昏いうた

 苦悶に伏せた一人が上半身を上げて這うように巴に近づくが、手にしたカランビットナイフを振りかざすこともできず……巴に無言で銃口を向けられて、男はナイフを捨て顔を伏せた。
 彼の心が折れてしまった。彼には恨みはない。彼もまた金で雇われただけだろう。
 巴はS&W M10 FBIを再装填しながら歩みを進める。
 目指すはもう一箇所の重要なポイント。そして最も警戒すべき場所。
 屋上へ通じる扉。
 そして、そこへ通じる廊下。たった8mほどの直線の廊下。それが巴の経験則では一番危険な場所であり、通過せねばならない場所だった。
 屋上へ通じるドアを解放してしまえば勝ったも同然だ。否、逃げられたも同然だ。
 連中がホテル内部でおっかなびっくりと探索しているうちに、『昨日のうちに100円均一ショップで買った、クラフトペーパーのポチ袋のダミーを、隠せそうなところにそれらしくねじ込んでおけば完了だ。中身は家電量販店で買ったフォーマットすらしていない同型に近いUSBメモリが入っている』。
 背後ではうめき声や足音が聞こえてきたが、不意に、足音が途絶える。
「?」

────なんだ? 連中の足音が……?

 立ち止まり耳を澄ませる。
 今居る場所は客室フロアの廊下。
 左手側には整然と並ぶ大きな窓。
 右手側には客室のドアが並ぶ。
 カビ臭い湿度を孕んだ空気。
 歩く度に軽く浮き上がる埃。
 壁は、触れると指先がチョークの粉塗れのように白くなるほど風化した壁紙。
 背中が痛い。
 氷の針を差し込まれたように痛い。
 誰かに見られている。
 誰かがすぐそこに居る。
 目を見る。
 後ろを見る。
 階下の連中の騒ぎ声が階下から聞こえる。
 その騒ぎ声がこちらにやってくる気配はない。……あたかも、連中は透明の壁によって侵入できないような障害にぶち当たっている。そんなイメージを抱く。
 『誰かが、居る』。
 既に視界に、誰かが、何かが入っているはずだ。見えているはずだ。
 気配はしない。
 呼吸も衣擦れも聞こえてこない。
 体臭もしない。
 静かに、静かに、確実に自分の命を奪いに来ている誰かが『すぐ近くに居る』。
 自分がそいつなら、思いもつかない方法で登場するだろうな。 

 幼い頃に憧れた正義の味方はいつも後手後手だった。怪人が現れてから対処療法のように出動して問題を片付けた。先手を打って相手の戦意を挫くことなど一度もなかった。
 正義の味方が正義の味方として活躍するには正義と対極をなすとされる悪の組織が必要で、悪は根絶してはいけない。
 狡兎死して走狗烹らる。
 戦乱では英雄が持て囃されるが、平和が続くと英雄は邪魔だ。だから、国を掌握した英雄は求心力を高めるために戦争を繰り返した。結果、滅んだ国は古今東西の文献で山のように見られる。
 正義の味方なら怪人と戦う時にどんな戦略を遂行するためにどんな戦術を立てて、具体的にどんな作戦を『自力で立てたのだろう?』
 思考が乖離する。
 極度の緊張が遊離感を招く。
 だが、正義の味方はいつも予想もしない怪人の妙な作戦を小さなヒントを手がかりに解決していた。

────自分が『怪人』なら……。

 巴は弾かれたように窓から遠ざかる。ほんの1mほどの移動だったが、その距離が明暗を分けた。
 巴が飛び退くのとほぼ同じタイミングでそいつは現れた。
 窓ガラスを破って。
 屋上からのラペリングで。
「!」
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