野良学者の没論

 凶悪犯罪が全国的に問題になっている今、自分だけの問題ではない。
 ユキはスマホを手に取り、警察の緊急ダイヤルに電話をかけた。
 心拍亢進。呼吸が早く浅い。朝の早くからコルチゾールが正常値以上に分泌されて扁桃体が騒ぎ立てる。交感神経が脳を支配する。
 指が震え、なかなか番号が押せない。それでも、深呼吸を繰り返し、瞑目し、数分後に意を決してダイヤルした。
「もしもし、警察ですか? あの、昨日の夜、襲われて……それで、私、護身用に持っていた銃を……はい、ライセンス、有ります!」
 電話口の向こうから、事務的な声が聞こえてくる。
 ユキは言葉を選びながら、昨夜の出来事を簡潔に説明した。
 場所、時間、男たちの特徴。そして、自分が銃を発砲したこと。
「……命中したかどうかは、ちょっと分かりません。でも、その場からは逃げることができました」
 電話を切ると、ユキは再びベッドに倒れ込んだ。
 全身の力が抜け、鉛のような倦怠感に襲われる。何もする気になれない。思考が停滞している。……否、情報量が多い上に人生初の経験が多すぎて、ユキのワーキングメモリが完全に逼迫状態なのだ。
 警察への通報で、担当部署の警官が来るまで、自宅のハイツで待機するしかない。
 数分後、玄関のチャイムが鳴った。警官が来る手はずになっていてもやはり驚いてしまう。心の傷が形成され、物音が恐怖に変換されている。
 訪れたのは、2人の警察官だった。一人はベテランらしき中年の男性警察官、もう一人は若い女性警察官だ。通報者が女性だったので警察側の配慮で女性警察官を手配してくれたのだろう。深夜に独り歩きの女性が2人の男に襲われたとあってはデリケートな部分に聴取が及ぶ場合が多い。
 2人はユキの顔を見るなり、心配そうな表情を浮かべた。
「お怪我はありませんか、津村さん」
 ベテラン警察官が、柔らかな口調で尋ねる。ユキは青い顔のまま、首を振った。自分でも無理をして他人とコミュニケーションを取ろうとしているのが分かる。脳が働かない。粘度の高い液体を流し込まれたように思考が鈍い。
「はい、大丈夫です……多分」
 ユキは彼らをリビングに通し、改めて昨夜の状況を説明した。
 シリンダーを解放し、6発の実包と、1個の空薬莢を並べてS&W M351cテーブルの上に置く。
 発砲した時の状況、男たちの反応。そして、その時の自分の恐怖。
「発砲されたのは、この拳銃ですね? 確かに登録されています」
 女性警察官が、テーブルに置かれた銃と手元のタブレット端末を見て尋ねる。ユキは頷いた。女性警察官の指先には先程渡した、マイナンバーカードが挟まれている。
「はい……」
「念のため、この銃は鑑識に回させていただきます。それから、現場の状況を確認しに、一緒に向かっていただきますが、お時間は大丈夫ですか?」
 ユキは、再びあの場所に行くことに逡巡したが、それがライセンスを持つ自分の義務だと理解していた。重い足取りで警察官と共に家を出た。
 夜明け直後の薄明るい空が、目覚め始めた町を覆いつくす。

 現場となった細い路地は、夜が明けても尚、陰鬱な雰囲気をまとっていた。
 街灯はとうに自動で消えており、周囲の住宅はひっそりと静まり返っている。
 警察官たちがユキの聴取の通りの場所をスプレーで特殊な液体で地面や壁を濡らし、何か痕跡がないかを確認している。
 ユキは、昨夜、自分が立っていた場所にそっと足を踏み入れた。あの時の恐怖が、鮮明に脳内に蘇る。
 男たちの荒々しい声、掴まれた腕の感触、そして、引き金を引いた時の衝撃と銃声……。軽い目眩を覚えたが、ここで倒れてはいけないと奮起して、両足の裏に力を込める。
「何か、変わったことはありませんか?」
 ベテラン警察官がユキに尋ねる。ユキは周囲を見渡し、首を横に振った。
 何も変わっていない。けれど、昨夜、この場所で確かに、自分は銃を撃ったのだ。
 その時、女性警察官が声を挙げた。
「こちらに!」
 ユキとベテラン警察官が駆け寄ると、女性警察官が指差す先には、壁の低い位置に、微かな血痕が付着していた。血痕の付着を示す反応が出ていた。
 そして、その下には、何かが地面に落ちたような小さな窪みが確認できた。
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