カステイラ妻とストーキング夫
所変わって、中国は安芸吉田郡山城。以前は山頂にこじんまりと建つ、よくある型の山城であったが、城主毛利元就の采配によって改築、拡張を繰り返し、見るも強大な要塞へと変貌を遂げていた。
連なる郭輪の天辺、本丸御殿の奥の厨にて、女達は固唾を飲んで窯を囲んでいた。時折吹き込んでくる風に乗って、桜の花弁が小袖の肩に背に、模様を加える。
「御方様、抹茶味が焼けましてございます」
「こちらも桜味、焼けましてございます」
「続いて豆乳味、焼けましてございます」
台の上に次々と焼き型が並べられる。全部で五つ、中身は全てカステイラだ。当代流行りの南蛮菓子の中でも、一番人気を誇る逸品である。
「で、では、味を見てみましょう」
美伊は女達を見回して、覚悟を決めたという態で頷いた。女達も神妙な顔をして、応える。
焼型を外すと、鮮やかな山吹色の塊が、湯気を立てて姿を現す。
端を一寸の厚さに切り取り、一匙くらいの大きさに分けた。
「い、いただきます」
両手を揃えて頭を垂れる美伊に続き、皆いただきますと声を揃える。
砂金の大粒のような生地を舌に乗せると驚くほど肌理の細かい、とろけそうな舌触りとともに、卵と蜂蜜の馥郁とした香りが、ふわりと広がる。美伊の知る、カステイラの味だ。
「お、美味しい」
卵と蜂蜜に加え、砂糖を贅沢に使った甲斐あって、美味しさのあまり美伊は目を瞠る。女中達も同じく、嬌声を上げる。
「では御方様、続きまして抹茶味を」
促され、今度はうぐいす色をしたものを、楊枝に刺した。
こちらは臼で挽いて粉にした茶葉を生地に混ぜ、甘く煮た小豆を敷いてある。
「う、うん。美味しい」
茶のほろ苦さと甘い小豆の素朴さが合わさり、これは何切れでも進んでしまいそうだ。
「それでは、こ、今度は桜味を」
三つ目は桜の花と葉を、塩漬けにしたものを細かく刻んで、加えてある。黄色の生地に薄紅色と緑色が点々と散る様は、花畑を思い起こさせる。
「あぁ、ほ、本当、思っていたよりも
美味しい!」
桜にしかない、独特の華やいだ香りと塩気が合間って、不思議な味わいが生まれる。
春というものを味覚にして表せば、このような菓子になるのだろうか。女中達も意外の感に打たれ、口々にこんなの始めてと言い交わす。
残る豆乳のものと、肉桂のものも、美味であった。
「今日に至るまで、長うございましたね」
「殿もお喜びになるに相違ありません」
「そ、そう思う?」
「もちろんでございます」
皆に寿ぎの言葉を貰い、一先ず苦労が報われたと、美伊の双眸に涙がじんわりと滲む。たすきを外して前垂れで目元を押さえると、つられて二、三人が鼻を啜る。
美伊は一同に丁重に礼を述べ、茶の支度をするように申し渡し、厨を後にした。
早足で長廊下を渡って居室を閉め切り、着替えを始める。
帷子の上から紅梅色の小袖を着て、刈安色のものを重ねる。
明るい黄緑の絹地に四君子の花の縫い取りが、溜息が出るほど美しい。一番気に入っている唐織の帯を締め、侍女に大きめの蝶結びを作って貰った。鏡台の前で髪を解いて梳き、結い直して飾り紐をつけた。
気持ちは大いに盛り上がっているが、頓狂に思われては恥ずかしい。少し迷ったが、紅はうっすらと差すだけにしておいた。貝の器から紅を小指で掬い、丁寧に口唇をなぞれば、年よりも幼びた顔に、ちぐはぐにならないくらいの艶めきが刷かれる。
身支度が済んだと見え、侍女が下がる。一人になり、美伊は鏡の前でおかしい所がないかを念入りに確かめ、小さく、よしと呟いた。立ち上がり、次の間の向こうに続く襖の脇に端座した。
「も、元就様、美伊でございます」
返事はなく、ことりと筆を置く音がして、立ち上がる気配があった。
足音がこちらに近づいてきて、襖が開く。
爪先から、ぴしりと畳まれた袴の襞をなぞるように顔を上げると、夫の切れの長い眼と視線が結ばれる。
「お、お疲れ様でございます」
元就は一言、うむと返す。
「して、何事ぞ」
言われて、美伊は我に返る。
つい、見惚れていた。新婚でもないのにと恥じ入るものの、これはどうしようもなかった。
美伊にとって元就は誰よりも聡明で凛々しく、挙措動作はいつ如何なる時も涼やかで、泰然としている。光源氏が現れても、裸足で逃げ出すに違いない、とすら思わされる。
見ていると時折、切ないほどに胸が熱くなって、ついうっかり好きです。とっても。 などと口走ってしまいそうになるが、陽も高いうちからそのようにあけすけな告白をして、不興を買ってしまうのは非常に辛いので、ぐっと呑み込んだ。
「えっと、もう八つ時なので、一緒にお茶でも、なんて」
情けなくも泳いでしまう視線を元就の両眼に据え、如何がだろうと尋ねてみる。元就は黙したまま、仏像の半眼を思わせる二つの眼差しで、美伊を見下ろしている。
そうしている間、夫は自分に対してどのような思考を展開させているのだろうか。
日頃から気になってはいるものの、情のない答えが返ってきては一巻の終わりなので、あえて問い質したりはせず、次の反応を待つのが癖になってしまっている。
「茶室で待てばよいか」
「あ、いいえ。天気が良いので、縁側にしましょう」
障子の桟に手をかけて滑らせると、風に散って舞う小さな花弁が、陽の光を透かして白く光った。
陽射しを受けて温まった濡れ縁に円座を並べ、どうぞと勧めた。
長い時間私室に籠って筆を執っていたであろう元就は、特に疲れた素振りも見せずに胡座を掻いた。美伊は少しばかり円座を元就の傍に寄せ、腰を下ろす。
「今日は、わ、私がカステイラを焼きました」
言うと、元就は僅かに眉をそばだてる。
「そうか」
美伊は、夫の表情の変化を注視した。したが、その整った面に生じた何らかの感情の色は、すぐに透明のものとなった。
平素から、軽躁な振る舞いの一切をしない男である。予想していたとはいえ、自分の気持ちとの埋め難い温度差に、もう少し驚いてくれてもと、美伊はいっそ拗ねたい気持ちになった。
美伊がカステイラの味を知った時、あまりの感動に言語を絶した。
衝撃であった。元就も一口目で、瞬間ではあるが瞠目していた。
その後は淡々と食すだけであったが、美伊は夫の動揺を見逃さなかった。食事をしている時にそうした反応を示したことは、過去に一度もなかった。
同じ南蛮のものでも、チョコレートやパンケーキを出した時は手応えは得られず、ドーナッツは胸焼けを起こして終わっただけだというのに。
故にカステイラは美伊にとって、三重の意味で仰天の代物となった。
美伊は、元就が驚く顔を、もう一度見たかった。一度目の驚きを超えることは叶わずとも、美味しいものを食べて、喜んでほしいと思った。
尼子家の麾下で貧しい暮らしを送っていた新婚時代は、その日の食事の支度をするのに精一杯で、とても菓子を口にする余裕などなかった。今でも元就は、食事は滋養があればそれでよい、としか言わない。が、
美伊は出来る限り食べることを楽しんでほしかった。同じ物を食べて、一緒に美味しいと言いたかった。
美伊は侍女と、厨に勤める女中達と相談して、“元就様に内緒でカステイラを作る会”を発足した。
諸将の妻子に宛てた文を書いたり、繕い物や膳の献立を勘考するなどの奥向きの仕事は昼までに全て終らせ、元就が書院か私室に詰めている時間帯に厨を閉め切って、カステイラの試作に精を出した。
菓子職人を呼び寄せて教えを乞うことも考えたが、腕の良い職人の大半は男だ。美伊は元就以外の男と接するのが、どうにも苦手だ。話しかけられると頭の中が散らかって、嫌な汗を掻きながら萎縮してしまい、何も言えなくなってしまう。
菓子作りどころか、意思の疎通もままならなくなるのは目に見えていたし、何より、元就に気づかれないよう、ことを進めねば意味がない。
結局作り方は、動画の中でも特に評判の良いものを参考にした。
忙しいのは自分だけではないのに、嫌な顔一つ見せずに、我がままに付き合ってくれた女中達には、いくら礼をしてもし足りないくらいだ。
上手くいかない日もあったが、若い女中達と談笑したり、意見交換をしながら料理をするのは楽しかった。夫に罪のない秘密を作って、素知らぬ顔でこっそり計画を練るのも、冒険をしているようで胸が躍った。どうしてか、絶対に知られていないという自信があった。
それが元就には不思議でならなかった。
カステイラ作りを始めてからというもの、美伊は傍目にも明らかに、毎日うきうきと楽しそうにしていた。結果、元就は妻の企みを、ほとんど最初の段階で把握することとなった。気づいたが、カステイラ作りは楽しいか?などと尋ねたりするだとか、野暮な真似はせず、見て見ぬ振りを続ける一方で、厨に忍を潜り込ませ、美伊の様子をすまほにて記録するよう命じた。
薄暗い部屋で領土運営の算段をし、誰それが島流しだの腹を召すだのといった陰湿な密謀を練る合間に、一人記録を鑑賞するのが、元就の楽しみになった。美伊が自分のために何かしようとしているのは、理屈抜きに嬉しかったし、親しんだ者達に囲まれて菓子作りに興じる姿も、何とも可愛らしかった。
すると今度は、邪魔をして困らせたいという欲求が、むらむらと湧き起こった。元就は、どちらかと言えば欲望に忠実なほうである。
窯から呻き声が聞こえる、使おうとした卵が茹で卵に変わっていた、といった怪奇現象に見舞われ、慌てふためく美伊を見るのは、非常に愉快であった。内緒にするからには、自分を驚かせようと目論んでいるのだろうと、それくらいは百も承知であった。
妻を愛しているのならば素直に喜んで見せるのが良い夫なのだ、という認識も、あるにはあった。だがしかし、元就はどうしても意地悪がしたかった。甚だ幼稚であると自嘲しつつ、何が何でも驚いてやるものかと、固く心に決めていた。無論、意地悪をしたところで、物の数や質といった実存的な利益が生まれるわけもない。元就が欲するものはただ一つ。それと気づかれずに妻を弄ぶことによって得られる、愉悦。それだけである。
そして今、期待する反応を得られず、落胆する美伊を見て、密かに悦に入っていた。
ややあって、侍女が盆を捧げ持って廊下を渡ってきた。
美伊は気を取り直して、鉄瓶から湯呑みに、熱い煎じ茶を八分目まで注いだ。
漆塗りの皿には、一寸角に切った五色のカステイラが、小山の形に盛りつけられている。
「ど、どうぞお召し上がりください」
元就は差し出された皿を無言で受け取り、そこに乗っているものに目を落とした。思っていたものとは様子に若干の差異があるのだろう。表情には、僅かながら訝しげな色が浮かんでいる。
これは、驚いていると見てよいのか。美伊は食い入るように、元就を見つめる。
「これは、何だ」
元就はうぐいす色の一切れを摘まむ。
「あ、そ、それは抹茶と小豆が入っています。あの、こちらからどうぞ」
何も加えていない、黄色のほうを勧める。
眉をひそめつつ、言われるがまま小さなカステイラを口に含み、静かに咀嚼する夫を、美伊は息を継ぐのも忘れて見守った。
「うむ」
一拍の間の後、どこか納得したような面持ちで、元就は頷く。
少々ではあるが、機嫌を良くしているのだと、声の調子でわかった。
「これは、何を入れた」
「さ、桜の塩漬けを」
元就は桜の香りの一切れを、鼻先に近づけてから口に入れた。
細い顎が緩やかに動き、きちんと三十回噛んでから、茶を啜って息をつく。続けて、抹茶のものを摘まむ。
「お、美味しいですか?」
恐る恐る尋ねてみれば、元就は相変わらず淡白な顔つきで、しかしはっきりと頷いた。
美伊は安堵に頬を綻ばせた。
遅れて、作ってよかったという思いが、じわじわと胸に染み渡ってくる。
「こちらは、豆乳を使いました。ど、どうでしょう」
「うむ」
元就はカステイラを口に運んで味わい、茶を飲んでからまた一口を規則正しく繰り返し、着々と皿の上を空けてゆく。
余人からすれば、ただ食えればよしといった態度でいるように思えるが、夫としての元就を知る美伊の目には、違う姿が映っている。
価値は無しと判断したものに対しては、踏みつけても、眼前で爆発起ころうとも興味を持たない男であると、知っている。世の中で大切とされている事柄であっても、戦果と治政に直接的に絡むものを除いてしまえば、元就にとっては無価値なままで終わる。
そんな男が、一皿の菓子を無碍にせずにいるのだから、これは美伊にとっては大いに意味のあることなのだ。
戦巧者が押しのべてそうであるように、夫は常にその本心を幾重もの殻で包み隠して生きている。それが戦から離れた日常のひと時、美伊の前でほんの少しばかり解け、心の一端に触れることを許される時がある。ひどくわかり辛いが、触れてみればそれは人間らしい、血の通った人の男であると、確かに感じるのだ。
もっと何を思っているのかを知りたい。出来るならば、喜ぶ顔が見たい。自分のしたことがその結果になるのならば、もっと嬉しい。そうした思いは、嫁いだ当初から何ら変わりない。
一方で、自分はこんなにも夫の気を引こうと懸命になっているのに、いつも涼しい顔を崩さずにいるのは狡いと思ったりもする。
それにしても。
美伊は元就が菓子と茶を往復して食する動作を、飽かずに眺めた。
何てお行儀が良いの。
元就が食事をしている様子を、始めて目にした時の感想である。
どれほど貧しい時でも空腹に任せて飯を掻き込まず、怪我を負っていても背筋をしゃんと伸ばして座る。箸の持ちかたも美しい。音を立てず、頬張らず、好き嫌いを言わず、三十回噛む、を頑なに守り続ける姿は、独自の美学によって保たれる、侵し難い気高さに満ちている。
我が夫は五十石取りの砌から既に、中国八州を統べるに足る風格を備えていたのだと、美伊は誇らしくなった。
「茶はあるか」
うっとりする思いで夫を見つめていた美伊は、慌てて鉄瓶に手を伸ばし、元就の手の中の湯呑みに茶を注いだ。そよ風に追われるようにして、桜の花弁が数枚、湯呑みの中に飛び込んでくる。
「よい」
替えを淹れようとする美伊を留め、元就は口元に持っていった湯呑みを、急角度に傾けた。大きく喉を鳴らし、注いだ分を一息に飲み干す夫の横顔に、美伊は目を瞠る。
呆気に取られる美伊に向き直ると、元就はまた何事もなかったかのように湯呑みを差し出す。
こんなことをする人だっただろうか。
常の夫らしくない挙措に、大いに首を傾げたくなるのを堪えて鉄瓶を手に取ると、もうだいぶ軽くなっていた。
振り返ると、同じく呆けていたらしい侍女ははっとして一礼し、茶器を盆に乗せて腰を上げた。
「待て」
厨に戻ろうとする侍女を、元就が呼び止める。粗相をしてしまったかと、侍女は表情を硬くする。
「抹茶の」
元就は不機嫌そうに、咳払いを一つくれた。
「抹茶のものを、一切れ持て」
美伊と、カステイラ作りに従事していた侍女は、顔を見合わせて盛大に破顔した。
おかわりを所望するほど、気に入ったのだ。
厨へ急ぐ侍女を見送り、座り直して元就の顔を覗き込んだ。
元就はつんと顔を逸らして、そっぽを向いた。よくよく見ると、心なしか耳朶が赤らんでいる。
その赤さが美伊に、夫の静けさに分け入る大胆さを与えた。
「元就様」
返事はない。
夫が照れている。そんな素振りを見るのは、何年振りだろうか。
愛おしさと、気持ちが通じたという嬉しさで、声を上げて小躍りしたくなった。今ならば、何をしても許されそうな気がする。
十数えたら、大好きですと言ってみようか。夫の貴重な困り顔が、見られるかもしれない。
少しばかり強気になった美伊は、羽ばたくような胸の高鳴りに急かされながら、口の中で、ひの、ふの、と数え始めた。
連なる郭輪の天辺、本丸御殿の奥の厨にて、女達は固唾を飲んで窯を囲んでいた。時折吹き込んでくる風に乗って、桜の花弁が小袖の肩に背に、模様を加える。
「御方様、抹茶味が焼けましてございます」
「こちらも桜味、焼けましてございます」
「続いて豆乳味、焼けましてございます」
台の上に次々と焼き型が並べられる。全部で五つ、中身は全てカステイラだ。当代流行りの南蛮菓子の中でも、一番人気を誇る逸品である。
「で、では、味を見てみましょう」
美伊は女達を見回して、覚悟を決めたという態で頷いた。女達も神妙な顔をして、応える。
焼型を外すと、鮮やかな山吹色の塊が、湯気を立てて姿を現す。
端を一寸の厚さに切り取り、一匙くらいの大きさに分けた。
「い、いただきます」
両手を揃えて頭を垂れる美伊に続き、皆いただきますと声を揃える。
砂金の大粒のような生地を舌に乗せると驚くほど肌理の細かい、とろけそうな舌触りとともに、卵と蜂蜜の馥郁とした香りが、ふわりと広がる。美伊の知る、カステイラの味だ。
「お、美味しい」
卵と蜂蜜に加え、砂糖を贅沢に使った甲斐あって、美味しさのあまり美伊は目を瞠る。女中達も同じく、嬌声を上げる。
「では御方様、続きまして抹茶味を」
促され、今度はうぐいす色をしたものを、楊枝に刺した。
こちらは臼で挽いて粉にした茶葉を生地に混ぜ、甘く煮た小豆を敷いてある。
「う、うん。美味しい」
茶のほろ苦さと甘い小豆の素朴さが合わさり、これは何切れでも進んでしまいそうだ。
「それでは、こ、今度は桜味を」
三つ目は桜の花と葉を、塩漬けにしたものを細かく刻んで、加えてある。黄色の生地に薄紅色と緑色が点々と散る様は、花畑を思い起こさせる。
「あぁ、ほ、本当、思っていたよりも
美味しい!」
桜にしかない、独特の華やいだ香りと塩気が合間って、不思議な味わいが生まれる。
春というものを味覚にして表せば、このような菓子になるのだろうか。女中達も意外の感に打たれ、口々にこんなの始めてと言い交わす。
残る豆乳のものと、肉桂のものも、美味であった。
「今日に至るまで、長うございましたね」
「殿もお喜びになるに相違ありません」
「そ、そう思う?」
「もちろんでございます」
皆に寿ぎの言葉を貰い、一先ず苦労が報われたと、美伊の双眸に涙がじんわりと滲む。たすきを外して前垂れで目元を押さえると、つられて二、三人が鼻を啜る。
美伊は一同に丁重に礼を述べ、茶の支度をするように申し渡し、厨を後にした。
早足で長廊下を渡って居室を閉め切り、着替えを始める。
帷子の上から紅梅色の小袖を着て、刈安色のものを重ねる。
明るい黄緑の絹地に四君子の花の縫い取りが、溜息が出るほど美しい。一番気に入っている唐織の帯を締め、侍女に大きめの蝶結びを作って貰った。鏡台の前で髪を解いて梳き、結い直して飾り紐をつけた。
気持ちは大いに盛り上がっているが、頓狂に思われては恥ずかしい。少し迷ったが、紅はうっすらと差すだけにしておいた。貝の器から紅を小指で掬い、丁寧に口唇をなぞれば、年よりも幼びた顔に、ちぐはぐにならないくらいの艶めきが刷かれる。
身支度が済んだと見え、侍女が下がる。一人になり、美伊は鏡の前でおかしい所がないかを念入りに確かめ、小さく、よしと呟いた。立ち上がり、次の間の向こうに続く襖の脇に端座した。
「も、元就様、美伊でございます」
返事はなく、ことりと筆を置く音がして、立ち上がる気配があった。
足音がこちらに近づいてきて、襖が開く。
爪先から、ぴしりと畳まれた袴の襞をなぞるように顔を上げると、夫の切れの長い眼と視線が結ばれる。
「お、お疲れ様でございます」
元就は一言、うむと返す。
「して、何事ぞ」
言われて、美伊は我に返る。
つい、見惚れていた。新婚でもないのにと恥じ入るものの、これはどうしようもなかった。
美伊にとって元就は誰よりも聡明で凛々しく、挙措動作はいつ如何なる時も涼やかで、泰然としている。光源氏が現れても、裸足で逃げ出すに違いない、とすら思わされる。
見ていると時折、切ないほどに胸が熱くなって、ついうっかり好きです。とっても。 などと口走ってしまいそうになるが、陽も高いうちからそのようにあけすけな告白をして、不興を買ってしまうのは非常に辛いので、ぐっと呑み込んだ。
「えっと、もう八つ時なので、一緒にお茶でも、なんて」
情けなくも泳いでしまう視線を元就の両眼に据え、如何がだろうと尋ねてみる。元就は黙したまま、仏像の半眼を思わせる二つの眼差しで、美伊を見下ろしている。
そうしている間、夫は自分に対してどのような思考を展開させているのだろうか。
日頃から気になってはいるものの、情のない答えが返ってきては一巻の終わりなので、あえて問い質したりはせず、次の反応を待つのが癖になってしまっている。
「茶室で待てばよいか」
「あ、いいえ。天気が良いので、縁側にしましょう」
障子の桟に手をかけて滑らせると、風に散って舞う小さな花弁が、陽の光を透かして白く光った。
陽射しを受けて温まった濡れ縁に円座を並べ、どうぞと勧めた。
長い時間私室に籠って筆を執っていたであろう元就は、特に疲れた素振りも見せずに胡座を掻いた。美伊は少しばかり円座を元就の傍に寄せ、腰を下ろす。
「今日は、わ、私がカステイラを焼きました」
言うと、元就は僅かに眉をそばだてる。
「そうか」
美伊は、夫の表情の変化を注視した。したが、その整った面に生じた何らかの感情の色は、すぐに透明のものとなった。
平素から、軽躁な振る舞いの一切をしない男である。予想していたとはいえ、自分の気持ちとの埋め難い温度差に、もう少し驚いてくれてもと、美伊はいっそ拗ねたい気持ちになった。
美伊がカステイラの味を知った時、あまりの感動に言語を絶した。
衝撃であった。元就も一口目で、瞬間ではあるが瞠目していた。
その後は淡々と食すだけであったが、美伊は夫の動揺を見逃さなかった。食事をしている時にそうした反応を示したことは、過去に一度もなかった。
同じ南蛮のものでも、チョコレートやパンケーキを出した時は手応えは得られず、ドーナッツは胸焼けを起こして終わっただけだというのに。
故にカステイラは美伊にとって、三重の意味で仰天の代物となった。
美伊は、元就が驚く顔を、もう一度見たかった。一度目の驚きを超えることは叶わずとも、美味しいものを食べて、喜んでほしいと思った。
尼子家の麾下で貧しい暮らしを送っていた新婚時代は、その日の食事の支度をするのに精一杯で、とても菓子を口にする余裕などなかった。今でも元就は、食事は滋養があればそれでよい、としか言わない。が、
美伊は出来る限り食べることを楽しんでほしかった。同じ物を食べて、一緒に美味しいと言いたかった。
美伊は侍女と、厨に勤める女中達と相談して、“元就様に内緒でカステイラを作る会”を発足した。
諸将の妻子に宛てた文を書いたり、繕い物や膳の献立を勘考するなどの奥向きの仕事は昼までに全て終らせ、元就が書院か私室に詰めている時間帯に厨を閉め切って、カステイラの試作に精を出した。
菓子職人を呼び寄せて教えを乞うことも考えたが、腕の良い職人の大半は男だ。美伊は元就以外の男と接するのが、どうにも苦手だ。話しかけられると頭の中が散らかって、嫌な汗を掻きながら萎縮してしまい、何も言えなくなってしまう。
菓子作りどころか、意思の疎通もままならなくなるのは目に見えていたし、何より、元就に気づかれないよう、ことを進めねば意味がない。
結局作り方は、動画の中でも特に評判の良いものを参考にした。
忙しいのは自分だけではないのに、嫌な顔一つ見せずに、我がままに付き合ってくれた女中達には、いくら礼をしてもし足りないくらいだ。
上手くいかない日もあったが、若い女中達と談笑したり、意見交換をしながら料理をするのは楽しかった。夫に罪のない秘密を作って、素知らぬ顔でこっそり計画を練るのも、冒険をしているようで胸が躍った。どうしてか、絶対に知られていないという自信があった。
それが元就には不思議でならなかった。
カステイラ作りを始めてからというもの、美伊は傍目にも明らかに、毎日うきうきと楽しそうにしていた。結果、元就は妻の企みを、ほとんど最初の段階で把握することとなった。気づいたが、カステイラ作りは楽しいか?などと尋ねたりするだとか、野暮な真似はせず、見て見ぬ振りを続ける一方で、厨に忍を潜り込ませ、美伊の様子をすまほにて記録するよう命じた。
薄暗い部屋で領土運営の算段をし、誰それが島流しだの腹を召すだのといった陰湿な密謀を練る合間に、一人記録を鑑賞するのが、元就の楽しみになった。美伊が自分のために何かしようとしているのは、理屈抜きに嬉しかったし、親しんだ者達に囲まれて菓子作りに興じる姿も、何とも可愛らしかった。
すると今度は、邪魔をして困らせたいという欲求が、むらむらと湧き起こった。元就は、どちらかと言えば欲望に忠実なほうである。
窯から呻き声が聞こえる、使おうとした卵が茹で卵に変わっていた、といった怪奇現象に見舞われ、慌てふためく美伊を見るのは、非常に愉快であった。内緒にするからには、自分を驚かせようと目論んでいるのだろうと、それくらいは百も承知であった。
妻を愛しているのならば素直に喜んで見せるのが良い夫なのだ、という認識も、あるにはあった。だがしかし、元就はどうしても意地悪がしたかった。甚だ幼稚であると自嘲しつつ、何が何でも驚いてやるものかと、固く心に決めていた。無論、意地悪をしたところで、物の数や質といった実存的な利益が生まれるわけもない。元就が欲するものはただ一つ。それと気づかれずに妻を弄ぶことによって得られる、愉悦。それだけである。
そして今、期待する反応を得られず、落胆する美伊を見て、密かに悦に入っていた。
ややあって、侍女が盆を捧げ持って廊下を渡ってきた。
美伊は気を取り直して、鉄瓶から湯呑みに、熱い煎じ茶を八分目まで注いだ。
漆塗りの皿には、一寸角に切った五色のカステイラが、小山の形に盛りつけられている。
「ど、どうぞお召し上がりください」
元就は差し出された皿を無言で受け取り、そこに乗っているものに目を落とした。思っていたものとは様子に若干の差異があるのだろう。表情には、僅かながら訝しげな色が浮かんでいる。
これは、驚いていると見てよいのか。美伊は食い入るように、元就を見つめる。
「これは、何だ」
元就はうぐいす色の一切れを摘まむ。
「あ、そ、それは抹茶と小豆が入っています。あの、こちらからどうぞ」
何も加えていない、黄色のほうを勧める。
眉をひそめつつ、言われるがまま小さなカステイラを口に含み、静かに咀嚼する夫を、美伊は息を継ぐのも忘れて見守った。
「うむ」
一拍の間の後、どこか納得したような面持ちで、元就は頷く。
少々ではあるが、機嫌を良くしているのだと、声の調子でわかった。
「これは、何を入れた」
「さ、桜の塩漬けを」
元就は桜の香りの一切れを、鼻先に近づけてから口に入れた。
細い顎が緩やかに動き、きちんと三十回噛んでから、茶を啜って息をつく。続けて、抹茶のものを摘まむ。
「お、美味しいですか?」
恐る恐る尋ねてみれば、元就は相変わらず淡白な顔つきで、しかしはっきりと頷いた。
美伊は安堵に頬を綻ばせた。
遅れて、作ってよかったという思いが、じわじわと胸に染み渡ってくる。
「こちらは、豆乳を使いました。ど、どうでしょう」
「うむ」
元就はカステイラを口に運んで味わい、茶を飲んでからまた一口を規則正しく繰り返し、着々と皿の上を空けてゆく。
余人からすれば、ただ食えればよしといった態度でいるように思えるが、夫としての元就を知る美伊の目には、違う姿が映っている。
価値は無しと判断したものに対しては、踏みつけても、眼前で爆発起ころうとも興味を持たない男であると、知っている。世の中で大切とされている事柄であっても、戦果と治政に直接的に絡むものを除いてしまえば、元就にとっては無価値なままで終わる。
そんな男が、一皿の菓子を無碍にせずにいるのだから、これは美伊にとっては大いに意味のあることなのだ。
戦巧者が押しのべてそうであるように、夫は常にその本心を幾重もの殻で包み隠して生きている。それが戦から離れた日常のひと時、美伊の前でほんの少しばかり解け、心の一端に触れることを許される時がある。ひどくわかり辛いが、触れてみればそれは人間らしい、血の通った人の男であると、確かに感じるのだ。
もっと何を思っているのかを知りたい。出来るならば、喜ぶ顔が見たい。自分のしたことがその結果になるのならば、もっと嬉しい。そうした思いは、嫁いだ当初から何ら変わりない。
一方で、自分はこんなにも夫の気を引こうと懸命になっているのに、いつも涼しい顔を崩さずにいるのは狡いと思ったりもする。
それにしても。
美伊は元就が菓子と茶を往復して食する動作を、飽かずに眺めた。
何てお行儀が良いの。
元就が食事をしている様子を、始めて目にした時の感想である。
どれほど貧しい時でも空腹に任せて飯を掻き込まず、怪我を負っていても背筋をしゃんと伸ばして座る。箸の持ちかたも美しい。音を立てず、頬張らず、好き嫌いを言わず、三十回噛む、を頑なに守り続ける姿は、独自の美学によって保たれる、侵し難い気高さに満ちている。
我が夫は五十石取りの砌から既に、中国八州を統べるに足る風格を備えていたのだと、美伊は誇らしくなった。
「茶はあるか」
うっとりする思いで夫を見つめていた美伊は、慌てて鉄瓶に手を伸ばし、元就の手の中の湯呑みに茶を注いだ。そよ風に追われるようにして、桜の花弁が数枚、湯呑みの中に飛び込んでくる。
「よい」
替えを淹れようとする美伊を留め、元就は口元に持っていった湯呑みを、急角度に傾けた。大きく喉を鳴らし、注いだ分を一息に飲み干す夫の横顔に、美伊は目を瞠る。
呆気に取られる美伊に向き直ると、元就はまた何事もなかったかのように湯呑みを差し出す。
こんなことをする人だっただろうか。
常の夫らしくない挙措に、大いに首を傾げたくなるのを堪えて鉄瓶を手に取ると、もうだいぶ軽くなっていた。
振り返ると、同じく呆けていたらしい侍女ははっとして一礼し、茶器を盆に乗せて腰を上げた。
「待て」
厨に戻ろうとする侍女を、元就が呼び止める。粗相をしてしまったかと、侍女は表情を硬くする。
「抹茶の」
元就は不機嫌そうに、咳払いを一つくれた。
「抹茶のものを、一切れ持て」
美伊と、カステイラ作りに従事していた侍女は、顔を見合わせて盛大に破顔した。
おかわりを所望するほど、気に入ったのだ。
厨へ急ぐ侍女を見送り、座り直して元就の顔を覗き込んだ。
元就はつんと顔を逸らして、そっぽを向いた。よくよく見ると、心なしか耳朶が赤らんでいる。
その赤さが美伊に、夫の静けさに分け入る大胆さを与えた。
「元就様」
返事はない。
夫が照れている。そんな素振りを見るのは、何年振りだろうか。
愛おしさと、気持ちが通じたという嬉しさで、声を上げて小躍りしたくなった。今ならば、何をしても許されそうな気がする。
十数えたら、大好きですと言ってみようか。夫の貴重な困り顔が、見られるかもしれない。
少しばかり強気になった美伊は、羽ばたくような胸の高鳴りに急かされながら、口の中で、ひの、ふの、と数え始めた。
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