昏いうた

 みぞおちの辺りに冷たいものが落ちてくる感覚。喉が渇き、視野が狭くなる。
 アドレナリンの困った作用として視野狭窄がある。興奮で目の前のことに集中しすぎて、前頭葉の処理能力を最大化させる為に余計な情報を遮断させるために視野を狭くするのだ。
 
────先制するしかない!

 思考の停止。
 その善後策や一手先を読む能力の欠如。認知能力が低下しすぎて、『ここで発砲すればどうなるか?』『迎撃が最適解か?』『自分の本懐を遂げるには何を優先すべきか?』という行動教義に抵触する重大なドグマすら彼方の向こうへ押しやってしまう。……大脳辺縁系を扁桃体が騒ぐまま、感情だけに支配されると人間は原始的な選択肢しかできなくなる。
 全く知性的でない。
 そう、悔悟してももう遅い。
 巴は柱の角を遮蔽としていたが、その床に寝そべるように伏せて、頭を連中に向ける。そして両手でS&W M10 FBIを構えて突き出す。
 フィクスドサイト。狙撃に適したサイトではない。
 ハンマーはデホーンドハンマーで、撃鉄を起こした状態からの狙撃を意識した射撃もできない。事実上のダブルアクションオンリーのリボルバー。コンシールドキャリーとして選んだリボルバーで3インチ銃身が気に入っていたが、銃を抜く際にハンマースパーが衣服やシートベルトに引っかかり、抜き損じたことがあったので、思い切ってサードパーティ製のデホーンドハンマーと取り替えたのだ。
 重い引き金。二度引く。
 二つの大きな銃声。間延びせず直ぐに壁や床や天井に音が染み入る。
 38spl+P。
 右手前方を歩く男の胸部に小さな噴血が咲き、呻き声も挙げずに床に倒れる。
 左後方の男は大型自動拳銃──シルエットからしてSIG P226かそのコピー──を乱射しながら後退する。
 空かさず巴は一発、発砲。
 その熱い弾頭は男が背後の角を曲がる直前に下腹辺りを捉え、カエルを踏み潰したような悲鳴を挙げて体を二つに折って床に沈んだ。
 巴は急いで立ち上がりながら、きびすを返して廊下を走る。途中、再装填のために手元に視線を落とす。その時になって初めて、自分の視界が非常に狭窄していることに気がついて、首を大きく左右に振って、遠くの物体に視点を合わせて狭くなった視野を『晴らす』。
 追跡者はまだ複数いることが分かっている。追跡してきた車の数は合計2台だった。運転手は当たり前として、その他に荒事を職掌にする人間も同乗していると考えたほうが自然だ。更に増援も計算に入れる。
 再装填完了。床に捨てた空薬莢が化学繊維の絨毯の上で音もなく転がる。
 巴はさらに奥へと進む。
 廃墟の中は不気味な静寂に包まれていた。追撃してくる気配はあるのに話し声や足音は聞こえない。
 幼い頃、正義の味方になることを夢見ていた自分は、こんな場所で命を賭けて戦っている自分を想像できただろうか。……ふとそんなことを思い出して巴は自嘲気味に笑った。
 逃げるにしても応戦するにしてもこのホテルは広すぎる。人海戦術を行使しない限り、ホテルに潜む巴を限られた人数で探し出すのは難しいだろう。……外部へと脱出しても、恐らく愛車のフィットは連中の手によってパンクでもさせられているだろう。
 現在3階フロア、到着。
 エレベーターが使えないので階段を使って最上階を目指す。階下へ行けば行くほど、連中と出くわす可能性が高い。巴の脳内では『ホテルの四方八方から薄い密度で複数人が侵入し、各フロアをクリアリングしながら上階へと進んでいく』様子が投影されている。
 セオリーとしてはそんなところだろう。
 たった一人の人間を追跡するのにそれだけも戦力を割く組織があるのか? と疑問に思うところもあるが、巴としては真顔でそう考えている。その根拠がジャケットの内ポケットに仕舞っているUSBメモリだ。
 デジタルデータなのにネットを介して運搬できない重要なブツ。
 ネットのハッキングを警戒してのことだろう。大方、このUSBメモリもスタンドアロンのパソコンで読み取るつもりなのだろう。
 中身はそれだけ大事なものだと推し計れる。
 そして、決して低価格では仕事はしない、『腕利きで有名』な巴を雇う依頼人。
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