歪んだ弾道

 それ以外の説明は彼女には不要だった。否、彼女はそれ以外の説明を拒否し否定し、3Fの段階――フリーズ(膠着)、フライト(逃走、誤魔化し、すり替え)、ファイト(反撃、駁撃、詭弁の展開)――を踏んで、発言者を攻撃するだろう。
 神崎に酷似した人間は大の字になって怠惰を貪っていたわけではなかった。
 彼は既にこの世に無く、抜け殻だけが晒された状態で冷たくなりつつあった。……直接の死因は後頭部に大きく広がる血液から見て、仰向けに倒れた時にできた後頭部の脳挫傷。その原因を作ったのは喉仏に開いた小さな孔。弾痕。三十二口径が至近距離から直撃したものだ。
 涼子は神崎に似た人物の懐を漁り、免許証や財布、スマートフォンを集めて中身を確認する。スマートフォンはロックがかかっていたのでどうしようもないが、免許証と財布の中身から、この人物が神崎徹本人で間違いないと証明された。
 神崎のそっくりさんではなかった。
 とうに本懐を遂げていた。
 無駄な銃弾を使った。
 無駄な負傷をした。
 肩から力が抜けて、急激に腹部の小さな銃創が疼くように痛みだす。
 爪先が僅かに重い。寒気を伴う倦怠感。風邪を引いたかのような小癪な不快感。……心身に起きている事態と、腹部の負傷が一致しないほどの観察眼を失っている。明らかに腹部の小さな銃創が原因で血液を喪い、腹膜の力が抜けているのにアドレナリンの残余が彼女を痛みから今まで守っていたのだ。アドレナリンの魔法が解けようとしていた。
 彼女が腹部に受けたのはコルトの六連発の懐中自動拳銃から発せられた二十五口径フルメタルジャケット。
 嘗ては野良犬や酔っぱらいを追い払うのに使われていた殺傷力が低い銃弾。
 バイタルゾーンに至近距離から一発まともに受けたとしても致死に至る可能性が低いとされている。……だが、負傷を放置して適切な手当てをしなければ失血死の可能性は高い。ましてや、腹部だ。銃弾も貫通していない。盲管となった銃弾ほど恐ろしい物はない。豆粒のような小さな弾頭は確実に彼女の命を削っている。
 涼子は既に息絶えた神崎の、予想通りに酷い死に顔を見下ろしながら、彼の死体のそばに立つ。
 ゆらり、と、右手のブローニング自動拳銃を心臓も脳波も停止した彼の顔に向ける。
 引き金の指に力を籠める。
「女ぁ!」
 この場にそぐわない叫び声。
 少し前に右頸部の頸動脈にブローニングのタマが掠って噴血して倒れて男が、小さく平べったいコルト25オートを右手一杯に伸ばしてこちらに銃口を向けて、未だ流血が止まらぬ頸部の負傷箇所を左掌で押さえている。
 その男……警護要員と思しき男は、何事か喚きながら小さな拳銃を乱射する。
 実に小賢しい乱射。耳障りなだけで掠りもしない。十m以上離れているが、その拳銃でその距離の意味が分かっていない人間の発砲だった。或いは、それをかなぐり捨ててでも自分を負傷させた女に一矢報いたいために命と引き換えに立ち上がって乱射を浴びせているのかもしれない。
 蚊が飛んでいたから殺虫剤をまいた。そんな仕草でブローニングの銃口を向けて無造作に引き金を引いた。喚き散らす声が消えるのと、コルトの豆鉄砲が六発撃ち、沈黙するのと、男の鳩尾に血飛沫の花が咲くのはほぼ同時だった。
 無駄なタマを撃ってしまった。
 これでは今から涼子が為そうとしている事が不完全燃焼で終わってしまう。
 涼子自身はコルトの懐中拳銃の男の命など、全く意に介していないが……。
 今の今まで、彼女の発砲は悉く命中し、相手に脱落するに足る負傷を負わせている。
 それだけでも彼女を特筆すべき存在だとして評価するに値するが、涼子自身が、「自動拳銃とは撃てば負傷の具合は別として当たる物だ」という観念でいるので、自分の拳銃の腕前が素人には有り得ないラッキーパンチの連続であることに気が付いていない。それもまた、彼女を増長させる一因だった。
 今の彼女は、世界に愛されている。
 このどうしようもない、変動性、不確実性、複雑性、曖昧性の世界で彼女は一番世界に愛されていた。スピリチュアルな何かに憑りついたと解釈されても仕方がないほどに彼女は幸運を享受していた。そして、幸運を幸運だと認識できないほどの狭い世界に存在する認知能力の持ち主だった。
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