殿の半分は、糖でできています

飛騨から木曾、赤石は紅白の梅と桜が咲きこぼれ、たてがみのような山脈にぐるりと囲まれた信濃は、今まさに春の底にいた。
真田の常の住まいは、本領である岩櫃城とは別に、武田の本拠地、躑躅ヶ崎館の武家屋敷郡の一角に置かれている。
あと半刻で正午という時分、居間に続く廊下の奥から足音とともに、安岐、安岐と呼ばわる声が迫ってくる。


「安岐、今日の分の菓子は今如何に」


幸村は慌ただしく厨にやって来て、安岐のいる土間に降り立った。
安岐は、いいえと返事をし、すぐに悪戯っぽい目をして笑って見せる。


「さっきおむすびを召し上がったばかりなのに、もうお腹が空いたんですか?」

「いやいや、そうではない。む、それは何を煮ている」


安岐の後ろにある竃の上で、鍋がくつくつと歌っている。ひどく真剣な面持ちで鼻先を蠢かせる夫は、優しげな顔立ちをしている分、歳よりも少々幼く見える。
子犬にそうする時のように、頭を揉みくちゃに撫でてあげたいという欲求がむずむずと湧いてくるが、前垂れで手を拭う振りをして堪えた。


「緑豆を甘く煮ているんです。今日はお饅頭にしようかなぁなんて思ってたんですけれど、あ、何か食べたい物でもあるんですか?」

「うむ、あるにはあるのだが、名を何と言ったか。ざ、いや、ばん、あん……」

「はいはい、ちょっと待っててくださいね」


安岐は懐に手を差し入れ、硯ほどの大きさの金属の板を取り出す。端の小さな突起を押すと、黒い画面がぱっと光る。
安岐と幸村は額を寄せ合って、狭い長方形の中を覗き込んだ。


「それを自在に操れる時が、いつの日にか俺にも訪れるのだろうか」

「うーん、どうでしょう。やっぱり幸村様はこういった絡繰とは反りが合わない方なんだと思います」

幸村は、そうかと呟き、残念無念青菜に塩といった態で、肩を落とす。
慎重に言葉を選んで見たものの、本人が望んでいた回答には程遠かったようだ。


「そんなに落ち込まないで、ね?美味しいの沢山作りますから」


元気を出してと宥めると、幸村は顔を上げ、気を取り直して希望する菓子の内容の説明を始めた。
大好物の甘味について語るうちに元気が出てきたのか、段々と口調が熱っぽくなり、身振り手振りも大きくなってゆく。あちらこちらに脱線しようとする話を安岐が軌道修正しつつ、要点を拾っていると、一つ思い当たるものがあった。


「それって、団喜かなぁ」

「知っているのか」


幸村の瞳が、一段と強く輝く。
いつだったか、それらしき菓子の文献を目にした覚えがある。
安岐は、手の中の画面を指先で軽く弾いて文字を選び、検索を押した。


「ほら、あった。これですよ、きっと」

画面に触れた指を上下左右に滑らせると、幸村が話に聞いていたであろう菓子が、所狭しと映し出される。


「おぉ、おぉぉぉ」


幸村は鼻息を荒くする。
この摩訶不思議な絡繰、その名も〝すまほ〟。

ちなみに幸村は、こうした絡繰の扱いはからきしどころか、持たせた先から原因不明の故障を繰り返し、おまけに当節流行りの“お館様詐欺”に、幾度となく籠絡されかかっていたため、事態を重く見たお館様本人によって、所持禁止の命が下されたばかりであった。
「な、何と美味そうな菓子なのだろうか」


平たい画面に並ぶ菓子を見つめ、神妙な面つきで唸る幸村の頭に、桜の花弁が点々と散っている。先刻まで庭の桜の樹の傍で槍を振っていたからだ。
汗ばんだ首筋に頬に、まるで一寸法師の足跡のように何枚も貼りついている。
見ていて和やかな気持ちになるので、そのままにしておこうと思った。


「じゃあ今日はこれを作ってみますね。胡麻油は、ある。あとは胡桃と松の実と、肉桂が確か……」


画面上に示された食材を読み上げながら戸棚を漁っていると、幸村が体を傾げて、背中越しに手元を覗いてくる。安岐の長い髪が光を弾く度に、誘われるように、所在なげに背後をうろつく。
煮豆の鍋を火から降ろし、別の鍋に松の実をあけて炒り始める。
幸村は筋金入りの甘党で、一日の間にちょくちょく菓子を摘まむ習慣がある。
安岐は嫁いだ翌日から、甘い菓子を作るのが日課の一つになった。妻となって日の浅かった安岐に、幸村の食生活は驚愕以外の何物でもなかった。
炊いた飯の饅頭をのせ、そこにこれまた甘い汁粉をかけてざらざらと流し込んで槍の稽古に出かけ、戻って来たかと思えば、壺の中の水飴を舐め、というよりも飲み、また槍を振りに行く。

ある日、砂糖と甘葛の一月当たりの消費量を計算してみたところ、幸村一人で他家の七人家族分に相当すると判明し、危うく卒倒しかけた。
体に糖を溜めるのは病の元と薬師から注意を受けてはいるものの、幸村は糖が足りなくなると、日照りにやられて死にかける犬のようになってしまう。

普段の夫の暮らし振りを見るにつけ、朝晩の膳も菓子も、摂った先からことごとく熱に変えて発散してしまっている感があり、溜まる以前に何も残らないのでは、という気もする。
幸いなことに、原価の高いチョコレートやカステイラ、保冷の難しいアイスクリームなどの南蛮菓子の類より、食べ応えのある団子のほうが幸村の好みらしい。こうなれば、銭と時間が許す限り満足させてやらねばと、安岐はむしろ使命感を持って菓子作りに臨んでいた。

今のところ、餡をたっぷり詰めた団子や饅頭などが定番だが、出来れば新しい味も仕入れたいと考える安岐は、菓子作りが得意な素人達による、こんな一品を作ってみた、といった主旨の日記帳を、すまほから頻繁に覗いていた。
それによると団喜とは、奈良時代に仏教とともに唐より渡ってきた、由緒正しい菓子であるという。
甘く煮た栗や豆を、小麦を練った皮で包み、油で揚げる。
聞くだに美味そうだし、団欒の団に喜ぶという字の並びも、何とも縁起がよい。


「八つ時には食べられるようにしますからね」

「うむ」


松の実が焦げないよう、万遍なくへらで掻き混ぜる。幸村はその手元に、じっと熱い眼差しを送る。会話がないのが、どうにも面映い。

「そんなに楽しいですか?」

「ん?」

「炒ってるだけですけれど」

「い、いや、楽しいというか、不思議と穏やかな心持ちになれる。おなごが料理をする姿がかように良いものだとは、これまで思いもせなんだ」


少しの衒いもなく、しみじみと有難そうにする幸村からは、戦場を疾駆する時の、血風を帯びて逆巻く野火のような猛々しさなど、微塵も感じない。
横顔はまるで、世間ずれしていない真正直な童子そのものだ。
日常のふとした瞬間、何てことのない場面で夫の心根の柔らかさに触れる時、安岐の双眸は感動にも似た思いで、うっすらと潤むのであった。

思い返してみれば、この時刻幸村はいつも馬を乗り回しているか、槍の稽古に熱中しているかで、屋敷の中でじっとしているということが、まずない。厨で二人きり、というのはもしかすると今日が初めてかもしれない。何だか無性に嬉しくなって、幸村の頭に手を差し伸ばした。


「な、何だ」


優しく髪を梳かれ、不意のことに幸村はにわかに狼狽する。花弁を摘まんで見せれば、幸村は頭を振って、もうついていないかと尋ねる。
その仕草がやはり幼児のようで、安岐は笑い声を上げた。

炒った松の実と胡桃をそれぞれ皿にあけ、生地に使う小麦粉を出した。粉の山に水と油と塩、少しの砂糖を加えて混ぜ合わせ、まとまりが出てきたところで、台の上に移して捏ねる。
目の前の窓から土間に、穏やかな陽光が幾筋も梯子を架ける。
額に汗が滲んできた。隣にいる幸村に目を移せば、立って腕組みをしたまま、うつらうつらと船を漕いでいる。


「幸村様」

「んんっ!?」


弾かれたように顔を上げ、ぱちぱちと目を瞬かせている。
乾いた頬から、白い花弁が離れて落ちた。


「薄縁を敷きましょうか?」


手を洗おうとすると、幸村は渋面で首を降る。

「すまぬが少し寝る。出来上がったら起こしてくれ」


頼りない足取りで竃から離れると、そのまま上り框の上に、仰向けになって寝そべった。
人の気配が恋しいのだろうか。手を濯ぎ、居室の長持ちから小袖を出してきて、体に被せてやる。夫はもう深い寝息を立てている。首が凝るだろうと、円座を二つ折りにして、頭の下に敷いてやった。

呼吸に合わせて、厚い胸がゆっくりと上下する。
一日の活動量が並外れているせいか、幸村はよく眠る。
土間に屈み、無防備に眠る姿を束の間楽しんだ。
眺めていると、抱き締めたまま離したくないと、そんな思いが込み上げてくる。

幸村は感激屋で、人目も憚らずによく泣く。目の前のことには何でも誠心誠意を以ってぶつかる。良く言えば純粋な情熱家、悪く言えば物を真正面からしか見られない無鉄砲だ。それはどちらも、多感で、素直で、比類なく一途な結果なのだから、やはりそこが夫のえも言わず良い所なのだと、安岐は思っている。そうした直向きさを慕う者が大勢いることも、知っている。
無心な寝顔は一層にあどけないのに、体からは日なたの匂いと一緒に、具足から染みついた鉄や皮の匂いが漂う。安岐はその匂いに抱かれる度、途方もない愛おしさと、ともに命あることへの喜びで、胸がいっぱいになるのであった。
心身ともにいつまでも健やかで、実りある人生を一緒に送られれば幸いと、願うばかりである。
生地も捏ね終わり、次は緑豆で餡を作る。棚から擂り鉢を出し、柔らかくなった豆を擂りこぎで潰した。
この間に肉桂を粉にして貰おうと、辺りを見回して女中を探した。


「一番槍ぃあっ!!」

「ひゃあっ!」


突然の勇ましい大音声に、安岐は仰天して振り返った。
幸村は小袖に包まれたまま、眉間に皺を寄せ、名乗りとも唸りともつかない声を、切れ切れに発している。どうやら夫は、夢の中でも戦場を駆け回っているようだ。


「お疲れ様です」


春とはいえ、今はまだ花冷えの時期だ。風邪を引かぬよう、小袖の上から綿入れも重ねてやった。

豆の形が残るくらいで潰す手を止め、生地で包む前に一息つこうかと思案したところで、木戸がこんこんと小気味良い音を立てた。


「どぉもー」


開いた戸から、見慣れた顔が覗く。


「あぁ、佐助様。お帰りだったんですか?」

「そ、つい先刻ね。報告も済んだんで、今日のお役目はお終いさ。ん?こんなとこで蓑虫になってんの、これ旦那?」

「急に眠気が来たみたいで」

「赤ん坊かよ。はい、お邪魔しますよっと」


あー、しんど。
佐助は薬箱を背中から下ろすと、肩を上げ下げ、首を回したりしている。今みたいに忍装束ではなく、筒袖にたっつけ袴だと、異様さも威圧感もなく日常の風景に溶け込んでいる。しかしよく目を凝らせば、特殊な訓練を積んで鍛え上げた体だと、質素な布の上からすぐに気づく。


「今回はどちらまで?」


肉桂を潰している途中の鉢を置き、上り框に腰かける佐助に、ぬるめの茶とかき餅を差し出す。

「ちょっくら陸奥までね。そっからまた山陰、山陽と下って行って、まぁ色々」

「随分長くお留守にしてるなぁって思ってたんですけど、そんなに遠くまで」

「田植えがあらかた済めば、皆さんまた戦、戦でしょ。前倒しであちこち調べなきゃなのよ。いやぁ俺様ね、過労で頓死しちゃった時のために遺書をしたためておいたから、そん時は旦那によろしく」

「えぇ、ちょっとそれ笑えない」


佐助の軽口に、安岐は肝を冷やす。反応が楽しいのか、佐助は含み笑いをしながら茶を啜る。


「で、今日は何作ってんの?」

「あ、これ。これです」


すまほの画面を佐助に向け、その昔遣唐使とともに云々のくだりを話して聞かせる。


「へぇ、こんな手間のかかるもんをねぇ」


よくやるよ。言われて、照れ笑いが顔に広がる。


「佐助様も召し上がっていってくださいね」

「おぉ、いいの?」

「もちろんですよ」

「嬉しいねぇ。では、有難く頂戴いたしたく候」


佐助は顔の前で掌を立て、剽げた仕草で手刀を切る。
互いに笑みを交わしつつ、東国、西国各地の大名の領地経営の手腕は如何に、といった真面目な話から、近所の無駄吠えする犬への文句まで、一頻り四方山話に花を咲かせた。

「さて、じゃあ俺様も手伝わせてもらおっかな」


安岐が深めの鍋に油を注いでいると、佐助は湯呑みを置いて立ち上がり、両袖を折り返して捲った。


「そんな、お疲れでしょう?出来上がるまで座っててください」

「息抜きだから、息抜き。それ包んで揚げればいいんでしょ?任せてくださいな」


任務とは関係のない、出来れば日常の中にある娯楽で、神経を休めたいのだなと思った。
折角立ち寄ってくれたのだし、それで息抜きになるのならばと、好意に甘えることにした。


「じゃあ、一口よりも少し大きいくらいで、松の実入りと胡桃入りの二通りつくりましょう」

「はいはーい。巾着の形にするのね」


佐助はすまほの中の絵を一瞥すると、白い生地の塊を小さく千切り、掌で丸めて団子を作ってから薄く伸ばし、餡を真ん中の落とした。


「これ、甘葛じゃなくて砂糖で煮てある?」

「わかります?」

「鼻が利くんでね。えーと、捩じって閉じてあるのか、これ」


長い指が素早く動いて、柔らかな布を扱うように細かにひだを作って閉じ、あっという間に小さな巾着が現れた。


「ん、ちょっとでかいかな」

「いえ、全然。すごい、とっても上手」


以前から何事もそつのない男だと思っていたが、予想を越えた巧みな手捌きに感心し、安岐は手を打って褒めた。

「昔、とある城の厨にそこそこ長い間潜り込んでたんだわ。任務はギリギリだったけど、料理すんのはけっこー楽しかったんだよね。隠居したら、茶屋の親爺にでもなろうかな」

「え、それすごくいいかも」

「いや、冗談だけど」

「向いてると思う。佐助様器用だし、お客のあしらいとか上手でしょうし。もしやるんだったら、城下でやってくださいね。ちょくちょくお邪魔しますから」

「お、本当に?お得意様発見しちゃったよ」


談笑している間に、鍋の油から熱気が立ち昇ってきた。

そろそろ頃合いだ。


「では、佐助様。試しに五つ、揚げてみたいと思います」

「了解しました!先遣隊、出陣しまーす」


佐助の手から滑らせるようにして、油の中に巾着が落ちる。
入れた先から賑々しい音を立てて、金色の泡に包まれてゆく。ここからは火の勢いを落としたまま、じっくり揚げてゆくのだ。うっかり焦がしてしまわないよう、二人して腰を据えて、油の中を泳ぐ小さな袋を見守る。


「旦那、もう半刻くらい眠ってるよね」


安岐は幸村を見た。地蔵の如く、ぴくりともせずに深い眠りに落ちている。幸村の場合は、夢路を直走っていると言うべきか。


「あと半刻は起きないかも」

「待つのも面倒だしさぁ、敵襲ーって叫んで起こしちゃわない?」

「えぇー、起きた時にまた改めて揚げますから、そっとしておきましょうよ。あ、もうそろそろかな」


黄金色に染まった巾着を箸でそっと摘み上げ、反故紙を敷いた笊の上に乗せた。
そこに肉桂の粉を振りかけ、楊枝を刺す。

「はい、熱いうちに召し上がれ」

「おぉ、ありがとね」


いただきますを言い、餡の詰まった膨らみに歯を立てた。
餡の熱さで舌を火傷した。しかし、大変な美味である。
さっくりと軽い生地が割れると、贅沢な餡の甘みがとろけ、胡麻油の豊かな風味、肉桂の香り高さが、口の中で一体となる。安岐が食べたのは胡桃入りだが、食感がまた良い。
その名に相応しい至福の味、甘い宝の巾着である。


「うーん、美味しい」

「うまーい。いいねぇこれ」


胡麻を塗して揚げたり、干し柿や干し杏を刻んで混ぜても、きっと良い味になるであろう。
これは大成功と言い交わしていると、匂いに誘われて、庭掃除をしていた女中達が覗きに来た。快く振る舞うと黄色い声が弾け、厨が華やいだ。
美味しいと寿ぐ言葉が口々に、笑顔とともに飛び出す。
団欒の喜びをそのまま絵にしたような、温かな眺めだ。

戦など、どこの世界の話かと思う。
祝宴の席で山盛りに盛って出せば、皆どんなにか喜んでくれるだろうか。幸村など感激のあまり、叫び出すかもしれない。安岐は舌をひりひりさせながら、幸せな気持ちになった。


「有り難き幸せぇあっ!」


再び響く雄叫びに揃って振り返れば、幸村はぱくぱくと口を動かして、夢の中の誰かと、何事か論じている。手柄を立てて、敬愛する主から褒美でも賜ったのだろうか。
窓から洩れる笑い声が風に乗り、つられたように、小鳥達が囀った。
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