アンチ・カフェ飯、募集中

琵琶湖のほとりには桜が列を成して、淡海の波間に枝を垂らしている。
近江佐和山城は北東岸の丘陵地に座し、江南、江北を陣取る要衝として名高い。
本丸の庭にすっくと立つ若い桜は、城主石田三成の三女、辰姫が生まれた年に植樹されたもので、今年も枝いっぱいに蕾を綻ばせ、黒い木肌に淡い色の花を散りばめている。
まだなよやかな枝振りを横目に、三人は館の座敷に黙然と端座していた。

同じ顔が、判を押したように三つ並んでいる。今ここに、何の心の準備もなしに入室して来る者があり、この三人の男が同時に振り向いたのならば、その者は目を回してしまうかもしれない。そのくらい、父親と息子達は似ていた。三成の少年時代を知る者は、二人の息子を、取り分け重成のほうは、声音といい挙措動作といい、三成の雛型のようだと舌を巻く。

三人は、時折茶で口を湿らせる以外に、動きがない。
会話もなく、しかし特に気まずさも険悪さもない。
平素からこの調子だ。世間一般の武士の常識を当てはめるなら、親子の仲は至って普通だ。三成の気性を知る者からすれば、これは仰天の事実である。


「辰の奴、遅いな。ちょっと様子見てきましょうか」


痺れを切らせたように、重家は口を開く。腰を浮かせかけた長男を、三成は鋭く睨み据えた。


「重家。貴様、辰が待っていろと言っていたのを忘れたのか。軽挙妄動は慎め」

「兄上、待てと言ったら待て」


続く重成に分別くさく咎められ、重家は呆れ顔になるのを堪えて座り直す。
面つきの厳しさから一見すると、討ち入りの刻限を、今か今かと待ち構えている風に思われるやもしれない。
彼らは何を待っているのか。別段差し迫った事情があるわけでもなく、辰が焼いたパンケーキの到着を、ただ待っているだけであった。

辰は所領十九万石の大名の嫡女、深窓の姫君であるが、最近は頻繁に城の外に出かけていた。城下で評判の茶屋へ、侍女とともに甘味を食しに行くのを楽しみとしているのだ。
その影響で料理に凝りだし、時間を見つけてはちょこちょこと菓子作りに勤しんでいる。最初のうちは砂利のように硬いクッキーを作ったり、スコーンから出火してあわやの事態になりかけたりもしたが、腕の良い料理番と侍女達の助けもあり、最近は十回のうち九回は美味い物が出て来るまでに上達した。そうして石田家の八つ時には、プリンやアップルパイといった、西洋の甘味が並ぶに至ったのだ。

菓子といえば饅頭か団子しか知らない重成にとって、辰の作る菓子は、味覚の新天地、とでも表現すべきか。兎にも角にも、新しかったのである。
重成が驚いたと見ると、辰は自分の分を数に入れるのを忘れて、おかわりを皿に盛りつけてくる。重成は無碍にもできず、毎回胸焼けを起こしていた。それは別にどうでもよかった。重成には、どうにも解せぬことがあった。
辰は度々重家と連れ立って、茶屋へ出かけているらしい。
マカロンの味よりも衝撃的であった。自分と一緒に遊びに行ったのはたったの一回だけであるというのに、兄だけ何故と辰に問い質したところ、辰はすまなそうに、ごめんなさい、とだけ言った。
ならばとその足で、呑気な顔をした兄に詰め寄れば、お前と行っても楽しくないからだろ。と、遠慮なしの苦言を呈された。

辰曰く、苛々と不愉快そうだったから、ということらしい。
歩いている時も茶屋にいる時も、にこりともせずに終始眉を詰め、まるで飛んでくる矢弾を迎え撃とうとするかの如く神経を尖らせ、周囲の者を威圧し続けていたのだから、当然である。
絶望した。一緒に外出するからには、いや、兄であるからには辰を守る義務と権利が発生する。いつどこで不逞の輩が現れても、万事抜かりないよう気構えを固めておくことの、何が悪いのか。重成は理解に苦しみ、懊悩した。
その調子だと早死にするぞと、兄に心配された。妹は、お土産買ってきますからと、もう一緒に出かける気はないということを、言外に伝えてきた。
更に気持ちが荒んだ。

見兼ねた母、うたからは、心配が過ぎると、いつかは愛想を尽かされるものだと諭された。
あくまで三成との比較であるが、重成はわりかし人の話を聞くほうだ。母の助言に、言われてみればまぁそうかもしれぬと、少々頭を冷やした。辰との関係がこれ以上こじれるのは嫌なので、出来る限り口出しは控えた。しかし、疎外感は否めない。重成は暫くの間、楽しまぬ日々を送っていた。
多感な兄を気遣ってか、最近の辰は外出から戻ってくると、今日はどこそこへ行ったと報告をし、土産に菓子や小物を贈ってくるようになった。
兄様が嫌いだとか、そんなふうに思ったことは一度だってないですからね。
言われて、泣きそうになる重成であった。

さて、三成は摂津大坂城より、昨晩帰って来たばかりであった。常の領内の管理は代官に任せ、三成自身は奉行職の務めを全うすべく、一年の大半は大坂に詰めている。

三成の官位は、治部少輔。豊臣における、武器と兵糧の管理の最高責任者だ。斬滅などと物騒な怨言を絶叫し、本能のままに刀を振り回す戦いかたとは対局に、何万という部隊に物資を迅速に、過不足なく分配する手腕は、理知的そのものである。

ちなみに暗算の精度と速度は、今や家中で右に出る者はいない域に達している。しかし何と言っても三成は、常軌を逸した忠義の士として知られる男だ。
豊臣家総大将たる太閤秀吉がやれと命じれば、琵琶湖の水を全て酒に変えてみせる、かもわからない忠臣振りである。そんな三成はこの度、一通の文書がきっかけで、疾風の早さで大坂より佐和山へ舞い戻って来た。連日徹夜で事務処理に没入する三成のすまほに、父様にパンケーキを召し上がって頂きたく、近日中に大坂へ参ろうと思います。などと辰から文書が届いたのだから、三成はとち狂ったように狼狽えた。
大近江から大坂までの道中、辰の身にもしものことが起きたのならば、何回死んでも死にきれない。
素直に喜べばよいものを、わざわざ悲惨な妄想ばかりを募らせ、危うく精神が瓦解しかけた。

恥を忍んで帰国の許可を乞うたところ、秀吉と、彼の盟友である竹中半兵衛は、揃って温かく見送ってくれた。
日頃の勤務態度の賜物である。
そしてほとんど不眠不休で街道を走り続け、無事に娘と再開を果たすに至った。今は息子達とともに、辰手製のパンケーキが焼き上がるのを、うきうきと待っている。
傍目には、これから腹でも切るのかといった面相にしか映らないが、身内からすれば、ほぼ最高潮に機嫌を良くしているのが、よくわかる。娘が自分のために厨に立っていると思うと、琵琶湖の水も、である。

どういった訳か三成は、末娘の辰を非常に愛していた。赤子の砌から現在まで、掌中の珠の如く大切に扱っていた。持ち得る父性愛の
全てを注いでいると言っても、過言ではなかった。
しかし究極の忠義とはつまり、家族への愛だの情だのは、とっくに捨て去った、ということである。三成は一時期、それも辰が生まれた段階で、御し難い愛情と覆りようのない忠臣との定義の狭間で、身も世もなく苦悩した。いっそのこと辰を秀吉に献上してしまえば、全ては丸く収まるのでは、とすら思った。流石に困惑した秀吉は三成に対し、普通に娘を可愛がってよいと許可を与え、事態は呆気なく収束した。面倒臭い父親もあったものである。

重家は、口も開かず足も崩さず、青白い顔のまま微動だにしない父と弟をちらと見比べ、ひどく肩が凝った。
父様はまたすぐ大坂へ戻ってしまうのですから、兄様達も是非。辰に言われて不承不承席についたはいいが、如何せん楽しくない。うたがいないと会話が弾まないどころか、物音を立てることすら憚られる。
生憎うたは本日、付き合いのある諸将の妻女の屋敷に招かれているため、午前中から城を空けていた。この真面目くさった二人の男から発せられる、張り詰めた空気を緩和させる何かはないものか。

八つ時には出来上がると言っていたが、それまであと四半刻はかかる。この面子で四半刻は、あまりに長い。
やっぱり早めに逃げようかな。
退席しても連れ戻されずに済む口実を、幾つか思い浮かべた。
三成も重成も似た者同士だが、自分のことで精一杯なのか、あえて衝突を避けているのか、互いに一定の隔たりから踏み出して争ったり、馴れ馴れしくしたりだとかが、まるでない。ただし、辰を間に挟まなければ、の話だが。

辰は身内の前では、年頃の娘らしく鈴を振るような声で笑ったり、ちょっとした我儘を言ってみたりと、屈託がない。しかし、外から来る者に対しては、途端に口下手になって、思うように振る舞えなくなってしまう。
重家は奥ゆかしくてよいだろうくらいに思っているのだが、重成は危機感を持っているらしく、少々当たりが厳しくなる。
そんなに小心者では、嫁ぎ先で苦労するぞ。
これが近頃の説教の定番である。
幼い時分、嫁ぐ先がなければ俺が貰ってやる、などと豪語していた弟も成長したのだなと、重家は感慨深くなった。
それを聞いて頭に角を生やすのが、三成だ。辰の嫁入り云々が話題に上がると、途端に正気を保てなくなるのか、何故か一尺の物差しを手に、鬼の形相で重成に襲いかかってくる。竹の物差しが抜き身の刀に錯覚され、当然だが恐ろしい。

止せばよいのに重成は、敢然と父に立ち向かう。
が、父は早い。残像すら残らないほど、早く動く。
その速度でしなる物差しで打擲されるのは、非常に痛い。
そこへ辰が割って入って、兄様は私を思って言ってくださっているのに、どうして乱暴をするのですか。
といった具合に悲しげに訴える。
辰越しに勝ち誇った顔をして鼻を鳴らす弟と、目から血を流さんばかりに悔しそうにする父の対比があまりにも鮮やかで、重家は思わず一連の遣り取りをすまほに記録してしまった。

父と次兄の確執らしきものが、年々激しくなるのを心配してか、辰は二人の仲を取り成そうと心を砕いているが、顔を合わせればほぼ毎回、辰を巡って不毛な争いが勃発している。これは通り雨のようなものだと諭すも、どうしても仲良くなってほしいらしく、未だに諦めていないようだ。
全く、面倒臭い父と弟もあったものである。
それはさておき、重家には別件で頭痛の種があった。

茶屋通いを始めてから辰は菓子作りに傾倒し、八つ時だけではなく朝夕の膳も手がけている。出されるのはサンドイッチやパスタ、オムライスなどのいわゆるカフェ飯である。
味に問題はない。洒落ていて、中々に美味い。問題は量だ。辰が作ると量が少なく、すぐに腹が減って稽古や手習いに集中できなくなる。食材との相性のせいなのか、腹一杯になるまで食べると、腹を下したりひどい胸焼けに見舞われたりする。
これはまずいと思った。
カフェ飯では、急な合戦が起きた時に力が出ない。
間食はまぁよいとしても、食事はやはり米、味噌、醤油で統一すべきだ。
叱ったり説教をしたりするのがどうにも苦手な重家は、重成にその旨言って聞かせるよう促してみた。だが、兄上のほうが辰に好かれているのだから、そのくらいどうとでもなるだろう。
思わぬ反発を食らってしまった。
茶屋の件をまだ根に持っているのか、何かにつけて、ちくりちくりと突っかかってくる。
言ったら言ったで、三成の耳に入れば理不尽な制裁が待っている。
今日もまた、言い出せずに終わるのであろう。

実は、パンケーキも苦手であった。ぱさぱさしていて喉が乾くし、ぱさぱさを解消しようとシロップを多めにかければ、甘すぎて舌が痙攣してくる。クリームや果物をやたらと乗せられているのも、特別嬉しいとは思えない。重家は、憂鬱であった。
静か過ぎる座敷に、庭の雀の囀りが余計に喧しい。
小鳥の群れが一斉に羽ばたく慌ただしさに紛れ、廊下を渡る足音が、開け放した障子の前で止まった。


「失礼いたします」


重なった障子の後ろから、小さな顔がひょこりと覗く。
辰は、お待たせしてしまってごめんなさいと、しおらしく頭を垂れた。小振りの顔の中には円らかな二つの目、可愛らしい鼻、花弁のような口唇が、愛嬌と清楚を以て収まっている。少女であった頃のうたに、顔立ちがどことなく似ているらしい。
心持ち首を傾げて俯きがちに佇んでいると、一輪の白百合の風情だ。
三成は己と妻の合作、愛の結晶たる娘を、嘆息する思いで見つめた。が、やはり余人にはますます仏頂面にしか見えない。

「あの、父様」

「どうした」

「厨の小麦粉を使い切ってしまって、倉を探そうと思ったのですが、どこの倉にあるか、ご存知でしょうか?」


普段料理などしない父親に、小麦粉のありかを尋ねてもどうしようもないように思えるが、三成は、城のどこに何がどのくらいの量で格納されているのか、きっちりと頭に入っているのだ。


「何故侍女に申しつけない」

「手の空いている者がいなくて」


それに、一人で作りたかったもので。
辰の声が段々と小さくなる。
重家は、はてと首を傾げる。


「そんなに沢山作るのか」


辰は小さく首を振り、気まずそうに肩を竦める。


「失敗してしまいました」


聞くと、三成は立ち上がる。


「どのくらい要る」

「えっと、五合あれば大丈夫です」


三成は物言わず辰を横切り、廊下に出る。父の後を辰が続き、何故か慌てたように重成が追い、遅れて重家が、やれやれと腰を上げた。
四人が数珠繋ぎに厨に入ると、先頭の三成が調理台の上から枡と深めの鉢を手に取る。
一言、待っていろとだけ言い残し、三成は小麦粉を求めて倉へ向かった。


「失敗なんて珍しいな。焦がしたのか」


竈に目をやった重家は、ここでも怪訝な顔になる。
焚き口の中で薪が赤く燻っているが、食材が焦げる臭いは漂ってこない。
辰はまな板の傍の鉢を抱え、被せた布を外した。兄弟は辰を挟んで、中を覗く。

「だまが沢山出来てしまったんです」


生地にぽつぽつと浮かぶ小麦の塊を指差し、張りのない声で、今日に限って上手く混ざらなかったと、辰は説明した。


「混ぜかたが甘いんだろう」


おもむろに重成が横から手を伸ばし、貸してみろと顎をしゃくる。
辰は目を丸くし、少々の逡巡の後、不本意だが逆らえずといった態で、鉢を手渡す。
重成は、銀色に光る薄手の鉢を左手でしっかりと支え、右手に泡立て器を握ると、凄まじい勢いで生地を攪拌し始めた。手首を利かせて、雀蜂の羽ばたきを思わせる早さで泡立て器を回転させ、だまを分解しようとしている。早すぎて、手首から先がよく見えない。にも関わらず、生地自体は鉢の外から一滴も飛び散っていない。


「兄様、凄い」


辰は拍手を送る。しかし重成は、集中力が途切れるから話かけるなと、素っ気ない。


「じゃあ俺も手伝おうかな。おぉ、よく研がれた包丁だな」


重家は白々と光を照り返す包丁を手にし、笊の中の苺を摘まんで、へたを削いだ。
辰は男三人の協力的な動きに驚きつつ、やはり嬉しいのか顔いっぱいに笑みを広げ、いそいそと重家の隣にまな板を並べた。
泡立て器を回す規則正しい金属音が止まり、軽く息を切らせた重成が、辰に鉢を差し出した。

「わぁ、だまが綺麗に消えました」


受け取った辰が泡立て器を持ち上げると、垂れた生地が、絹の帯を折り重ねるように落ちて、滑らかな卵色の中に溶けてゆく。
辰は早速、平たい鍋を竈で温めて油を引き、生地をやや小さめの円になるよう、慎重に四つ、流し入れた。あとは蓋をして、弱火でゆるゆると焼いてゆく。
三成が持ってくる小麦粉で、侍女達の分も作ることにした。
三人は竈の前に木箱を並べ、揃って腰かけた。
窓の向こうの青空には綿雲が泳ぎ、風はまだ冷たいが、手を伸ばせば焚き口から
じんわりと熱を貰える。時折薪が爆ぜる音が、小気味良く響く。何とも長閑だ。


「母上はもう少しでお戻りになるそうだ」


重家のすまほの画面を覗いて辰が嬉しそうにしていると、木戸ががらりと開いて、三成が姿を現す。


「あったぞ」


三成は白い粉を山盛りにした鉢を辰に渡し、小脇に抱えた紙袋を二つ、棚の中に仕舞った。
几帳面な父は、予備の分まで持ってきたのだ。
辰は例の、鈴を振るような声で小さく笑った。


「父様を見かけた者は、驚いたでしょうね。小麦粉なんて持って、何事だろうって」


何の屈託もなく可笑しそうにする辰につられて、重成は不覚にも吹き出し、咳払いをして誤魔化した。重家は喉の奥で、軽やかに笑った。
三成は二人の息子を見咎めるでもなく、パンケーキの焼き具合を見に、竈に立つ娘の後ろ姿を、少し潤んだ目で黙然と見守った。
うたが城に戻り、家族揃っての茶会は、和やかに終わった。
その晩三成は、泣くならよそで泣けと、珍しく妻に叱られた。
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