随筆的な……
新聞を読んだ話
2025/12/26 14:56日常デジタル全般
先日、久しぶりに紙の新聞を読んだ。我が家では両親の希望で紙の新聞を配達してもらっているが、実に懐かしいと言うか、このエモーショナルな感覚を久しく忘れていた! という感動に浸っていた。
紙の新聞にはアドオン広告がないので眼の前の言語情報に集中することができる。
紙という物理媒体なので物理的なスペースの問題から書き込める情報量は限られてる。故に印刷されている広告ですら控えめな存在なのだ。……広告会社が一面をジャックするような大々的な宣伝を打たない限りは。
それゆえ、限られた字数で限られた級数で情報が押し込められているが、伝えたいことが伝えたいままに伝わるように『設計』されているので、レトリックは殆ど無いし、ボキャブラリーも平易だ。────少なくとも私には平易だと思えた。
その記事の内容には恐怖管理もダークパターンも含まれる余地が少なく、含まれていたとしても、新聞社のプロパガンダをねじ込むのが優先で、どの部分がどのように怪しいのかが見た目で分かる。(まあ、眼の前の情報をして、『疑う余地』があると思うのは陰謀論者と創作脳だけとは良く言ったもので……)
それもそのはずで、紙の新聞は言語情報で構成されているのだ。言語情報はメラビアンの法則で言えば一番伝達度が低いが、新聞紙には言語情報しかないので、「今目の前にある文字列を深く読み解くのに」適した形態で、先の新聞社特有のプロパガンダを見破るのが容易な点につながる。……まあ、容易か否かはその人の認知機能や認知の歪みや社会構造の解像度によって左右されるかもしれないし、ハンロンの剃刀の概念を知らないと辛い事になるが、今回のテーマと外れるのでこの辺の話は割愛。
言語情報を読み解く──この場合の『読み解く』は脳内で噛み砕いて理解して、言語化できるまでの過程を指す──上でゆっくりと字を目で追えるというのは何とも気持ちが良いものだ。
で、貧乏で、本物の貧乏性ゆえにお金を出して買っているのだからと新聞を端から端まで読むと、勿論、興味の対象外の記事やコラムやエッセイやなんとか川柳とかも目に入る。図らずも、自分はどれに興味があって今日がないのか自覚させてくれるのでメタ認知を知るのに良い機会でもある。
勿論のこと、一紙だけを教科書の如く有難がるとそれはプロパガンダに飲み込まれている証拠なので、あらゆるメディアに触れる前に「明確な自分」を自己分析と自己洞察である程度把握しておかなければならない。
……というか、メディアに触れる前に自己分析や自己洞察という『メディア論を主体とした護身術』が必要なのは何とも本末転倒な事態である。
目にする言語情報で以てポスト・トゥルースを誘発したり主観と客観の切り分けができないばかりに瞬間湯沸かし沸騰機さながらに他責思考に陥ったりと、「それを防ぐための練習」をするのに、「それを防ぐ練習」をするという、ともすれば、メディアに触れる前から「メディアに触れるべき人間とそうでない人間」、「ある程度の知能と解像度を具えた人間のみ読める」というハードルすら感じてしまう人も一定数いるだろう。これは新聞に限ったことではない。完全に安全なメディアなど存在しない。小学校の学級新聞にもプロパガンダは潜んでいるのだ。
ネットやSNSの情報量とは比較できなほどミニマムで流動性が無い新聞ではあるが、「SNS疲れを覚えているけど世間の情報を軽く知っておきたい」人には紙の新聞をお勧めします。
かくいう私も、SNS疲れで昨今のxの騒動で更に加速した件でTLから離れる時間が多くなりました。その分、読書や執筆に充てられる時間が増えたので、これも丁度いい機会かと思っています。人間の時間的リソースは限られているので、複数のSNSを反復横跳びする時間も体力もないのでどうしようかと思ってた矢先に、アナログなメディアを再評価している最中に心が癒されたわけです。
人間の脳みそはまだ原始人のまま。バージョン1.0のままだという言説も理解できる。科学が進んでも、人間の能力は科学に追いついていない。それは指数関数的にこれからも似たような現象が起きるだろう。
『スマホ脳』の著者のアンデシュ・ハンセンは「スマホは睡眠、運動、学習、社会活動の時間を奪う」とスマホ(主にSNS)を糾弾したが、それはそう、と思う一方で、時代は不可逆なのでデジタルが無かった時代へは戻れない。
これからの時代は益々、個々人が自分で「明確なデジタルとアナログの線引」を探って付き合うしかない。さもなければデジタルが使えなくなった途端に感覚を全て封じられたように何もできなくなる可能性もある。
そうなれば、予め、知識を蓄えて実践して知恵に昇華したモノをどれだけスキルとして蓄えているかが問われると思う。
……畢竟、読解力と言語化能力が人類の最後の切り札になるだろうとも私は予想している。
さて。
コーヒーを飲みながら紙の新聞を捲る。
幼少期に見た、大人の男性の姿の真似ができていますか?
新聞を読むという行為が自発的に行った能動的な再発見ではなく、逃避からの再評価というのがなんとも皮肉なものですが。
紙の新聞にはアドオン広告がないので眼の前の言語情報に集中することができる。
紙という物理媒体なので物理的なスペースの問題から書き込める情報量は限られてる。故に印刷されている広告ですら控えめな存在なのだ。……広告会社が一面をジャックするような大々的な宣伝を打たない限りは。
それゆえ、限られた字数で限られた級数で情報が押し込められているが、伝えたいことが伝えたいままに伝わるように『設計』されているので、レトリックは殆ど無いし、ボキャブラリーも平易だ。────少なくとも私には平易だと思えた。
その記事の内容には恐怖管理もダークパターンも含まれる余地が少なく、含まれていたとしても、新聞社のプロパガンダをねじ込むのが優先で、どの部分がどのように怪しいのかが見た目で分かる。(まあ、眼の前の情報をして、『疑う余地』があると思うのは陰謀論者と創作脳だけとは良く言ったもので……)
それもそのはずで、紙の新聞は言語情報で構成されているのだ。言語情報はメラビアンの法則で言えば一番伝達度が低いが、新聞紙には言語情報しかないので、「今目の前にある文字列を深く読み解くのに」適した形態で、先の新聞社特有のプロパガンダを見破るのが容易な点につながる。……まあ、容易か否かはその人の認知機能や認知の歪みや社会構造の解像度によって左右されるかもしれないし、ハンロンの剃刀の概念を知らないと辛い事になるが、今回のテーマと外れるのでこの辺の話は割愛。
言語情報を読み解く──この場合の『読み解く』は脳内で噛み砕いて理解して、言語化できるまでの過程を指す──上でゆっくりと字を目で追えるというのは何とも気持ちが良いものだ。
で、貧乏で、本物の貧乏性ゆえにお金を出して買っているのだからと新聞を端から端まで読むと、勿論、興味の対象外の記事やコラムやエッセイやなんとか川柳とかも目に入る。図らずも、自分はどれに興味があって今日がないのか自覚させてくれるのでメタ認知を知るのに良い機会でもある。
勿論のこと、一紙だけを教科書の如く有難がるとそれはプロパガンダに飲み込まれている証拠なので、あらゆるメディアに触れる前に「明確な自分」を自己分析と自己洞察である程度把握しておかなければならない。
……というか、メディアに触れる前に自己分析や自己洞察という『メディア論を主体とした護身術』が必要なのは何とも本末転倒な事態である。
目にする言語情報で以てポスト・トゥルースを誘発したり主観と客観の切り分けができないばかりに瞬間湯沸かし沸騰機さながらに他責思考に陥ったりと、「それを防ぐための練習」をするのに、「それを防ぐ練習」をするという、ともすれば、メディアに触れる前から「メディアに触れるべき人間とそうでない人間」、「ある程度の知能と解像度を具えた人間のみ読める」というハードルすら感じてしまう人も一定数いるだろう。これは新聞に限ったことではない。完全に安全なメディアなど存在しない。小学校の学級新聞にもプロパガンダは潜んでいるのだ。
ネットやSNSの情報量とは比較できなほどミニマムで流動性が無い新聞ではあるが、「SNS疲れを覚えているけど世間の情報を軽く知っておきたい」人には紙の新聞をお勧めします。
かくいう私も、SNS疲れで昨今のxの騒動で更に加速した件でTLから離れる時間が多くなりました。その分、読書や執筆に充てられる時間が増えたので、これも丁度いい機会かと思っています。人間の時間的リソースは限られているので、複数のSNSを反復横跳びする時間も体力もないのでどうしようかと思ってた矢先に、アナログなメディアを再評価している最中に心が癒されたわけです。
人間の脳みそはまだ原始人のまま。バージョン1.0のままだという言説も理解できる。科学が進んでも、人間の能力は科学に追いついていない。それは指数関数的にこれからも似たような現象が起きるだろう。
『スマホ脳』の著者のアンデシュ・ハンセンは「スマホは睡眠、運動、学習、社会活動の時間を奪う」とスマホ(主にSNS)を糾弾したが、それはそう、と思う一方で、時代は不可逆なのでデジタルが無かった時代へは戻れない。
これからの時代は益々、個々人が自分で「明確なデジタルとアナログの線引」を探って付き合うしかない。さもなければデジタルが使えなくなった途端に感覚を全て封じられたように何もできなくなる可能性もある。
そうなれば、予め、知識を蓄えて実践して知恵に昇華したモノをどれだけスキルとして蓄えているかが問われると思う。
……畢竟、読解力と言語化能力が人類の最後の切り札になるだろうとも私は予想している。
さて。
コーヒーを飲みながら紙の新聞を捲る。
幼少期に見た、大人の男性の姿の真似ができていますか?
新聞を読むという行為が自発的に行った能動的な再発見ではなく、逃避からの再評価というのがなんとも皮肉なものですが。
