Nudge by Bullet

【8】
 それを聞くや否や、男の土気色の顔に大粒の脂汗が噴き出るように浮く。
 人間は、実際に肉体を壊される痛みよりも、次に何が起きるかという『不吉な想像』に支配された時に最も脆く崩れ去る。
 得体の知れない恐怖が、鋭利な刃物のように神経を削り取り、耐え難い絶望へと叩き落とす錯覚を強烈に焼き付ける。
 肉体の損傷が始まる前のその一瞬に、抗いようのない屈服のスイッチが潜んでいる。
「ま、待て! やめろ!」
「お前らの『アタマ』はどこに隠れてる? 一回嘘をつく度に『隣の指に移るよ』」
「知らな……アガアアアッ!」
 全くの無警告に引き金を引く。ルガーGP100の引き金を引く。ファイアリングピンの突き出ていないスタームルガー社のリボルバーの特徴的なハンマーが解放される。チッ、という冷たい金属音。この女は『素直に答えないと何をやらかすか分からない』という誇示。
 バネで弾かれた鋼鉄の塊が男の人差し指第一関節の先端を強打し、嫌な音がした。
 男の吠えるような悲鳴が廊下に響き渡る。左織は眉一つ動かさず、次は中指にハンマーをセットした。
「次はどうする? 両手の全部の指の骨、いっとく?」

――――これだけ時間が経過して銃声も悲鳴も十分に聞こえているはずなのに反撃も増援が駆けつける『威勢のいい気配』が無い。
――――この山荘の残存戦力は3人だとしても、いや、今一人拷問中だから2人だとしても、逃走したと考えるのが普通だな。

 男は泡を吹きながら、震える声で仲間の数や名前や、自分たちの『アタマ』ことリーダー格である男が潜む地下室の入り口を吐き出した。
 左織は相変わらずの無表情で、男の顎先を蹴り飛ばして立ち上がった。
 男は顎先を蹴られ、脳震盪を起こし白目を剥いて床にずるりと倒れる。
 男の言葉を信じるのなら、残りの連中は地下室が広がるフロアに逃げ込んだらしい。
 逃げ場のない場所へ自分から飛び込む場合は、増援が確実に来ることが判明したからだ上手くいけば、増援と自分たちの挟み撃ちで左織を仕留める事ができる。否、確実に仕留めるだけの人数を寄越すだろう。

――――逃走じゃない。籠城……。
――――ははあ、そういうこと。

 山荘に入った時に壁に貼ってあった見取り図を思い出して、【スタッフオンリー】の文字を脳内で検索する。検索しながら歩みを始める。
 人が宿泊するように作られた建築物だ。アトラクションの迷路やお化け屋敷ではないので簡単に地下室へ通じる金属のドアが見つかる。
 地下へ続く扉。
 そのすぐ右に扉を守る厄介な存在。
 指紋認証機。左織は意外にハイテクな部分もあるものだと軽く驚いた。
 軽く驚いた程度だ。直ぐに顔に嘲笑を含む微笑が現れる。
 人の指が触れない部分が薄っすらと埃を被っている指紋認証機の型番を見る。スマートフォンで直ぐにそれを検索して、鼻で笑う。
 『10年前の最新型は今では殆ど役に立たない。』
 形式だけで取り付けたのか、セキュリティに対する認識が低いのか、経費の削減なのか。今では突破方法が解明されているタイプだった。
 埃を被った旧式の認証機を前に、左織は壁の漆喰をアーミーナイフのメインブレードで薄く撫でるように削り取った。床に向かって落ちる白い粉を胸ポケットに差していたメモ帳の表紙で受け止める。
 メモ帳の表紙に薄く積もった細かな白い粉を認証センサーへ静かに吹きかけると、残留した脂の跡に粉が密着し、前任者の指紋が視認しやすく浮かび上がる。
 そこへ、熱を込めるように右手にハァと深く吐息を吹きかけた。
 湿り気を帯びた粉末の紋様を、左織は自らの右手の指先で優しく確実に押し潰す。
 その認証センサーが求めているのは、登録者本人の指そのものではなく、特定の電気信号と紋様の合致だ。
 左織の体温と静電気が漆喰の層を透過し、旧式のセンサーをいとも簡単に欺いた。
 一秒後、音もなく小さなLEDランプが緑色に変化した。乾いた解錠音が響いた。次回にこの山荘に来ることが有れば、この時代遅れの守護者は、新型に交換されているだろう。
 肝心なセキュリティをこんなお粗末なものに任せるとは。デジタルであれば全てのアナログを問答無用で役立たずに変貌させると思い込んでいる嫌いすら伺える。
 デジタルを使う前に、自分の手元に有るデジタル製品で、できることとできないことを知り尽くしていない人間が防犯体制を設計したような、そんなちぐはぐ感を覚える。
 扉を開き、粉の付いた手を払い、蛍光灯が煌々とついている階段を下りた。
 地下と言っても埃が舞い、黴臭く薄暗いダンジョンのようなものではなく、倉庫やボイラー室へと通じる、ごく普通の宿泊施設として必要な設備を集めただけの無機質な空間だ。
 認証センサー付のロックは皆無で、どのドアも何処にでもある鍵穴だった。……かのように見えたが、よく見るとそれぞれの通路へ通じるドアや倉庫と思われるドアの鍵穴はディンプルシリンダー錠やロータリーディスクシリンダー錠などの複数の種類の鍵が混在しており、これはこれで、侵入者が毎回違う鍵を、違う作業で開錠せねばならないという心理的負担を強いて脳を疲労させる罠なのだろう。大方の侵入者は時間との戦いを強いられているので、時間を浪費する障害を一番嫌う。
 目の前の角を折れる前に、足元の高さから、鏡面仕上げのジッポーを突き出して、反転する世界を観察する。
 1人の見張りが、右手に提げた拳銃の安全装置のレバーを弄びながら、緊張を堪えるように立っている。残存戦力の2人のうちの1人だろう。
 左織の侵入を察知して、待ち構えているとは思えないが、その顔つきから警戒を命じられたのは分かる。
 天井を見る。警報装置。火元を検知してアラートを鳴り響かせるだけの働きしかしない。この規模の建物だとスプリンクラーや警報装置が作動しても消防へ自動で通報されるシステムを構築しないのは義務違反ではない。
 左織はパーカーのポケットからいつも吸っているハーフコロナの赤い紙箱から中身を取り出し、葉巻は胸ポケットに折れないように避難させる。
 赤い紙箱をジッポーの火で炙り、大きな火を熾す。
 火は忽ち大きくなり、機能通りに警報装置はアラートを発する。
 それに過剰反応した見張りの男。慌てふためき、見張りとして、また門番として立たされていたはずなのに、さらに奥まった廊下へと走り出す。
 目の前で火の手が上がったのを見ていないのに、火災を報せるアラートと、紙が燃焼する独特の匂いを嗅ぎ取った男の脳内では理性があっけなく焼き切れた。
 一人で警戒と門番と、恐らく撃退も任されていたのだろう。そうなれば心理的な負担は壮絶なものだ。
 それをアラートと紙の燃える匂いで後押しすれば、原始的な生存本能が主導権を握る。
 人間にとって『火』やそれを想起させるもの――紙が燃える匂い――は数多の猛獣よりも根源的な恐怖の対象だ。
 『鉄火場を経験した非童貞』であっても、脳内で『視界を塞ぐ煙と鼻を突く焦げ臭さ』を脳内で逞しくイメージした刹那、闘争心は霧散し、脳は「侵入者を倒せ」という命令を下す前に、「生きてこの場を離れろ」という回路を最優先で選択して接続する。
 武器を構えることさえ忘れ、通路の奥へと助けを求めるように駆け出す男の背中は、文明を脱ぎ捨てた動物の逃走する姿を連想させた。
 後ろ腰から転げ落ちた予備弾倉にも気が付いていないのか、それに構う余裕が無いのか。
 左織を生贄にした大の男たちが悉く無様な『闘争と逃走』を見せる度に左織の心の温度は下がっていく。
 こんなどうしようもない腰抜けに良いように使われた自分を笑い、徒党を組まなければ女一人を生贄に差しだす事もできない情けない男達の『半端者としての覚悟』を笑った。
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