昏いうた

 殴り合いができる距離まで気配を隠し続けることができるかなりの手練だが、たった一発の38口径でその場に呻きながら沈む。……彼が弱いのではない。彼が潜んでいることを察知して、何も知らぬ顔でそこを通り過ぎようとする演技に徹していた巴のほうが、この場では一枚上手だった。巴よりもやや年上だと思われる男は作業用ブルゾンの上下に身を包んでいた。そのブルゾンが血でみるみる汚れていく。
 足元の短ドスを遠くへ蹴り飛ばし、爪先で男の脇や腰を蹴りながら、彼の悲鳴を聞きながら、他に武器を持っていないか、靴の爪先で調べる。
 腹部の被弾が苦しいのか、立ち上がる気力すら見せない男がそれ以上武装していないと分かると、興味を失った顔で歩き出す巴。
 
────あー、びっくりしたー!
────『あんなの』が居たんだ!

 能面のような表情と一致しない感想。
 彼女は極度の緊張で軽い遊離感を覚えているらしい。今の現実を現実と把握できないストレスを切り離す脳の働きだ。即ち、彼女の精神状態は非常に脆い状態にある。
 針の一突きで何もかもが決壊しそうな危うさを孕んでいるが……実のところ、このような経験は珍しくない。彼女の心境を二つに分かつ理由がそれだ。
 直接現場で戦っている自分と、その自分を俯瞰して観戦している自分。
 極度の緊張が生み出した彼女なりの心の守り方だった。
 歩みを進める。
 三下連中のトリガーハッピーじみた銃撃は散発的になっているが大きな移動は感じられない。大方、誰がこのフロアへ吶喊するか決めかねているのだろう。足踏み状態、結構なことだ。
 巴が最も警戒すべきポイントには必ず『誰かが潜んでいる』。
 それは疑わない。寧ろ、『誰も潜んでいない場合』のほうが恐ろしい。
 このホテルはホテル故に勿論のこと多数の客室が整然と並んでおり、廊下に立てばその数だけ、ドアノブが見える。
 どの部屋もドアは閉まっている。鍵がかかっているかどうかは調べない。クリアリングが狙いではないからだ。窓から差し込む光源。腕時計に視線を走らせる。午前11時23分。
 緊張感で潰れそうな自分と、自分を見る自分との不協和で異世界にでも放り込まれたような錯覚がする。
 そして、その感覚すらも「いつものことか」と眺めている自分がいる。
 耳鳴りがやかましい。喉が渇く。ヒステリー球が不快。拍動が五月蝿い。
 何もかもが嫌だ。
 放り出したい。逃げたい。
 心が、思考が、視座が、感情が大脳辺縁系に飲み込まれる。アドレナリンとドーパミンにハッキングされる。

 世界は昏い。

 正義の味方になりたかった。
 正義の味方もこんなに苦しかったのだろうか?
 いや、正義の味方はこんな場所でこんな事をしないから、きっとキラキラした美しい世界を創り出すことに満足感を覚えていたはずだ。

 ……巴の思考が昏く、沈んでいく。
 どうしようもない深く冷たく昏い奥底に着く。

────ああ、もうどうでもいいや。

 刹那、巴は腰をストンと落とし、両足を踏ん張り、停止した直後に、右手だけで構えていたS&W M10 FBIの銃口を『左、後方、右、左』へと体を素早く捻りながら発砲。
 それぞれの方向にある遮蔽に隠れていた、短ドスやカランビットナイフを手にした男たちの腹部や胸部に熱い銃弾を叩き込んだ。
 左手側の男はフィジカルが優れていたのか、直ぐに倒れなかったので、2発叩き込んだ。
 何れも名のある荒事師なのだろう。
 殺気がしない。殺意は有る。
 プロの刃物使い特有の空気を感じたのだ。その結果、何かに抗う事が一瞬、『どうでもよくなった』。ストレスが自覚しないレベルで侵食し、思考と意識が乖離を起こしている。
 今どき一対多数で同時に刃物で近接し、襲撃してくる手練はいない。自分にも矜持があるように、彼らにも矜持がある。
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