Nudge by Bullet

【1】
 晩秋の黒い空。暗い空。暑い風が僅かに変化した空。
 とうに日は暮れた。少なくとも山間部にあるこの地区は早く太陽が翳る。
 今朝から降り続く雨が、黒い路面を激しく叩いていた。既に日が落ち、夜の帳が世界を包んでから、雨自体が黒い液体ではないかと言う猜疑心を抱きそうだ。
 途中で体温の低下を防ぐためにポンチョ型の雨合羽を羽織ったが、窃盗したバイクがスーパーカブ110で、背中に小さな背負子を担いでいたので、体を叩き付ける雨から完全に守る事は出来なかった。
 先ほど、山間部の山荘へ向かう途中に、背負子で背負っていたストップスティックを10本ほどばら撒いてきた。
 更に数分の走行の後、1、2本のストップスティックを疎らにばら撒く。彼女の後から来る者が居るとすれば、大いに迷惑をこうむるだろう。
 これを踏むとタイヤの空気が徐々に抜けてしまい、『非常に面倒な足止め』を強いられる。
 これがランダムな場所にランダムな本数が、ランダムにばら撒かれていると、この先の何処に何がどれだけ落ちているか分からないという疑いが強くなり、追跡者は思い切ってアクセルを踏めない。仮に何も無くとも、一度でも酷い手間を経験すると警戒心は強くなり、それは速度よりも注意に脳のリソースが割かれる。
 目指すのは山間部の山荘。
 この時期は天気に恵まれていれば、トレッキングやハイキングの客で賑わう絶好の行楽コースで、何処の山道も賑やかなものだった。夜でさえ、キャンプ場の客が買い忘れの品を買いに行くために車で下山して往来する姿が時々見られた。
 ただ、その山荘だけは、人が利用しているのにも関わらず、辺りは観光名所然とした整地された道路とは言い難い。
 あたかも予算の都合で放置されたかのような、ひび割れたのり面や転がる落石が処理されていないアスファルトの道路。何年も交換されていないような古いデザインのガードレールが転落を防止する姿を見せてアピールしている。
 たったの道一本。分岐する道が一つ違うだけで、切り取られたように寂れた『廃業した山荘』へと続く。
 道路照明灯が機能しているので、夜でも問題なく、この道を車やバイクで走る事は可能だが、この道をバイクや車で走る事は『人生の何かの問題』に引き込まれるような薄暗さが際立っていた。
 言語化の難しい、強烈な違和感。
 それらを全て腹に呑み込んで。それら不穏な……昨今の世情を表すVUCA――Volatility(変動性)。Uncertainty(不確実性)。Complexity(複雑性)。Ambiguity(曖昧性)――を『一般道を用いて表現せよ』と言うお題でデザインされて整備されて、実用化されたかのよう。……負の何かを感じさせるが、その負が何に分類されるか分からない不気味さの具現がこの道路だ。
 ……それらを全て腹に呑み込んで。
 それらを全て腹に呑み込んで、彼女は自分の物ではない、盗難車のスーパーカブ110から降り立った。
 盗難車故に自身の体の延長線のように自在に操れているとは言えないがなんとか到着。早急な整備が必要な路面を注意深く走り、落石が何か所かあったが幸いにも踏みつけることは無く、彼女はここに来て、ここに降り立った。
 ストップスティックを撒き散らす工作が必要だったので、大したスピードが出せなかったのが図らずも、安全運転に繋がったのかもしれない。
 分岐を一つ間違えればここに来る。分岐が正しければ、明るい世界の住人が明るい世界を謳歌するためのレジャー施設へと到着できる、そんな道。
 駐車場へ入る前に停車。ポンチョを脱ぎ捨て、その下の背負子を肩から下し、歩道の脇の雑木林に投げ込む。黒いパーカーを捲り腹のベルトの辺りに差し込んでいた黒いキャップ帽を抜き出す。
 一振りして、前髪を掻き上げながら、それを被る。
 雨足が遠のき、微細な粒子となった雨が雫の光を白く濁らせる。
 気化熱が周囲の温度を奪い、霧が立ち込めそうな気温は一段と急降下した。
 空を覆っていた断熱材代わりの雲が薄れ、放射冷却が容赦なく底冷えを運んでくるだろう。
 この白濁した闇は悪くない兆しかもしれない。高気圧が背後に迫っている証拠だ。朝霧が晴れれば、明日は嫌になるほどの秋晴れが拝めるはずだ。
 スーパーカブを押し、『廃業を前提に作られた山荘』へと向かう。
 雑に刈り払い機で雑草が薙ぎ倒された広大な敷地内へと入る。
 スーパーカブを、駐車している車が皆無の駐車場の真ん中まで押していき、区画線の車室は無視。
 すうっと息を吐き、徐に左手でハンドルを握る。
 右手でリアキャリアを掴み、右足に重心を移動させてスタンドを地面に力強く踏む。息を鋭く吸いながら体重を後ろにかけ、スーパーカブのスタンドを立てる。大きく軋む音に反応する者はここには居ない。
 大江左織(おおえ さおり)。27歳。
 もうすぐ美容室に行こうかと思っているほどの襟足が長くなってきた黒髪のショートカットに、猛禽類の深い翳りを湛えた鋭い美貌。輪郭の隅に時折、悪戯を思いついた子供のようなあどけない表情が一瞬だけ浮き上がるのが彼女のチャームポイントだが、自覚はない。
 彼女は黒いパーカーのフードを被り、その下に黒いキャップ帽を深く被っている。ジーンズに黒いスニーカーという、闇に紛れるための装い。
 パーカーのハンドウォームから取り出した赤い紙箱から葉巻を抜き出し、無造作に前歯でアルミ包装を剥く。
 唇の端にヘンリーウインターマンのハーフコロナをしっかり銜えながら、鏡面仕上げの美しいジッポーで先端を炙る。今現在では殆ど唯一、国内で流通しているハーフコロナのドライシガー。インドネシア群島の葉を用いた、安価だが力強く確かな香りを放つその葉巻の煙が、彼女の顔を燻して、微かに曇らせていた。
 彼女の膨らむ左脇には異様な存在感を放つ鉄の塊が呑み込まれていた。見た目以上に重いモノ。
 スタームルガーGP100。
 本来は357マグナムを6発呑み込んで、強力な弾丸を撃ち出すための頑強なリボルバー。
 銃身長やサイトのバリエーションも様々。彼女が選んだのは327フェデラルマグナム仕様。小口径ゆえに1発多い7発の装弾数を誇り、反動のコントロールが容易で貫通力に秀でている。
 銃身長は4インチ。サイトはS&W M10のフィクスドサイトに似た、シンプルな、引っ掛かりの無いサイト。
 グリップパネルもメーカー純正品で、それは彼女にとって、最も握り易く、最も平凡なデザインの樹脂と木製パネルを組み合わせた、ルガーリボルバーのアイコン的なデザイン。
 無骨なそれを用いて、暴力の限りを尽くすためにここに来た。
 パーカーのフロントジッパーを左手で下げながら、口から乱暴に大量の煙を吐く。
 彼女の顔が半分くらい隠れるような、そんな大量の煙だった。味わうための吸い方ではない。憤りの感情を具現化。不快な感情の内圧を下げようと、煮え立つ薬缶の蓋を開けたような顔で紫煙を吐いたのだ。
「偽の情報を掴ませて、私を売った。そのツケは高くつくよ」
 ……そのように、『連中』の一人に飛ばし携帯から連絡を入れたのは半日前。
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