Nudge by Bullet
【5】
『人間の心理や本能をついた仕掛けを用いる組織はえてして、そんなものに頼らなければならないほどに、人も金も足りない。或いは中抜きで、末端は軽く扱われている。少なくとも、この避難所を利用する人間は、大した身分の人間ではない。』
電灯が灯っていない暗いロビーを抜ける。
廊下の途中の壁で見かけた、山荘の避難経路の図を見て、ジッポーのライターの灯りを頼りにその図面を頭に叩き込む。あらかじめ頭に叩き込んだ見取り図と大きく違う点はない。
最初の廊下。
角の向こうに人の気配がある。
左織の左手が閃き、大きく掴んだ手近な花瓶――枯れた花が数本垂れ下がっている――を反対側の壁に向けて放り投げた。
ガシャン! という、期待を裏切らない、瀬戸物が割れる耳障りな音が廊下の奥に染み渡り壁に溶け込む。
案の定、その気配の人物は突発的な音のした方向へ、慌てて走り寄る足音を立てて警戒するように角から首を出す。男は反射的に視線と握っていた拳銃の銃口を左右に振る。
男は音のした左側を向いて、暗がりの向こうにいる人影――左織の影――を見て目を細めて顔をやや突き出す。左織の影が、人の影だと認識できていないのだろう。
左織は素早く、男の死角となる左側面の柱の影に背を預けて待ち、その頭部が視界に現れてから腰を低く落として、右手側の壁に背中をぴたりとくっつける。一見すると暗がりに突然、溶け込む左織の影。
男の視界から幽霊のように消えた左織。
男は口を大きく開けて何事か叫ぼうと息を吸い込んだ。
それを見るなり、「こっちだよ」と、挑発するように小さく呟く。
狭く暗い空間でも、『避難所』……『自分の安全な居場所』の、その空間の出口付近に『何か』がいると脳が認識していると、銃を発砲するのを躊躇ってしまう。
銃を撃つのが怖いのではなく、発砲音が外部に知られる恐怖が瞬間的に大きく膨らむのだ。
アンダーグラウンドの人間は世の中を憚って生きねばならないのに、自ら首を絞めかねない発砲には、心の安全装置が多少なりとも働いてしまい、引き金を引くより、大声や恫喝による行動を優先させてしまう。
男が顔を赤くさせて大きく遮蔽の角から体をせり出しながら銃口を突き出そうとする。
彼が左織を視界に確実に捉える前に、たった2m先にいる左織を、敵だ、侵入者だ、脅威だ、と認識して叫び出す前に、左織は男の手首を掴み、自分の体の方へやや強く引き寄せた。ほんの数秒間、男は左織を見失っていただけなのに……。
男女の膂力差から考えて、抵抗しようと思えば抵抗できるだけの予備動作が取れるほどの力加減で、男の突き出そうとしていた大型軍用自動拳銃を握る右手首を握る。
予想外の方向に咄嗟に強く引かれた人間は、失った体幹のコントロールを調整しようと、無意識にバランスを保とうとして反対側に踏ん張る動作を見せる。立った状態でバランスの異常を感知した脳は、とにかく水平を保てと何よりも優先させて命令する。
男が踏ん張った瞬間、左織はその力を利用して男の突き出ていた軸足の爪先を踏みつけた。足の指の先だ『さぞかし激痛だろう。』
男が痛みに反応し、反撃や銃撃や悲鳴を挙げる前に、ルガーGP100の銃身を男の右脇下から差し込み、捻り上げるように肩関節の隙間に潜り込ませ、テコの原理で一気に跳ね上げる。
「あ、ガッ!」
短い悲鳴。その時点で男は激痛のあまり、白目を剥いていた。関節が外れる鈍い音を銃身伝いに感じて上々の手応えを掴む。
左織は男の右腕を無力化し、そのまま崩れ落ちつつある身体の腹部に一発、肉を抉るような蹴りをスニーカーの爪先で叩き込んだ。……『最近の安全靴はこんなにもカジュアルなデザインで、このようなスニーカー風のモノが職人の店で安く買えるいい時代だ。』
一歩、踏み出す。
あからさまな叫び声が聞こえるわけではない。
だが人は『自分だけが損――怪我や不利益を被る――をする』状況を何よりも嫌う生き物だ。
もしここに、僅かな違和感から最悪の事態を予見できる『鼻の利く者』が一人でもいれば話は『実に御しやすい方向へと転がる。』
連中は自分の身を守るために、すでに損切りを終えて逃げ出しているか、或いは「自分たちだけは助かろう」と、特に仲の良い身内にだけ注意を漏らしている可能性が高い。
2階への階段。踊り場で立ち止まった左織は、上に人の気配があることに気づいていた。
何事か雑談しながらこちらに歩く、2人の男。
その挙動は全て掴んでいたが、引き返すには不自然な位置まで来てしまっている。足音が聞かれるリスクの方が大きい。
左織は意を決して息を殺し、それならばと「通りますよ」という顔で、ふらりと階段を登り切った。
「!」
「!」
「あ」
その場で膠着する3人。
予想していた反応とはいえ、改めて対峙すると、酷く間抜けな空気が場を通過していく。
男たちの、何故こんなところに? という無言の反応。
人間は、警戒や注意をしていても、認識の範囲外からの登場に対しては、驚愕や恐怖よりも先に『何がそこに有るのか?』という情報収集のために、一瞬だけ思考が停止したように体が膠着する。
まだ『現れたという段階』だ。
左織の侵入と襲撃を予見しての行動とは思えない。思考に空白ができるほどの硬直ぶりから、様々な情報が拾えた。
連中は左織の侵入どころか『自分たちが危険な事をした代償を払わされる立場にないし、そんな事はしたことが無い』という罪の意識の欠落が汲み取れる。
避難所の役目を果たす山荘も大方、連中には都合のいい宴会場程度の場所なのだろうか。
山荘に侵入し、最初の犠牲者の発した悲鳴や肉と関節が壊れる生々しい音は誰も拾っていない。
標的である8人中1人が少々離席しても、誰も意に介さないほど、ここを共通の『コンフォートゾーン』――安全な場所――と認識している。
特に、その情報は大切だ。
『コンフォートゾーン』だと連中が認識しているのは重要なポイントだ。
何故なら……。
左織は階段の手すりを左手でしっかり掴んで、大きく前方へ飛び、一人の男の懐へ腰から下を潜り込ませた。
元から互いが触れられる距離で、左織は一番手近に居た男の腰を両足で挟んで引き摺り寄せながらルガーGP100を右手で構える。
折角抜いた自動拳銃は、左織が近過ぎて男は銃を構えられない。
腰を彼女にがっちりとホールドされているので大きく行動半径を広げる事も出来ない。喚き散らす男。流石にこれは防ぎようもない。静音性は保たれない。この廊下の向こうが騒然とするのを鼓膜の奥が拾う。
その右手側。やや後方に居るもう一人の男も銃を抜くが、仲間の背中が邪魔で闖入者が隠れてしまい、照準を定められずにいる。
左織は右手を片手一本で大きく伸ばし、両太ももで腰をホールドしている男の顔のすぐ左横で、一発放った。
廊下を席巻する甲高い銃声。
357マグナムと同じ初速ではあるが、明らかに異質な銃声が廊下を突き抜ける。
開戦の鏑矢としては上々だ。
左織に行動を制限された男の耳元で火を吹いた銃声は、音と呼べるものではなかった。
目に見えない巨大な鉄槌が、頭蓋骨を外側からひっぱたいたような、暴虐なまでの衝撃が男の頭蓋内部を蹂躙する。
凄まじい圧力は耳の奥にある繊細な感覚を情け容赦なく踏み荒らし、男から『上と下』の概念を奪い去った。
『人間の心理や本能をついた仕掛けを用いる組織はえてして、そんなものに頼らなければならないほどに、人も金も足りない。或いは中抜きで、末端は軽く扱われている。少なくとも、この避難所を利用する人間は、大した身分の人間ではない。』
電灯が灯っていない暗いロビーを抜ける。
廊下の途中の壁で見かけた、山荘の避難経路の図を見て、ジッポーのライターの灯りを頼りにその図面を頭に叩き込む。あらかじめ頭に叩き込んだ見取り図と大きく違う点はない。
最初の廊下。
角の向こうに人の気配がある。
左織の左手が閃き、大きく掴んだ手近な花瓶――枯れた花が数本垂れ下がっている――を反対側の壁に向けて放り投げた。
ガシャン! という、期待を裏切らない、瀬戸物が割れる耳障りな音が廊下の奥に染み渡り壁に溶け込む。
案の定、その気配の人物は突発的な音のした方向へ、慌てて走り寄る足音を立てて警戒するように角から首を出す。男は反射的に視線と握っていた拳銃の銃口を左右に振る。
男は音のした左側を向いて、暗がりの向こうにいる人影――左織の影――を見て目を細めて顔をやや突き出す。左織の影が、人の影だと認識できていないのだろう。
左織は素早く、男の死角となる左側面の柱の影に背を預けて待ち、その頭部が視界に現れてから腰を低く落として、右手側の壁に背中をぴたりとくっつける。一見すると暗がりに突然、溶け込む左織の影。
男の視界から幽霊のように消えた左織。
男は口を大きく開けて何事か叫ぼうと息を吸い込んだ。
それを見るなり、「こっちだよ」と、挑発するように小さく呟く。
狭く暗い空間でも、『避難所』……『自分の安全な居場所』の、その空間の出口付近に『何か』がいると脳が認識していると、銃を発砲するのを躊躇ってしまう。
銃を撃つのが怖いのではなく、発砲音が外部に知られる恐怖が瞬間的に大きく膨らむのだ。
アンダーグラウンドの人間は世の中を憚って生きねばならないのに、自ら首を絞めかねない発砲には、心の安全装置が多少なりとも働いてしまい、引き金を引くより、大声や恫喝による行動を優先させてしまう。
男が顔を赤くさせて大きく遮蔽の角から体をせり出しながら銃口を突き出そうとする。
彼が左織を視界に確実に捉える前に、たった2m先にいる左織を、敵だ、侵入者だ、脅威だ、と認識して叫び出す前に、左織は男の手首を掴み、自分の体の方へやや強く引き寄せた。ほんの数秒間、男は左織を見失っていただけなのに……。
男女の膂力差から考えて、抵抗しようと思えば抵抗できるだけの予備動作が取れるほどの力加減で、男の突き出そうとしていた大型軍用自動拳銃を握る右手首を握る。
予想外の方向に咄嗟に強く引かれた人間は、失った体幹のコントロールを調整しようと、無意識にバランスを保とうとして反対側に踏ん張る動作を見せる。立った状態でバランスの異常を感知した脳は、とにかく水平を保てと何よりも優先させて命令する。
男が踏ん張った瞬間、左織はその力を利用して男の突き出ていた軸足の爪先を踏みつけた。足の指の先だ『さぞかし激痛だろう。』
男が痛みに反応し、反撃や銃撃や悲鳴を挙げる前に、ルガーGP100の銃身を男の右脇下から差し込み、捻り上げるように肩関節の隙間に潜り込ませ、テコの原理で一気に跳ね上げる。
「あ、ガッ!」
短い悲鳴。その時点で男は激痛のあまり、白目を剥いていた。関節が外れる鈍い音を銃身伝いに感じて上々の手応えを掴む。
左織は男の右腕を無力化し、そのまま崩れ落ちつつある身体の腹部に一発、肉を抉るような蹴りをスニーカーの爪先で叩き込んだ。……『最近の安全靴はこんなにもカジュアルなデザインで、このようなスニーカー風のモノが職人の店で安く買えるいい時代だ。』
一歩、踏み出す。
あからさまな叫び声が聞こえるわけではない。
だが人は『自分だけが損――怪我や不利益を被る――をする』状況を何よりも嫌う生き物だ。
もしここに、僅かな違和感から最悪の事態を予見できる『鼻の利く者』が一人でもいれば話は『実に御しやすい方向へと転がる。』
連中は自分の身を守るために、すでに損切りを終えて逃げ出しているか、或いは「自分たちだけは助かろう」と、特に仲の良い身内にだけ注意を漏らしている可能性が高い。
2階への階段。踊り場で立ち止まった左織は、上に人の気配があることに気づいていた。
何事か雑談しながらこちらに歩く、2人の男。
その挙動は全て掴んでいたが、引き返すには不自然な位置まで来てしまっている。足音が聞かれるリスクの方が大きい。
左織は意を決して息を殺し、それならばと「通りますよ」という顔で、ふらりと階段を登り切った。
「!」
「!」
「あ」
その場で膠着する3人。
予想していた反応とはいえ、改めて対峙すると、酷く間抜けな空気が場を通過していく。
男たちの、何故こんなところに? という無言の反応。
人間は、警戒や注意をしていても、認識の範囲外からの登場に対しては、驚愕や恐怖よりも先に『何がそこに有るのか?』という情報収集のために、一瞬だけ思考が停止したように体が膠着する。
まだ『現れたという段階』だ。
左織の侵入と襲撃を予見しての行動とは思えない。思考に空白ができるほどの硬直ぶりから、様々な情報が拾えた。
連中は左織の侵入どころか『自分たちが危険な事をした代償を払わされる立場にないし、そんな事はしたことが無い』という罪の意識の欠落が汲み取れる。
避難所の役目を果たす山荘も大方、連中には都合のいい宴会場程度の場所なのだろうか。
山荘に侵入し、最初の犠牲者の発した悲鳴や肉と関節が壊れる生々しい音は誰も拾っていない。
標的である8人中1人が少々離席しても、誰も意に介さないほど、ここを共通の『コンフォートゾーン』――安全な場所――と認識している。
特に、その情報は大切だ。
『コンフォートゾーン』だと連中が認識しているのは重要なポイントだ。
何故なら……。
左織は階段の手すりを左手でしっかり掴んで、大きく前方へ飛び、一人の男の懐へ腰から下を潜り込ませた。
元から互いが触れられる距離で、左織は一番手近に居た男の腰を両足で挟んで引き摺り寄せながらルガーGP100を右手で構える。
折角抜いた自動拳銃は、左織が近過ぎて男は銃を構えられない。
腰を彼女にがっちりとホールドされているので大きく行動半径を広げる事も出来ない。喚き散らす男。流石にこれは防ぎようもない。静音性は保たれない。この廊下の向こうが騒然とするのを鼓膜の奥が拾う。
その右手側。やや後方に居るもう一人の男も銃を抜くが、仲間の背中が邪魔で闖入者が隠れてしまい、照準を定められずにいる。
左織は右手を片手一本で大きく伸ばし、両太ももで腰をホールドしている男の顔のすぐ左横で、一発放った。
廊下を席巻する甲高い銃声。
357マグナムと同じ初速ではあるが、明らかに異質な銃声が廊下を突き抜ける。
開戦の鏑矢としては上々だ。
左織に行動を制限された男の耳元で火を吹いた銃声は、音と呼べるものではなかった。
目に見えない巨大な鉄槌が、頭蓋骨を外側からひっぱたいたような、暴虐なまでの衝撃が男の頭蓋内部を蹂躙する。
凄まじい圧力は耳の奥にある繊細な感覚を情け容赦なく踏み荒らし、男から『上と下』の概念を奪い去った。
