野良学者の没論

 それから4日後の夜、ユキは再びアルバイトの帰り道……例の路地を避けて大通りを通ることにした。けれど、大通りは街灯も多く、人通りもそれなりにあるため、安全だと油断していた。
 その時だった。
「よお、嬢ちゃん。この間は、とんでもない真似してくれたな」
 背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
 ユキは脊髄反射的に振り返った。振り返ってはだめだと大脳辺縁系は叫んでいたのに、生理的反応をしてしまった。
 そこに立っていたのは、先日ユキを襲った男たちのうちの一人だった。顔には黒い使い捨てマスク。目を見れば、歪んだ笑みを浮かべているのが分かる。
 やや体の中心線が歪んでいる。あ、とユキは男と目が合うと……自分よりも頭一つ大きな男と目が合うと、意外なほど冷静に、体幹のブレを見抜いた。

────足を撃たれたから真っすぐ立っていると痛むんだ。

 右足のジーンズのふくらはぎに不自然な膨らみが有った。そこが負傷箇所で包帯を巻いているのだろう。
「てめえ、よくも俺の足を……!」
 男はそう叫び、ユキに向かって駆け寄ってきた。足を負傷していても5mの距離を一気に詰めるには問題ない痛みらしい。
 ユキは一瞬にして身体が硬直した。まさか、こんな場所で、再び彼らの一人に遭遇するとは。
 けれど、次の瞬間、ユキの身体は反射的に動いた。
 トートバッグからS&W M351cを抜き放とうと手を差し込む。それを見た男たちは顔を後ろへそらし気味になり、急ブレーキをかけて停止した。怒りに狂った血走った目でユキを睨んで何事か罵声を吐いて、雑踏に向かって消えた。
 男たちが目の前から雑踏へと向かって消えた。

────まさか……ね。

 自分でも恐ろしいほどに頭が冴えてくる。
 危険な目に遭うのに慣れたとか、対処能力が向上したとか、そのようなメンタルやフィジカルな側面での変化ではない。
 男たちは恐ろしいが、『犯罪者として見た場合、意外なほど小物だった』と確信したのだ。
 根拠はさっきの反応だ。
 人混みを歩いているから銃を持っていても撃たないだろうとタカを括っていたのに、大脳辺縁系に支配されたユキの表情は恐らく『脅威を排除する野生動物』のような顔をしていただろう。……それは、明確な殺意。無意識に抱いた、殺意の籠もった目。
 連中は、人混みの中でもこの女は銃を抜き即座に撃ち殺すと思い込んで、度肝を抜かれて驚愕し、急ブレーキをかけて逃げ出した。
 衆人環視の中でも自分たちの優位性のアピールを怠らないのは、彼らに『過去に、同じ状況で仕返しをした時の成功体験』が何度もあるからだろう。
 その上、2人並んでいつも同じ登場。……これも特徴的だ。男2人が並んで視界に入るとそれだけで圧迫感がある。圧迫感を感じる人間は途端に不快を覚えて防御的行動に出る。
 その場合、様々な防御行動が予想されるが、その辺りも男たちは成功体験から学んでいた。被害者は思わぬ場所で自分を襲った犯人と出会うとパニックで思考が停止し、認知機能も著しく低下する。……自分たちがトラウマを確実に植え付けたという自負だ。
 男たちの成功体験が、ユキが銃を本気で抜いて本気撃つ『顔と眼』をしていたので、自分たちは踏んではいけない獣の尾を踏んだのだと悟り、脱兎のごとく遁走した。ユキもその隙に逃げ果せる事が出来た。
 男たちは使い捨てマスクのお陰で素顔は相変わらず分からずじまいだが、ユキは2つの意味で大きく驚かなかった。
 一つは男たちは小心者で普通の人間だということ。
 もう一つは、言語化の効果だ。見えない不安を抱えているのだから見えるレベルまで不安を可視化させて対応対処を考えあぐねて、善後策とする。先制の予防はネットに流布している。『自分が必ず狙われることだけに、連中の意識を集中させていれば』、思考が一瞬で旧い脳である大脳辺縁系に支配されても、何もできない小娘のように泣き崩れることもない……。
 和喫茶で湯呑茶碗と語りながらメモに書き留めた内容を整理したジャーナリングは心理的に大きな武器となったのだ。
 その後、ユキは自宅に無事に帰宅。後ろ手に鍵をかけた途端、風船が萎むようにその場に座り込んで腰を抜かしてしまった。
 方法論が判明しても、胆力もそれで強化されたわけではない。彼女も普通の人なのだ。
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