今季のおかずは、塩だけです

岡豊城の奥の朝は早い。
この日も奈々は太陽が昇る前に床から起き出し、厨で弁当の支度をしていた。
重箱の一段目には米を、二段目には副菜と漬物を、ぎっしりと詰める。本日最初の一大事業が終わり、奈々はたすきを解いた。
朝日が射し込む窓際に弁当を並べ、腕を組んでしげしげと眺める。豪華ではないが、彩りが良く、味に変化もある。

我ながら、よく作ったものだ。

奈々は達成感を噛み締めていた。
白い飯の真ん中に梅干しを一粒置き、陽を遮る物を除け、すまほをかざして構図を決める。

ぱしゃり。
映し取った画を日記帳に載せ、本日の品目を書き込む。
日記の題名は、

“アネゴの戦国弁当~鬼の巻~”

内容は主に、倹約をしながらでも美味い料理は作れますよ、といった具合の奮闘記である。
ちなみに大名の奥方による、料理関連の日記番付の中では上から五番目。中々好評のようだ。
明六つを告げる鐘が鳴り、厨に女中達がやって来る。


「奈々様、おはようございます」

「おはようございます」

「おはよう。あいつ起こしてくるから、朝餉運んじゃって」


配膳を女達に任せ、奈々は奥へ戻った。

四国は東の諸国より一足先に桜の蕾が目を覚まし、土佐の春は宴も酣の風情に染まっていた。庭の桜はもう八割がた花が綻んでいて、立ち込める薄紅色の雲が白い雨を降らせているように見える。
杉戸を開き、居室の襖を払った。
元親は隆とした体を床に投げ出し、正体失くして眠りこけている。奈々は畳に膝をついて、夫の肩を揺する。
「ほら、朝だよ。起きろ元親」


元親は酒臭い息を吐きながら低く呻き、枕を抱き寄せて再び眠りの波に沈んでゆく。
起床する意志は、目覚めていないらしい。仕方なしに、右手で鼻を摘み、左手で高いびきを掻く口を塞いでやった。四十数えたあたりで、首から上が赤黒く変じてゆき、六十を過ぎたところで、右目がかっと見開かれた。


「ぶはぁっ!おい、何だよてめぇかよ!」


跳ね起きた元親は、呼吸困難は妻によって発生していたのだと知るや、唾を飛ばして怒鳴る。
奈々は片頬を思い切りつねり上げた。


「いでででで!」

「六つ時に起こせって言ったのはあんたでしょうが。文句垂れるくらいなら、深酒するんじゃないよ。あー、酒くさ。ほら、とっとと顔洗いな」


気のきつい妻に捲し立てられた元親は、大儀そうに腰を上げ、悪りぃ夢見ちまったなどとぼやきながら、水盥で顔を洗って口を濯いだ。


「はい」


奈々は梅干しの盛られた小鉢を差し出す。元就は漬けてから日の浅い実を、三粒ほど口に放り込んだ。


「あー、うめぇ」


頑丈な下顎が上下に動き、がりごりと音が鳴る。梅干しを種ごと噛み砕く癖があるのだ。


「もうすぐ朝餉だよ」

「おう」


衾を畳んで床を上げる奈々を横目に、元親は帷子を脱いで下帯一丁になる。
元親は背丈六尺をゆうに超える偉丈夫だ。首筋ががっしりと太く、肩から背中にかけての筋肉が厚く盛り上がっている。
腕も脛も長い。動作が終始荒っぽく大振りだからか、筋骨の重さとともに、ばねの強い躍動的な印象を与える。
この容貌で、巨大な得物を振り回して暴れる様はまさに鬼で、一体何人の敵兵が肝を潰して逃げ惑ったことやら。

上は袖なし、下はたっつけ袴に替えた元親は、丼で水を呷りながら、早速指図を広げた。

「普請の具合はどう?順調?」

「まぁ、な。城郭はもう問題なさそうだから、あとは出丸を……」


答えが要領を得ないまま、元親の意識は再び絵図面に釘づけになる。
運ばれて来た膳を受け取り、茶碗に飯をよそいながら、奈々は横から指図を覗いた。
分厚い紙の束の表紙には大きく富嶽と書かれ、中には図形と数字が所狭しと書き綴られている。
普請とは、岡豊城の眼下に流れる国分川を下った更に先にある、浦戸城のことだ。
元親が切り取ったこの城は浦戸湾に位置し、交通の要衝として、古くは南北朝の時代から縄張り争いがなされていた。

元親は、浦戸城の攻守強化に心血を注いでいた。さて、一体何が出来上がるのか。雛型も見せて貰っていない奈々には、全貌はぼんやりとしか掴めないが、察するに桁外れに巨大な絡繰が建設されるのであろう。
一時は赤字になるだろうが、必ず元は取る。とは、元親の弁だ。この通りだと、自ら士卒百人を従えての土下座は、記憶に新しい。
元親は銭があればあるだけ兵器の製造に注ぎ込んでしまうので、財産の管理の一切は、奈々が取り仕切っている。国が傾くか否かに直結する務めなので、銭の使い道の吟味は、閻魔大王もかくやとばかりに厳しい。
誤魔化されることがないよう、絡繰についても勉強した。こうなると元親も妻を納得させることに本気になり、あの手この手でかき口説き、件の百人土下座に至ったわけである。
そこまでして愚にもつかない玩具が出来上がった日には、奈々も泣くに泣けない。

酒が抜けないと言いつつ大盛りの飯を平らげ、あさりの味噌汁もおかわりした元親は、食事を切り上げ、風呂敷に指図の束と硯箱を仕舞った。
奈々は見送りの支度をする。


「泊まりになるなら、連絡早めにね」

「おう」


元親は玄関の階に腰かけ、草鞋の紐を結いた。
本日の浦戸城普請は各部署の奉行に任せ、主郭を下ってすぐの二の段の鍛治場で作業をするらしい。
仕事熱心な夫に、ずしりと重たい弁当を手渡す。


「あれ、入れたか」

「あれって?」

「あれって言やぁ、おめぇ、あれだろ。鶏の肉揚げたやつ」

「唐揚げのこと?今日は塩山椒で焼いたやつだよ」

「かーっ、入れてくれよな」


元親は大仰に残念がる。最近祝言を上げた侍女に、亭主が喜ぶこと請け合いと言われ、作り方を教わってから何度か入れた覚えはあるが、そこまで気に入っていたとは初耳だ。


「二日酔いだってのに、よくそんな油っこいもん食べる気になるね」

「こんぐらい二日酔いのうちに入んねぇよ。飯食って汗流しゃ治るしな」

「わかったわかった。今度入れとくから。はい、行ってらっしゃい」

肩で風を切りながら大手門をくぐる夫を見送り、大きく伸びをした。若い雌猫のように引き締まった背中が、しなる。腕を下ろすと、豊かな胸の実りが奔放に揺れるた。

唐揚げ、と一人ごちてみる。
無闇に年貢を取り立てずに軍費を捻出するため、奈々は倹約を徹底している。弁当に入れる物が、雑穀米の他に大根の漬物しかない日も多々ある。そんな時元親は別段怒るでも呆れるでもなく、適当に何か獲るからよいと言って出かけ、夕暮れになれば魚を何尾も提げて帰ってくる。常の暮らしでは、酒盛りをする以外にはさしたる贅沢もせず、普請場に海にと、昼夜の境なく働き回っている。
たまには好きな物を腹一杯馳走してやるのもよいか。
一月くらいはまた粗食になるが、何とかなるだろう。思い立ったが吉日。早速すまほを開き、鍛治場に出仕する者の数を確認し、女達を集めた。


「今日の八つ時に、二の段で唐揚げ祭を開催します」

侍女も女中も、それは一体何だとどよめく。

「無事に終わった暁には、奥座敷で一杯つけるよ」


酒が飲めると知るや女達ははしゃぎ、業務連絡を聞くが早いか、それぞれの持ち場に飛ぶように戻っていった。
出来る限り経費を削るため、岡豊城の奥向きは必要最低限の人数で回転している。体力に自身のある奈々が三人分の働きをして、どうにか現状維持が可能になっている。
今日はそこへ火をつける勢いで、掃除、濯ぎ物、畑の手入れなどを終わらせ、早急に下ごしらえに取りかかった。

まず、鶏を絞める。失神させた鶏の血抜きをし、大鍋一杯の熱湯に放り込んで羽毛を毟る。
あけすけな色恋の話や作物の出来具合、最近流行りの着物の意匠から、内海を隔てた毛利領の統治状況まで、くるくると変わる話題で盛り上がりながら、包丁を揮った。厨には一頻り、華やかな笑い声が弾ける。

「でね、奈々様。私どうしても納得がいかなくて、何も考えずに屋敷に乗り込んでったんですよ。そしたら相手の女があいつにしなだれかかってて、その時はまだ冷静でいられたんですけど、よりにもよってその女、あいつが私に買ってくれたのと同じ小袖を着てたんですよ。私もう、悔しくて悔しくて」

「あー、それ腹立つ。けどさ、もうちょっと優しく羽毟ってやってよ」

「えぇ、じゃあ奈々様でしたら、そういった時、どうなさるんですか?」

「あたし?」


奈々は鶏の腹を切り開くを緩め、眉間に皺を寄せた。
よくある痴話喧嘩だが、自分の身に降りかかるとなると、格好つけていられるかどうかは、甚だ心もとない。元親は財布の紐が一層固くなるのを恐れ、下手に出て来るだろう。浮気相手よりもお前のほうがいい女だと言い募られても、許せる気がしないが、大名の妻であるなら、浮気の一つや二つ、そういうものだと割り切ってしまわねば、神経が保つまい。
が、自分の性質上、恥も外聞も捨てて怒り狂ってしまうほうが、よほど楽だ。
しかし、家中を纏める女としては、余裕と機知を見せなければ皆に示しがつかない。それにしても、女房と情婦に同じ贈り物をするとは、何とも芸がない男だ。野暮にもほどがある。


「その場で燃やして、裸で帰るかな」

「まことでございますか?」

「だってそんなの着ないほうがましでしょ。で、一番いいやつに着替えてから、先ほどは粗末な着物で失礼しましたって、挨拶に行きゃいいのよ」


言い切れば、女達は剛毅だ剛毅だと哄笑した。
捌き終わると、なみなみと醤油の注がれた壺に、すりおろした生姜とにんにくを入れて攪拌し、切り分けた肉を部位ごとに漬ける。
内蔵は茹でて灰汁を洗い流してから、唐辛子と味噌に漬けて寝かす。これは晩酌の肴にとっておく。骨は畑の肥やしにし、羽は衾か胴服に詰めるつもりだ。

作業が一段落し、小休止を挟んでから各々の用事を済ませ、気がつくとあと四半刻で八つ時、という時分になっていた。

鶏肉を入れた壺と大鍋、小麦粉、大量の油を手分けして担ぎ、二の段へ向かった。
坂を下って行くに連れ、普段は気にならないくらいの振動が、落雷のような轟音になり、足の裏から耳を強く揺さぶる。濃くなる硫黄の匂いが、つんと鼻を打った。焙烙火矢を炸裂させているのだ。広い郭輪には板葺きの小屋が並び、絶えず立ち昇る煙に負けじと、男達の濁声が飛び交う。

門の脇で水を飲んでいる男に声をかけると、すぐさま直立し、アネゴと呼ばわって一礼をした。
元親の所在を尋ねれば、若い男は目の前の小屋へすっ飛んでいった。金槌を打ちつける音が止み、開け放した木戸の奥から、諸肌脱ぎの元親が姿を現す。


「おぅ、どうした」


神将の彫刻を思わせる逞しい体を開けっぴろげに晒し、悠々と歩いてくる夫の肌はあちこち煤で汚れ、滂沱の汗が陽射しを照り返している。
長い時間火炉につきっきりだったのだろう。黒ずみの下の顔は、真っ赤に火照っている。
やっぱり弱いなぁ。こういうの。火薬と汗の臭いばかりのする首に抱きつき、潮風と太陽に振り乱され、潤いを失くした髪に鼻を埋めて頬ずりしてしまいたくなるのは、何故なのだろうか。
奈々は含み笑いを洩らし、元親に訝られた。

天に向かって、今が盛りと花開く桜の樹の根元で、男達はござを敷き、元親を中心に車座になって冷えた茶を飲んでいる。
煮炊きをする用の小屋で竈を借り、火を熾して大鍋に油をたっぷりと注いだ。油の温度を見る奈々の横で、女中達が肉に粉をはたく。油の中に肉を一切れ落とし、泡の立ち具合から頃合いやよしと見て、大量の肉を投下した。
油が水分を弾く音が、岩に砕ける波のように豪快に立ち上がる。飛び散る油が奈々の腕に頬に当たっても、慣れたもので痛がる素振りも見せない。少し待っていると、鍋底から肉がぷっくりと浮かんできた。

大きな網杓子で一気に鍋をさらって油を切り、盥のように大きな笊の上に、山にして盛った。小屋の中いっぱいに、香ばしい匂いが立ち込める。
戸口から身を乗り出して、野郎どもと声を張った。
待ってましたと高潮する男達のもとに、女中がうず高く盛られた唐揚げを運んだ。
野太い歓声が上がり、元親がいただきますの号令をかけた瞬間、男達は一斉に手を伸ばす。うめぇうめぇの大合唱が始まった。

「酒はねぇのかよ」


一杯引っかけようとする元親に、馬鹿なのと奈々。


「仕事があるでしょーが。終わってからにしな」


悪態をつく夫に構わず、肉を揚げ続ける。奈々も女達と一緒に、舌を火傷しながら摘まんだ。歯を立てると熱い肉汁が滴る。噛み応えがあるのに柔らかく、にんにくと生姜の香りがしっかりと染みていて、大層美味だ。
作りたて、というのはやはり良いものだと実感した。どんなに美味い料理でも、弁当に詰める時には冷まさなければいけない。
常々、熱い物を熱いうちに食べさせてやりたいと思っていた奈々は、嬉しくなった。

もう一方の鍋から揚がった一皿を運びに行く女と入れ替わりに、空の笊を提げた女が、慌てた様子で駆け戻って来る。


「増えてます」

「え?」


何のことかと、奈々は首を傾げる。人が増えていると言われ、奈々は外に出て桜の樹の周りに集う物達を、指をさしながら数えた。十二人だったはずが、二十六人に増えている。


「ちょっと」


思わず奈々は詰め寄り、いったい誰が呼び集めたのかと問い質す。


「いいじゃねぇか別に。こいつらも唐揚げ食いてぇってんだからよ」


全員独り身だしな。
言うと元親はこともなげに、仰々しく改造を施されたすまほを取り出し、更に人を呼ぼうとする。奈々は元親を張り倒しそうになるのを寸でで堪え、横から素早くすまほを引ったくった。

「今日来る人数分しか用意してないんだから、今呼んだら行き渡らなくなるでしょ。それくらい考えてよ。どうしても呼びたいってんなら、一人三切れずつしか食べさせないからね」


口の周りを油で光らせる男達は、領地没収の沙汰でも下されたかの如く、殺生なと叫ぶ。驚いたのは奈々のほうだ。
この男達の、唐揚げに対する熱意は何事か。
呼ばれた者に帰れとも言い辛いので、城にいる侍女に連絡し、適当な野菜と塩漬けの魚を持って来いと言いつけて、元親にすまほを突っ返し、鼻息荒く竈に戻った。

魚の入った鍋を作るとなると、もはや八つ時の軽食ではなく、本格的な炊き出しである。
富嶽の件でただでさえ生活費に皺寄せが来ているというのに、毎日の食事や宴の膳の分に換算すれば、食費は大幅な赤字だ。
げに恐ろしきは、胃袋を支配する唐揚げであると、貪り食う男達の姿を見て思った。焼石のように熱い肉を鷲掴みにし、五、六回咀嚼しただけで飲み込んだかと思えば、もう次を口に入れようとする。最後の一個を奪い合って、手が出る足が出る。そこには、主従も
なかった。いったい、唐揚げの何が彼らをそうさせているのか。
いつかどこかの家の女が日記帳にて、食べ盛りの殿方にとって、唐揚げとはつまり飲み物でございます。などと語っているのを読んで、大袈裟なと鼻で笑っていたが、これは己の見識が甘かったのだと、頭を抱えたくなった。

具材の到着を待っている間に四皿目が揚がり、汗を掻きつつ油に浮いた焦げをせっせと網杓子で掬っていると、表が沸き返るように騒がしくなる。
口笛や手拍子が起こるほうを注視すると、そこから逃れるようにして、若い女中が前垂れで顔を隠しながら舞い戻ってくる。

「ちょっと、どうしたのさ」


表に出ると、元親が大口を開けて豪傑笑いをしている。


「おい、この野郎がお鈴に惚れてるってよ」


お鈴は慌てて駆けてきた女中のことだ。真っ黒に日焼けした、岩石のような顔の青年が、元親に背中を張られ朋輩に揶揄され、勘弁してくださいよと取り乱している。座は酒でも入っているのかと思うほど盛況し、盃を交わせだの夜這いをしてこいだの、揃って好き勝手に囃し立てている。

この時期、庭に屋根に毎夜毎夜けたたましく、雌猫を追い回す雄猫の雄叫びを、奈々は思い出していた。


「だってさ」


小屋に戻ると、聞き耳を立てていたらしい女達が、お鈴をからかっている。


「あいつ、侍大将の吉兵衛でしょ。悪い話じゃないと思うんだけど」


そこそこ真面目に、縁組を勧めてみた。お鈴はほとほと困ったという態で、茹で蛸になって頻りに首を振っている。

人も獣も、男女はもれなく春を満喫しているのだ。
春だなぁ。
奈々は、浮かれる季節が去ろうとするのを惜しんで、落涙するが如く散る桜の花弁を眺めながら、向こう三ヶ月は貧相になるであろう食卓を思い、溜息をついた。   
1/1ページ
    スキ