Nudge by Bullet
【2】
受話口の向こうからは、想像通りの下品な笑い声と品性が感じられない罵声が聞こえた。絶対的優位からの嘲笑ではなく、「今頃そんなくだらない話を持ち出したこの女は馬鹿なのか?」という、『論点がずれた笑い』だ。
左織は情報屋だ。
仕事仲間に嵌められ、命からがら逃げてきた。
端的に言うと、自分が唆されて生贄に近い囮として鉄火場に立たされた。彼女は鉄火場には慣れていたが、専門の訓練を受けた荒事師ではない。
それが、『連中』の計算違いが、発生した瞬間だ。
彼女には生き残る才能があった。『生き残る才能を利用する才能』があった。
人間の『思考の癖』を直感で見抜き、人間の無意識の行動を操る力。博物学的分類では、それは学者が行動経済学や心理学と呼ぶものを、日常と非日常が混じるストリートの観察と呼吸で体得した実戦的な知恵だった。
山荘の中に潜むのは、自分を罠に嵌めた黒幕の手下、8人。
その8人を操る黒幕に用は無い。
大きな組織の末端の8人。事実上の実働要員で、左織を鉄火場のど真ん中に放置して彼女が集中砲火で手も足も出ない間に、連中は目的の品を奪い、左織を救出することなく脱出を図り、連中の任務は成功した。
左織でなければ死んでいた。
※ ※ ※
一か月前。
深夜1時。まだ暑い空気が不快に頬を撫でる季節の最中。
銃声が止み、鼓膜を劈くような耳鳴りが左織を襲う。
全周囲に散り、緩やかに包囲の陣を形成した7人の男たちが、中心に立ち尽くす彼女へ銃口を向けていた銃口を下げる。再装填のロスが発生しているのに誰も急いで再装填しようとしていない。「何かが起きれば誰かがこの女を撃つだろう」と、全員が同じ思考で左織を見ていた。
誰も彼もが嗜虐の目で左織を舐める。
獲物を前に舌なめずり。脳内に溢れる高揚感が、自分を支配者だと錯覚させている。相手を食い物と見なし、勝機を確信したつもりの万能感。
遮蔽も何も無い。深夜の市民グラウンドの一角にある野球場のど真ん中。
ピッチャーマウンドのやや後方に案山子のように立つ左織。前後左右。何処を見ても下卑た笑いを浮かべる男たちが視界に入る。全員が自動拳銃で武装。追い立てられて逃走を図り続けたのになぜか、逃げれば逃げるほど追っ手に先手を取られて、包囲される。
本来ならば彼女は『本隊』が先行し、『本隊』が周りのこいつらを足止めしているうちに、左織が目的のグラウドの管理棟へと侵入し情報を集められるだけ集めて、退路も『本隊』が確保してくれているはずなのでそれに従い撤退するはずだった。
左織の役目はこの時代では珍しい、アナログな鍵を幾つか突破して、管理棟の最奥の部屋にあるパソコンにUSBメモリを差して撤退するだけだ。そのUSBメモリに何が入っているかは知らない。ウイルスの類だろうが、それは彼女の知る事ではない。
偶々、アナログなセキュリティに対して多少の知識が有り、偶々、他の仕事とブッキングしていなかったので引き受けた仕事だった。……左織の業界での知名度は中の上。ごく普通の、ごく普通に仕事ができる情報屋でしかない。ただ、アナログに対する理解があっただけだ。
今しがた、足元に散々、彼らの自動拳銃の銃弾を叩き込まれている最中に、恐怖からの防衛機制として一過性の解離症を引き起こし、呆然と立ち尽くしていた。
生きる事を放棄……否、思考を一切停止して立ち尽くす体。
それはそれとして、事態を冷静に客観視する頭脳。
脳が処理しきれない致死量の恐怖を前に、意識は肉体を置き去りにして、水槽の底から水面を見上げるような静寂へと避難していた。
鼓膜を突き刺す甲高い耳鳴りはどこか遠い国の雷のように輪郭を失う。跳ね上がって足元を汚す泥も、熱を帯びた薬莢の輝きも、網膜に映る全てが低解像度の映画のように現実味を欠いている。
左織は、左織というシステムの崩壊を、ただ一人の観客として眺めていた。
朦朧とする意識のまま、生きる事を手放した彼女は、急に小さなくしゃみをした。風に乗った硝煙が鼻腔をくすぐったのか、足元の砂埃を吸ってしまったのか?
そのくしゃみが意識を繋ぎ止めるアンカーとなり、目の焦点が急激に調整され、尻でも叩かれたように、身構えて辺りを見回す。
自分を包囲する男たちの『眼』を順番に眺めた。
一見、完璧な包囲網だ。
だが、人数が多いことが逆に彼らの注意を鈍らせている。『完全に優位だと高をくくっている大の男が7人もいれば、誰かが引き金を引く。自分が外しても隣の奴が当てる。そんな甘えが、男たちの指先に僅かな緩みを生んでいた』。
左織は彼らの銃口が全て、自分を狙っていないのと、銃口の先と視線の先が一致していない事、そして、この場で悠々と弾倉を交換している者が混じっているのを見て確信した。
左織を中心に、半径30m程の円。
連中は同士討ちするかもしれない陣形で、たった独りを囲んで、一人の女を甚振ることに快感を覚えていた。
このような展開になるのは、こいつらの作戦なのか、左織を『裏切ったと思われる連中』のお膳立てなのか、こいつらと『本隊の連中』があらかじめ決めていたのかは不明だ。
『こいつらは起きるはずの無い事に対しては非常に脆い状態だ。』それはたった今、理解した。
こいつらの意識は『自分が仕留める』ことから、『誰かが仕留めるのを待つ』という受動的な状態に変質している。
左織は、こいつらの中でも最も若く、肩を強張らせている男に狙いを定めた。
『その男でなければ、この場は、ダメだった。絶対に他の男ではダメだった。』
周囲の6人を意識から消す。
左織はノイズを消すのではなく、ノイズの中にある『純粋な一点』を見つけるつもりで意識を集中させる。
他の人間の形を成したノイズには目もくれず、ただ、その若者一人だけを喉笛を噛みちぎってでも殺さんと、獰猛な視線で睨みつける。
口元は静かなままだが、口角がわずか数ミリ、痙攣するように跳ね上がった。
笑みではなく、獲物の皮を剥ぐ瞬間を幻視した肉食獣の愉悦。
若者の脳は、彼女の無表情の裏側に潜む、膨大な質量を持った暴力の予兆を読み取ってしまった。
左織の片眉が上がり、3秒以上彼の眼を視線で射抜いた。
人間の視線同士でのノンバーバルな「会話」は3秒が限界だ。3秒以上見つめられるとストレスを感じてしまい、無意識に注意、警戒や恐怖、逃避と言った警告を脳が発する。
先ほどの恐怖で乖離した、呆けたようにも見える彼女の表情が剥がれ落ちたように……しかし熱く、確実な殺意を込めて、その方へ、彼の方へ一歩踏み出した。爪先を向けてからのほんの一歩だ。
若者の顔から血の気が引いた。
他の6人には認識できていない凶暴な眼光。
凶暴な眼光だと錯覚させる演技。
3秒以上見つめられるとストレスを感じる。彼女がかつて対人スキルを会得する上で学んだ、人間が『自分自身』であるための境界線だった。
今の左織はその境界を、土足で踏み越えていた。……彼の心に視線だけで恐怖を注ぎ込んだのだ。……身体が硬直するほどの。
その演技に嵌る可能性が高い若い男。自分より少し若いだろうか。
明らかに鉄火場に慣れていない。人を殺したことの無い童貞。気の弱さと練度の低さが、手にしている自動拳銃に現れている。
受話口の向こうからは、想像通りの下品な笑い声と品性が感じられない罵声が聞こえた。絶対的優位からの嘲笑ではなく、「今頃そんなくだらない話を持ち出したこの女は馬鹿なのか?」という、『論点がずれた笑い』だ。
左織は情報屋だ。
仕事仲間に嵌められ、命からがら逃げてきた。
端的に言うと、自分が唆されて生贄に近い囮として鉄火場に立たされた。彼女は鉄火場には慣れていたが、専門の訓練を受けた荒事師ではない。
それが、『連中』の計算違いが、発生した瞬間だ。
彼女には生き残る才能があった。『生き残る才能を利用する才能』があった。
人間の『思考の癖』を直感で見抜き、人間の無意識の行動を操る力。博物学的分類では、それは学者が行動経済学や心理学と呼ぶものを、日常と非日常が混じるストリートの観察と呼吸で体得した実戦的な知恵だった。
山荘の中に潜むのは、自分を罠に嵌めた黒幕の手下、8人。
その8人を操る黒幕に用は無い。
大きな組織の末端の8人。事実上の実働要員で、左織を鉄火場のど真ん中に放置して彼女が集中砲火で手も足も出ない間に、連中は目的の品を奪い、左織を救出することなく脱出を図り、連中の任務は成功した。
左織でなければ死んでいた。
※ ※ ※
一か月前。
深夜1時。まだ暑い空気が不快に頬を撫でる季節の最中。
銃声が止み、鼓膜を劈くような耳鳴りが左織を襲う。
全周囲に散り、緩やかに包囲の陣を形成した7人の男たちが、中心に立ち尽くす彼女へ銃口を向けていた銃口を下げる。再装填のロスが発生しているのに誰も急いで再装填しようとしていない。「何かが起きれば誰かがこの女を撃つだろう」と、全員が同じ思考で左織を見ていた。
誰も彼もが嗜虐の目で左織を舐める。
獲物を前に舌なめずり。脳内に溢れる高揚感が、自分を支配者だと錯覚させている。相手を食い物と見なし、勝機を確信したつもりの万能感。
遮蔽も何も無い。深夜の市民グラウンドの一角にある野球場のど真ん中。
ピッチャーマウンドのやや後方に案山子のように立つ左織。前後左右。何処を見ても下卑た笑いを浮かべる男たちが視界に入る。全員が自動拳銃で武装。追い立てられて逃走を図り続けたのになぜか、逃げれば逃げるほど追っ手に先手を取られて、包囲される。
本来ならば彼女は『本隊』が先行し、『本隊』が周りのこいつらを足止めしているうちに、左織が目的のグラウドの管理棟へと侵入し情報を集められるだけ集めて、退路も『本隊』が確保してくれているはずなのでそれに従い撤退するはずだった。
左織の役目はこの時代では珍しい、アナログな鍵を幾つか突破して、管理棟の最奥の部屋にあるパソコンにUSBメモリを差して撤退するだけだ。そのUSBメモリに何が入っているかは知らない。ウイルスの類だろうが、それは彼女の知る事ではない。
偶々、アナログなセキュリティに対して多少の知識が有り、偶々、他の仕事とブッキングしていなかったので引き受けた仕事だった。……左織の業界での知名度は中の上。ごく普通の、ごく普通に仕事ができる情報屋でしかない。ただ、アナログに対する理解があっただけだ。
今しがた、足元に散々、彼らの自動拳銃の銃弾を叩き込まれている最中に、恐怖からの防衛機制として一過性の解離症を引き起こし、呆然と立ち尽くしていた。
生きる事を放棄……否、思考を一切停止して立ち尽くす体。
それはそれとして、事態を冷静に客観視する頭脳。
脳が処理しきれない致死量の恐怖を前に、意識は肉体を置き去りにして、水槽の底から水面を見上げるような静寂へと避難していた。
鼓膜を突き刺す甲高い耳鳴りはどこか遠い国の雷のように輪郭を失う。跳ね上がって足元を汚す泥も、熱を帯びた薬莢の輝きも、網膜に映る全てが低解像度の映画のように現実味を欠いている。
左織は、左織というシステムの崩壊を、ただ一人の観客として眺めていた。
朦朧とする意識のまま、生きる事を手放した彼女は、急に小さなくしゃみをした。風に乗った硝煙が鼻腔をくすぐったのか、足元の砂埃を吸ってしまったのか?
そのくしゃみが意識を繋ぎ止めるアンカーとなり、目の焦点が急激に調整され、尻でも叩かれたように、身構えて辺りを見回す。
自分を包囲する男たちの『眼』を順番に眺めた。
一見、完璧な包囲網だ。
だが、人数が多いことが逆に彼らの注意を鈍らせている。『完全に優位だと高をくくっている大の男が7人もいれば、誰かが引き金を引く。自分が外しても隣の奴が当てる。そんな甘えが、男たちの指先に僅かな緩みを生んでいた』。
左織は彼らの銃口が全て、自分を狙っていないのと、銃口の先と視線の先が一致していない事、そして、この場で悠々と弾倉を交換している者が混じっているのを見て確信した。
左織を中心に、半径30m程の円。
連中は同士討ちするかもしれない陣形で、たった独りを囲んで、一人の女を甚振ることに快感を覚えていた。
このような展開になるのは、こいつらの作戦なのか、左織を『裏切ったと思われる連中』のお膳立てなのか、こいつらと『本隊の連中』があらかじめ決めていたのかは不明だ。
『こいつらは起きるはずの無い事に対しては非常に脆い状態だ。』それはたった今、理解した。
こいつらの意識は『自分が仕留める』ことから、『誰かが仕留めるのを待つ』という受動的な状態に変質している。
左織は、こいつらの中でも最も若く、肩を強張らせている男に狙いを定めた。
『その男でなければ、この場は、ダメだった。絶対に他の男ではダメだった。』
周囲の6人を意識から消す。
左織はノイズを消すのではなく、ノイズの中にある『純粋な一点』を見つけるつもりで意識を集中させる。
他の人間の形を成したノイズには目もくれず、ただ、その若者一人だけを喉笛を噛みちぎってでも殺さんと、獰猛な視線で睨みつける。
口元は静かなままだが、口角がわずか数ミリ、痙攣するように跳ね上がった。
笑みではなく、獲物の皮を剥ぐ瞬間を幻視した肉食獣の愉悦。
若者の脳は、彼女の無表情の裏側に潜む、膨大な質量を持った暴力の予兆を読み取ってしまった。
左織の片眉が上がり、3秒以上彼の眼を視線で射抜いた。
人間の視線同士でのノンバーバルな「会話」は3秒が限界だ。3秒以上見つめられるとストレスを感じてしまい、無意識に注意、警戒や恐怖、逃避と言った警告を脳が発する。
先ほどの恐怖で乖離した、呆けたようにも見える彼女の表情が剥がれ落ちたように……しかし熱く、確実な殺意を込めて、その方へ、彼の方へ一歩踏み出した。爪先を向けてからのほんの一歩だ。
若者の顔から血の気が引いた。
他の6人には認識できていない凶暴な眼光。
凶暴な眼光だと錯覚させる演技。
3秒以上見つめられるとストレスを感じる。彼女がかつて対人スキルを会得する上で学んだ、人間が『自分自身』であるための境界線だった。
今の左織はその境界を、土足で踏み越えていた。……彼の心に視線だけで恐怖を注ぎ込んだのだ。……身体が硬直するほどの。
その演技に嵌る可能性が高い若い男。自分より少し若いだろうか。
明らかに鉄火場に慣れていない。人を殺したことの無い童貞。気の弱さと練度の低さが、手にしている自動拳銃に現れている。
