ、耳当ててみ?」


塩漬けの蕗の丸い蕾を洗いながら、茶々ははいはいとだけ返事をした。
蕗のとうを刻み、次は細かく叩いた豚肉を練る。具材を二等分し、蕗が入っているのといないのと、両方作ることにした。
豚肉に塩を混ぜ、手早く捏ねる。単調な作業に没入していると、ついつい呼吸が浅くなる。一旦手を休めて深く息をつくと、不意に耳元を、暖かいものが掠めた。
反射的に振り向くと、左近の顔が肩の上に乗っている。

「ちょ、ちょっと、近い」


長い両腕が、茶々の腰にゆるく巻きつく。身じろぐと、左近は聞こえませんといった態で、余計にもたれかかってくる。動画を撮るのはもう済んでしまったのか、今度はべたべたとくっつきたくなったらしい。
いつもこれだ。茶々が油断した一拍の間をついて、まるで木戸の隙間から、するりと入り込む猫の無遠慮さで、体を寄せてくる。目くじらを立てて怒るほど嫌、という訳でもない。

ただ、誰かに見られた時の気まずさを思うと、どうにも冷静でいられなくなる。羞恥心に訴えるような構いかたが好きだというのだから、質が悪い。


「作ってあげないからね」


柳眉を逆立てて睨んでも左近はどこ吹く風で、日当たりのよい寝床を見つけた獣のように、目を眇めている。
面倒な仕事を終わらせた開放感に、酔い痴れているのだ。あまり邪険にするのは可哀相だし、自分だけ口喧しくなるのは外聞が悪いし、喧嘩になるのも面白くないので、ただ迷惑そうに装っておくだけにして、茶々は渋々折れた。

練った肉と野菜を合わせ、醤油と砂糖で味つけをし、万遍なく混ぜて肉餡が出来上がった。寝かせておいた皮から六つ分切り取り、掌で転がして丸め、綿棒で伸ばした。滑らかな生地の上に肉餡をたっぷりと乗せ、襞を寄せるようにして、端を合わせて閉じた。
茶々は二つ食べられれば充分なので、あとの四つは左近の分だ。
女中達に一つずつ分けられる分を残して、先に蒸すことにした。


「花見しながら食わねぇ?」

横を向くと、互いの鼻先がぶつかりそうになる。


「庭でってこと?」

「それ外じゃねぇし。花見っつったら山とか川っしょ」


行こう行こうと、左近は恥ずかしげもなく駄々っ子の口真似をする。やっと自由になれた清々しさを満喫したくて、居ても立っても居られないようだ。茶々は小さく溜息をつく。


「四半刻くらいだったらいいよ」


途端に左近は破顔し、いいことを思いつきましたと言いたげに、にやりと笑う口元から、歯を覗かせる。

「じゃあさ、この前買ったあれ、着てくんね?」


茶々は渋面を作る。


「あれは似合わないよ。それに、汚したりしたら嫌だし」


素っ気なく身を捩って腕の中から抜け出し、竈の焚き口に薪をくべ、火打ち石を鳴らす。
左近は茶々のすぐ後ろに屈み、両手をこすり合わせて拝む格好をする。


「つれないこと言うなって。茶々のためにあちこち探して買って来たんだぜ」

「……だって、私にはちょっと可愛いすぎるっていうか」

「んなことねぇよ。いい感じだったじゃん」

「また今度着るから、いいでしょ」

「今度っていつよ?この流れだと今日しかねぇっしょ」

「今日は恥ずかしいから嫌」

「俺だって嫁さんに冴えねぇ格好をさせてる甲斐性なしだとか思われんの、嫌なんだけど」

「何、それ」

「なー、いーじゃん。たまには俺を喜ばせてくれたってさ」


たまには。いつも左近の心に叶うようにと、身の回りの細かな所にも、出来る限り気をくばっているつもりなのに、今のままでは喜ぶに及ばないという意味なのか。
思うに至り、悔しくなった。


「もう、駄目って言ったら駄目」


女中達に肉饅頭を出し、早めに帰ると言いつけて、屋敷を出た。

饅頭を入れた蒸籠を風呂敷で何重にも包み、左近が胸に抱える。空いた手で茶々の手を握り、鼻歌交じりに歩き出す。
茶々は如何にも尻の据わりが悪そうに、しずしずと歩く。
慎ましい木綿の小袖から打って変って、華やかな意匠の物に身を包んでいる。
小袖は上品な鴇色で、白や朱や葡萄色で爛漫の梅の枝が縫い取られてあり、その上から、金糸で唐花文様を織り込んだ帯を締めれば、まさに花も恥らう絵姿だ。


「ばっちり決まってんじゃんよ」


振り返る左近のしたり顔に、茶々は恨めしそうに口をへの字に曲げる。
左近は博打で小金が手に入ると、土産に茶々の小袖や簪を買ってくる。装りのとおり、左近は少しばかり着る物に五月蝿い。選ぶ物はどれも垢抜けていて、趣味が良い。しかし、着物は見苦しくなければそれで充分、程度のこだわりしか持たない茶々には、華美すぎて気後れしてしまう。宝の持ち腐れになるくらいなら、刀剣や馬を買ったほうがよいのではと訴えたところ、あれ買ってやりゃあよかったー、とか後悔しながら死ぬのなんざ、真っ平なんで。
死ぬと言われて、返す言葉が浮かばないまま、茶々の長持ちは宝箱のようになった。
が、そもそも死にたくないと思うのならば、やはり身を守るための武具と、足となる馬に散財したほうが、はるかに有益ではなかろうか。


「お、休憩してんの?俺達これから花見に行くとこ」


左近は、畦道に座って茶を飲んでいる百姓の夫婦に、左近は気安く話かける。
恭しく頭を下げられ、茶々も会釈をする。


「うちの嫁さんね。茶々っての」


繋いでいた手が離れ、肩を抱かれて茶々は慌てる。

「ちょっと、人前で」

「夫婦仲のお手本見せんのも、上に立つ奴の務めっしょ」


畑を耕す百姓達が笑い、犬が吠えた。
顔が熱くなると頭の中も散らかってしまい、今日も茶々は意見する機会を逃してしまった。

城に向かって畦道を歩いて行くと、道の終わりに桜の大木が横たわっている。深々と張った根元から地を這う形で幹が伸び、そこから天を目指して枝々が花をつけている。丁度縁側ほどの高さの太い幹に腰を下ろすと、小さな薬玉が連なる淡い色の花が、つむじのすぐ上で、風に合わせてさわさわと揺れた。林の向こうには、琵琶湖に向かって張り出した鈴鹿山の峰が、佐和山城を戴いて、霞の中にそびえ立っている。
左近と茶々の位置からは、煙硝櫓と本丸が見える。山の頂きから裾野まで、色とりどりの紗を、幾重にも敷き延べたように花が咲いている景色において、敵が押し寄せて来るのを前提に作られた建造物は、いっそ疎遠な印象を与えた。


「マジ腹減った」


左近に急かされ、脇の用水路で手拭いを泳がせ、手を清めるよう促す。


「そういや今度さ」

「うん?」


畳まれた手拭いを受け取り、掌を湿らせる。


「先輩達がうちで飲みたいって言ってんだけど、いい?」

「何人呼ぶの?」

「今んとこ三人だけど、もうちょい増えるかも」

「わかった。来るのは夜でしょ?今菜の花が美味しいから、お鍋でもする?」


左近は、いやいやと手刀を横に振る。

「鍋はねぇ、どっからか食いしん坊君が聞きつけて突撃して来るかもしんねぇから、普通の肴のほうが」

「食いしん坊君?」

「あー、でも鍋食いてぇな。ま、いっか。茶々に任せるわ」

「そう?じゃあ、日取りが決まったら早めに言ってね」

「了解!」


茶々は風呂敷の結び目を解き、蒸籠の蓋を外した。景気よく湯気が立つ中に、左近は手を差し入れる。


「熱いでしょ。懐紙巻いたら」

「いやいや、最近また手の皮厚くなったから、余裕っしょ。くこの実乗ってんのが蕗入り?」

「うん。二つずつ食べていいから」

「マジで?じゃ、いただきまっす。ん、あつ、あっつー、あちぃけど、うめー」

口から熱気を逃しながらかぶりつく様子に、概ね気分を良くした茶々は、裾が汚れないよう膝に懐紙を敷いた。
弾力のある、肌理の細かい皮を二つに割ると湯気が上がり、餡から肉汁が染みて滴る。
ふぅふぅと息を吹きかけて大きくかじれば、もっちりとした皮の間から、肉と野菜の旨味、蕗のとうのほろ苦さが、口の中いっぱいに満ちる。

「美味しい」

「うん、うめぇ」


吸筒から竹の湯呑みに茶を注ぎ足し、早くも二つ目を頬張る左近に渡してやる。頭上で枝が慌しく揺れ、花弁を撒き散らしながら、山鳩が飛び立った。羽ばたく姿が、花雲の中へ遠ざかってゆくのを目で追っていると、桜の木立ちに紛れて、白木蓮が一本立っているのに気づく。
言うと、肉饅頭をぺろりと平らげた左近は、茶々が指差す方向に首を傾げ、生返事をして茶を啜る。
そんな夫には構わず、散りゆく桜に囲まれながら、花を落とさずひっそりと息づく木蓮の、優美でいて凛々しい佇まいに、しばしの間見惚れた。

花を近くで見ると、削り出した象牙か、蝋を細工したようなのに、枝に集まって咲いているのを遠巻きで眺めると、白い小鳥の群れが、羽を畳んで休んでいる風にも、これから一斉に飛び去ろうとしている風にも見える。


「なーんだろな」


不意に左近は形の良い顎を反らし、空に向かって呟いた。
木蓮から視線を移し、何やら切なげに長息する夫の横顔に、どうしたのと問いかけると、心持ち吊り上がった目尻に黒目が回ってくる。左近は背中を丸め、神妙な面持ちで、茶々の瞳を覗き込んでくる。
両の瞳はどうしてか、星を一つ宿したように光っている。
歯の下から覗く舌先が口唇を滑る動きが、茶々の気をそぞろにする。


「若気の至りってやつ、やってみねぇ?」

「え?」


聞き返す茶々の耳元に、左近は忍び笑う口唇で、囁いた。


「冗談だっつったじゃんよー」


茶々は肩を怒らせ、足元の
菫やら蒲公英やらを踏みしだきながら、脇目も振らず、屋敷を目指して一直線に足を動かす。


「左近の馬鹿!もう知らない!」


露骨な誘い文句で食い下がり、妻の怒りを買った左近は、張られた頬をさすりつつ、風呂敷と蒸籠を抱えて、後を追う。
さかりのついた犬が、泣くように吠えた。
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