歪んだ弾道

 脳機能の恒常性。
 拳銃を撃つ直前まで緊張でアドレナリンが沸騰していたのに、撃った数秒後から脳から血の気が引くような感覚を覚えて、様々な雑念や情報や感情が足の裏から冷たいコンクリートに流れ出るような錯覚を感じた。
 安全装置という物らしいレバーを操作して、人差し指を眺めていると、心に涼しい風が吹いた。
 次の瞬間には、腹の奥底からドス黒い衝動が湧き出るのを感じ、血液が沸騰した。
 高揚感。万能感。自己効力感。……それらを纏った暴力衝動が腹と頭と胸で同時に噴出するのを実感した。
 この拳銃が有れば何でもできる! 美咲を殺したヤツを殺す事ができる! 世界中、どこでも生きていける!
 それからだ。
 涼子が、自分の無実を証明するという『都合のいい大義名分』の名のもとに、美咲の復讐と真犯人への反撃を『混同して目標とした』のは。
 警察の執拗な尾行を振り切り、尾行から追跡に変わっても、追跡から指名手配に変わっても、彼女は逃げ続けた。そして真犯人の神崎徹を追い続けた。追い続ける事が出来た。今も追い続けている。

 ※ ※ ※

 涼子の執念と暴力的動機が今夜、実を結ぼうとしている。

 情報収集と尾行により、涼子は神崎が今夜、隣県港湾部の廃工場で、闇ブローカーの仲介で裏社会の人間と取引を行うことを突き止めた。
 取引のブリーフケースの中には、美咲が命を懸けて集めた、神崎の横領と情報漏洩の全ての証拠が収められている。
 美咲が集めたSDカードの情報は恐らくはそのコピー。その可能性が高い。中身の真偽の確認は電子署名が証明してくれるだろうが、それは涼子の興味の範疇ではない。
 美咲の復讐と真犯人への反撃。
 それが直接の目的。
 表向きの『無実の証明のための行動』は、彼女が自分の心のうちに渦巻くどす黒い感情を言語化したくないので、見て見ぬふりをした結果、自分を慰める防衛機制として、これから行おうとする暴力の大義名分に『無実の証明のための行動』を掲げたのだ。

涼子は立ち上がった。全身に緊張が走る。いやな冷や汗が背筋を這う。

――――十発。この十発で……。
――――私の人生を取り戻す。美咲を殺した神崎を殺す。どこまでも逃げる。

 歪んだ怒りと抑えられない悲しみの感情に飲み込まれたままの、目的と目標が混同している涼子の脳内ではあらゆる歪んだ思考が渦巻いていた。
 『自分の感情を晴らすためにも倒すべき人間は殺すべきで、存在を否定すべき。』
 『この世には倒すべき人間とそうでない人間がいる。』
 『倒すべき人間を倒せば全ての問題がたちどころに消える。』 
 『ここで倒さなければ、未来永劫、自分は惨めなまま。』
 『自分は引き金を引くだけの矮小な存在であると同時に、目的のために引き金を引ける偉大な人間である。』
 『世の中の全てが悪い。その中でも倒すべき人間は絶対の敵である。』
 『自分の感情こそが本質であり、そこへは誰しもが立ち入ることができない。』
 『それに美咲は自分と出会わなければ死ぬことはなかった』
 ……という感情を全く処理しきれないまま、その状態そのものを原動力として警察を振り切り、真犯人の神崎の手の届くところまできた。負の成功体験が彼女の思考の歪みに加速を促していた。
 彼女はブローニング M1910を黄土色のジャケットの右ハンドウォームポケットに隠し、夜の闇へと飛び出した。
 飛び出した倉庫街の元管理事務所を背後にし、目指すは、倉庫街を抜けた先にある港湾埠頭部へ通じる途中にある廃工場。元は規模の小さな紡績工場だったらしい。
 廃工場は、生臭い潮風と血を思わせる錆の臭いが混ざった、陰鬱な空気に包まれていた。
 月明かりのない夜。光源が乏しい。
 廃工場の巨大な影が、暗い中にあって一層暗く見える。その姿は恰も、涼子を飲み込もうとする巨大な怪物のようだった。
 涼子は廃工場へと歩みを進める。今更警戒も何も無い。
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