昏いうた
今時珍しい、喫煙が可能な喫茶店でシガリロを吸いながら、松山巴(まつやま ともえ)は紳士用クロノグラフの腕時計に目をやった。腕枷のように重々しいシルバーのそれ。
待ち合わせの時間はもう過ぎている。2分も遅れている。この世界では『指定した時間にやってくるか否か?』……それだけで駆け引きと見做されるのだ。ただの遅刻では言い訳できない場合などは日常茶飯事だ。
依頼人から指定された今回のブツの引受。
状況から鑑みるに、昼間の喫茶店で、人前でやりとりしても見た目に問題がないブツを運ぶのだろう。
松山巴。30歳。表向きは自称無職。実際には闇社会の【運び屋】として糊口を凌いでいる。
何でもかんでもがデジタルで管理される時代に移ろいを見せても、最前線で働くのはマンパワーだ。裏の世界ほどマンパワーを欲する世界はない。
旧い世代の上層部や指導者がどんなに新世代のテクノロジーの利便性を理解しても、それを自分で使いこなすのではない。使いこなせる人間を集めてくるのが仕事だ。そして、使いこなせる人間をスカウトできるほどの交渉術の達人を雇うのも職掌のうち。……どんなにデジタルだのAIだのが幅を利かせても、意思で決定するのはまだまだ人間だ。……尤も、最近旗揚げしている新興勢力はAIエージェントなるモノを導入し、組織や人員の管理と運用も丸投げをして上前を堂々と跳ねているらしい。
この裏の世界もそろそろIT強者によって勢力図が塗り替えられそうな、そんな厭世的な雰囲気すら漂っている。
「…………」
シガリロの煙に目を細める。彼女の視線が鋭く絞られる。獲物を見つけたというよりは、喰えるか否かを判断している目だ。
巴の視線の先……喫茶店の入り口に、中年手前の小太りの男が不安げに立っていた。紺色のスーツに身を包んだ、うだつの上がらないサラリーマン風で額に脂汗を浮かせている。まだまだ暑い時期だ。暑さで汗をかいているのか。
……いや違う。
緊張の汗だ。
距離5m。垂れる汗の質を観察。暑さでの汗ではない。脂汗だが、頭から湧くような滴り方ではなく、汗の玉がとろとろと額や顔に垂れている。
緊張の汗に多いタイプだ。
どうやらこの男が今日の依頼主らしい。厳密には依頼主のメッセンジャーだろう。だとすれば汗も納得だ。
メッセンジャーは依頼人の敵だけでなく、依頼をすべき【運び屋】の機嫌を損ねて破談にされるリスクの高い交渉も職掌として含んでいる。しかも割に合わない話で、この場合は概ねして、下っ端の仕事なのだ。
中年期に差し掛かろうというのに落ち着きがなく、挙動不審。裏の世界の人間として成功できないタイプだろう。成功できずに、知らぬ間に表裏の世界の淵で細々と生き延びているタイプだろう。
巴はシガリロを灰皿に押し付けると、ゆっくりと立ち上がった。
男は巴の姿を確認すると会釈をして彼女のテーブルまでいそいそとやってきた。
彼は小声で社交辞令的な挨拶を交わすと、巴と共に席につき、辺りを一瞥した後に、スーツのハンドウォームからクラフトペーパーで作られたポチ袋を取り出した。お年玉でお馴染みのポチ袋だ。
ふざけてんのか? と巴は凶相を作り睨みつける。彼は今度は汗が引かんばかりに顔を青褪めさせて、萎縮しながら、背中を丸め気味にして話しだした。
「これです……。中身はUSBメモリです。指定の場所まで届けていただきたい」
依頼を受ける前に彼の上層部、つまりクライアントの組織や個人を調べた。そうしないと報酬の交渉もできないし、仕事の危険度も測れないからだ。ありとあらゆる方向から検討してこの仕事を前金と後金で受けることにした。
その時点では電子メールで隠語多用の『依頼内容』が送信されており、大方の仕事内容は把握していた。そもそもその文面は、電子メールを盗み見ても、隠語を解読されても大して困らないというクライアントの自信の表れでもある。
彼は自分の汗を気にしているのか、始終、ハンカチ越しにポチ袋に触れており、それを巴に手渡した。
待ち合わせの時間はもう過ぎている。2分も遅れている。この世界では『指定した時間にやってくるか否か?』……それだけで駆け引きと見做されるのだ。ただの遅刻では言い訳できない場合などは日常茶飯事だ。
依頼人から指定された今回のブツの引受。
状況から鑑みるに、昼間の喫茶店で、人前でやりとりしても見た目に問題がないブツを運ぶのだろう。
松山巴。30歳。表向きは自称無職。実際には闇社会の【運び屋】として糊口を凌いでいる。
何でもかんでもがデジタルで管理される時代に移ろいを見せても、最前線で働くのはマンパワーだ。裏の世界ほどマンパワーを欲する世界はない。
旧い世代の上層部や指導者がどんなに新世代のテクノロジーの利便性を理解しても、それを自分で使いこなすのではない。使いこなせる人間を集めてくるのが仕事だ。そして、使いこなせる人間をスカウトできるほどの交渉術の達人を雇うのも職掌のうち。……どんなにデジタルだのAIだのが幅を利かせても、意思で決定するのはまだまだ人間だ。……尤も、最近旗揚げしている新興勢力はAIエージェントなるモノを導入し、組織や人員の管理と運用も丸投げをして上前を堂々と跳ねているらしい。
この裏の世界もそろそろIT強者によって勢力図が塗り替えられそうな、そんな厭世的な雰囲気すら漂っている。
「…………」
シガリロの煙に目を細める。彼女の視線が鋭く絞られる。獲物を見つけたというよりは、喰えるか否かを判断している目だ。
巴の視線の先……喫茶店の入り口に、中年手前の小太りの男が不安げに立っていた。紺色のスーツに身を包んだ、うだつの上がらないサラリーマン風で額に脂汗を浮かせている。まだまだ暑い時期だ。暑さで汗をかいているのか。
……いや違う。
緊張の汗だ。
距離5m。垂れる汗の質を観察。暑さでの汗ではない。脂汗だが、頭から湧くような滴り方ではなく、汗の玉がとろとろと額や顔に垂れている。
緊張の汗に多いタイプだ。
どうやらこの男が今日の依頼主らしい。厳密には依頼主のメッセンジャーだろう。だとすれば汗も納得だ。
メッセンジャーは依頼人の敵だけでなく、依頼をすべき【運び屋】の機嫌を損ねて破談にされるリスクの高い交渉も職掌として含んでいる。しかも割に合わない話で、この場合は概ねして、下っ端の仕事なのだ。
中年期に差し掛かろうというのに落ち着きがなく、挙動不審。裏の世界の人間として成功できないタイプだろう。成功できずに、知らぬ間に表裏の世界の淵で細々と生き延びているタイプだろう。
巴はシガリロを灰皿に押し付けると、ゆっくりと立ち上がった。
男は巴の姿を確認すると会釈をして彼女のテーブルまでいそいそとやってきた。
彼は小声で社交辞令的な挨拶を交わすと、巴と共に席につき、辺りを一瞥した後に、スーツのハンドウォームからクラフトペーパーで作られたポチ袋を取り出した。お年玉でお馴染みのポチ袋だ。
ふざけてんのか? と巴は凶相を作り睨みつける。彼は今度は汗が引かんばかりに顔を青褪めさせて、萎縮しながら、背中を丸め気味にして話しだした。
「これです……。中身はUSBメモリです。指定の場所まで届けていただきたい」
依頼を受ける前に彼の上層部、つまりクライアントの組織や個人を調べた。そうしないと報酬の交渉もできないし、仕事の危険度も測れないからだ。ありとあらゆる方向から検討してこの仕事を前金と後金で受けることにした。
その時点では電子メールで隠語多用の『依頼内容』が送信されており、大方の仕事内容は把握していた。そもそもその文面は、電子メールを盗み見ても、隠語を解読されても大して困らないというクライアントの自信の表れでもある。
彼は自分の汗を気にしているのか、始終、ハンカチ越しにポチ袋に触れており、それを巴に手渡した。
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