つぶやき

2026.3,5②

2026/03/05 11:52
実存の危機とVUCAの時代で語った場合、サルトル的「自由」による現代社会への警鐘というのは、​現代社会を形容する言葉として定着した「VUCA」(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)によるテクノロジーの指数関数的な進化や地政学的リスクの増大は、かつてないほど我々の未来を不透明なものにしている。
 しかし、この予測不能という言説そのものが、実は我々から主体性を奪う自己欺瞞の装置として機能しているのではないかと思った次第。
 ​ジャン=ポール・サルトルの思想を補助線に、VUCAという概念が現代人に強いている精神の隷属と、そこから脱却するための倫理について考察しますた。
 まず、投企としての人間とVUCAの罠から語りたい。
 ​VUCAの時代において、多くのビジネスリーダーや個人は『解のない時代』に怯え、データやアルゴリズムという外的な指針に救いを求める傾向が顕著である。しかしサルトル的見解だと、人間とは予め決められた本質を持たない存在なのです。
​ 【実存は本質に先立つ】(実存主義はヒューマニズムである)
 ​このテーゼは、人間はまずこの世に存在し、その後に自分を定義していくものである事を示している。VUCAという言葉は、屡々「外部環境が複雑だから、我々は適応するしかない」という受動的な態度を正当化するために使われるが、これはサルトル的観点からは本末転倒。環境が不確実であればあるほど、我々は自らを選択し、自らを創り上げる『投企』としての純粋な自由を突きつけられている。
 で、不安からの逃避と自己欺瞞がありまして。
 ​VUCAがもたらす最大の心理的影響は不安なのですよ。明日何が起こるか分からない恐怖から逃れるため、人々は屡々「自分には選択の余地がなかった」「時代の流れだから仕方ない」という言い訳を用意しますよね。
​「人間は自由という刑に処せられている」(実存主義はヒューマニズムである)
​ 自由とは恩恵ではなく、重荷と考えられます。自分の行動の全責任を自分一人で背負わなければならないからです。VUCAを抗えない嵐のように語る現代の論調は、この責任の重圧から逃れるための自己欺瞞に他ならないかと。
「AIが仕事を奪うから」「市場が不安定だから」という理由は、自らの選択を環境のせいにするための隠れ蓑となってませんか?
 そんな中での状況の中の自由ですが。​サルトルは、人間が完全に孤立して自由を行使できるとは言いませんでした。彼は状況という概念を重視したのです。
​「自由とは、状況を選択することではない。状況を通じて自らを選択することである」(存在と無)
​VUCAとは、現代における我々の「状況」そのものです。この混沌とした状況を嘆くのではなく、あるいは状況に支配されるのでもなく、この混迷した世界を舞台として、自分がどのような人間として振る舞うのか。
不確実性とは、裏を返せば『決定された未来がない』ということであり、個人の意志が介入する余地が最大化されている状態を意味するのです。
底で気になるのが、他者の眼差しと社会的責任ですよね。
​VUCAの時代には、個人の最適化や自己防衛に走りがちです。しかし、実存主義は決して孤立したエゴイズムではないのですよ。サルトルは、自己の選択が全人類に関わると説きました。
​「人間は自己を選択することによって、全人類を選択する」(実存主義はヒューマニズムである)
​一人の人間がVUCAという荒波の中で「誠実」に生きようと選択するとき、その選択は他者にとっても一つのモデルとなります。現代の複雑なサプライチェーンやデジタルネットワークの中では、個人の小さな倫理的決断が、地球の裏側の誰かの実存に直結しています。不確実な時代だからこそ、自分の行動が「全人類の代表としての行動」であるという自覚が(自ずと)求められます。
人間関係としての……​地獄としての他者、連帯としての他者の話ですが、​VUCAの「複雑性」は、人間関係の軋轢も加速させます。SNS上の分断や対立は、サルトルの次の言葉を想起させます。
​「他者とは地獄である」(戯曲『出口なし』)
​これは単に「他人が嫌いだ」という意味でなく、他者の眼差しによって、自分という存在が固定され、客体化されてしまうことへの恐怖を指しています。不透明な社会では、人々は互いをラベルやスペックで判断し、管理しようとします。しかし、この「地獄」を突破するには、他者の自由を認め、共に新しい価値を創造する『社会参加』が必要なのです。
​で、最後に、絶望を超えた先にある行動といいますか。
VUCAの「曖昧性」に直面して無力感に苛まれる人々へ、サルトルは「行動」の重要性を説いているように思えます。
​「希望を持つ必要はない、ただ行動すればよい。人間は自らの行動の総計以外の何物でもない」(『実存主義はヒューマニズムである』)
​未来が明るいという確証(希望)が持てないからといって、立ち止まることは許されようはずはなく。VUCAという言葉を、思考停止のための免罪符にしてはならないと思います。我々が今日、この瞬間に行った決断と行動の積み重ねが、不透明な時代における数少ない輪郭となる気がしてなりません。
​VUCAを飼い慣らす実存的覚悟は有るのかと言われると……。VUCAの時代への警鐘とは、技術や経済の予測の難しさを嘆くことではありません。本当の危機は、不確実性を理由に我々が自らの自由と責任を放棄してしまうことにあるかと。
​サルトルが示したのは、いかに過酷な状況にあっても、人間は自らを定義し直すことができるという強烈な肯定です。VUCAという霧の中を歩むためのコンパスは、外側のデータにはないと思います。それは、自らが何者であるかを決定し続ける、孤独で高潔な意志の中にのみ存在すると思うのです。
​我々はVUCAに飲み込まれる被害者ではなく、この不確実な世界を創造し続ける当事者でなければなりません。

おっと、ストロースの構造主義で煽るのは止めてくれ! 比較分析も勘弁な!

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